境界を越えて旅するブッダ―インド、中東、ヨーロッパ、日本―

 違う宗教の人々が同一の人物を聖者、聖人として尊んでいるというのはしばしば見られる事例です。有名所ではドラゴン退治で知られイングランドの守護聖人でもある聖ゲオルギウス(聖ジョージ、アラビア語ではマール・ジュリエス)がパレスチナのムスリムの間でも崇敬されており、リッダ祭と呼ばれる祭日にはキリスト教徒もムスリムもこぞって彼の墓所に詣でるとのこと*1
 またやや知名度に劣るものの面白い事例として、カトリックの聖人として聖別されているフランスの聖王ルイ9世についてのものがあります。彼は十字軍で向かった先のチュニジアで没しているのですが、現地チュニジアの伝承ではイスラームに改宗し聖者となって人々を教化して後、この地で亡くなったということになっているそうで*2
 これらはいずれも聖者、聖人の話ですが、ある宗教の開祖が系列関係にあるわけでもない他宗教に肯定的なイメージのまま取り込まれてしまう事もありました*3。それが今回の主題、仏教の開祖、ブッダの物語の遍歴です。

 言うまでもなく仏教誕生の地はインドですが、現存する世界宗教のうち、仏教と初めて接触したのはイスラームでした*4。仏教は徐々に東遷していき、インドではヒンドゥー教が多数を占めるようになっていきますから、ムスリムと仏教徒の接触があったのは7世紀半ばから9世紀頃までということになります*5
 この時期のムスリムは仏教の教義についてもそれなりに関心を持っていたようで、書店主で文献学者でもあったイブン・アン=ナディーム(932頃-990)は『フィフリスト』の中で仏教徒のことを「シャマーニーヤ」すなわち沙門教徒と呼び、ブッダが信徒たちに神の言葉を伝えた旨述べています*6。また、『諸分派と諸宗派の書』で有名な分派学者シャフラスターニー(1076-1153)に至っては仏教でいうところの六波羅蜜や十善業をほぼ理解していたといいます*7
 学者たちの関心とは別に、民間でもブッダ伝は広く知られていたようで、四門出遊の逸話(シャカがまだ太子の頃、王城の四つの門でそれぞれ苦しんでいる人たちを見て出家を決意したというエピソード)を元にしたと思われる『ビラウハルとブーダーサフの書』という書物(ブーダーサフは菩薩の転訛)が流通していたとのこと*8
 おそらくは仏教の教義がどうこうというより、人生に普遍的な苦しみを扱う物語であるがゆえに広がったのでしょう。

 面白いのがこの書物の遍歴で、イスラーム世界に隣接していたグルジアにおいて翻訳が行われ、そこから『バルラームとヨサファット』というタイトルでキリスト教世界にも広がっているのです*9
 先に書いた通り仏教そのものは東遷していき、6世紀には日本にも伝来していたわけですから、ブッダの行状が形を変えユーラシアの東端と西端にまで到達していたということになります。
 ところが話はこれで終わらず、大航海時代に宗教的使命感に燃え、荒海の東アジアへ繰り出した宣教師たちは布教のため手に聖者伝をたずさえていました。この聖者伝の中に先の『バルラームとヨサファット』も含まれていました。
 これは最終的にローマ字表記で日本語訳され、1591年に発刊された聖者伝集『サントスの御作業』に「さん・ばるらあんとさん・じよざはつの御作業」として収録される運びとなったのです*10
 東へ向かったブッダと西へ向かったブッダが海を渡って同じ場所へたどり着いたわけですが、さて当時の日本人はこれらが元は同じであると気付いていたのでしょうか?
 いずれにしても、ローカライズされながらもユーラシアを半周づつして日本で再び出会った物語に、宗教圏を越えるブッダの魅力というものを感じるのでありました。

*1 菅瀬晶子『新月の夜も十字架は輝く』pp.35-36
*2 那谷敏郎『紀行モロッコ史』p.202
*3 逆に言えば系列関係にある宗教では珍しくはない。例えば、アブラハム系一神教において、イエスはキリスト教のみならずイスラームでも預言者である。
*4 なお既に滅びた世界宗教としてマニ教があるが、マニ教の開祖マーニー・ハィイェーは戦略的かつ積極的に既存宗教の取り込みを図り、イエス、ゾロアスター、ブッダの後継者を名乗っている(青木健『マニ教』pp.80-81)。
*5 小布祈恵子「ムスリムから見たブッダ」『クルアーン入門』p.475
*6 The Fihrist, pp.824-825
*7 森本公誠「仏教」『新イスラム事典』
*8 同前。
*9 岩瀬由佳「『ビラウハルとブーザーサフ』」『岩波イスラーム辞典』
*10 同前。

ツァラトゥストラかく謡いき―フレディ・マーキュリーとゾロアスター教コミュニティ―

 少し前の話題になりますが、伝説的なミュージシャンであったフレディ・マーキュリーの生涯を描いた映画、『ボヘミアン・ラプソディ』が大ヒットしました。私は恥ずかしながらこの映画を見るまで知らなかったのですが、フレディはゾロアスター教徒の家系の生まれとのこと。劇中でも出てきましたが彼の本名はファッロフ・ブルサーラー*1。ファッロフはペルシア語圏によく見られる名前です。
 劇中、フレディの父親ボミが「良き思い、良き言葉、良き行い」と何度か口にしますが、これはゾロアスター教の信仰告白である「フラワラーネ」の最後の部分にある一節*2

 ゾロアスター教は周知の通り、善神アフラ・マズダーを信仰しており聖火に向かって礼拝する善悪二元論が特徴の宗教です。世界最初の啓示宗教とも呼ばれ、その教義はユダヤ教・キリスト教・イスラーム等のアブラハム系一神教に取り入れられ、北伝仏教にも影響を与えたと考える研究者もいます*3。サーサーン朝ペルシア帝国(226年-651年)の時代には国教の地位を占めましたが、イスラームの大制服によってサーサーン朝が滅びると「啓典の民」の地位を確保することはあったものの*4、次第に数を減らし少数派となっていきました。

 さて、フレディの出身ですが、ゾロアスター教と聞いて普通に思い浮かべられるイランではなくアフリカ東岸のインド洋上にあるザンジバル島とのこと。何故なのかというと少し話が長くなります。
 まず、イランのゾロアスター教徒はムスリム(イスラーム教徒)が多数となる中で信仰を細々と守ってきましたが、10世紀前半頃、新天地を求めてインドのグジャラート地方へ集団で移住する者が出てきます。これがいわゆるパルーシー(原義はペルシア人)で、彼らはイランのホラーサーンへ使者を送ってゾロアスター教の聖火を取り寄せ、インドに信仰の火を灯します*5
 この後、インドのゾロアスター教コミュニティは紆余曲折ありながらも人数を増やし、(少し古い数字ですが)現代のゾロアスター教人口はイランに5万人、パキスタンに5千人、インドに8万人と言われており*6、本家のイランよりもインドの数字の方が大きくなっています。パルーシーのコミュニティには経済的に成功した人物がしばしば見られ、中でも現代インド最大の財閥として知られるタタ・グループはその最たるものでしょう*7

 ただ、それにしたところでインドはヒンドゥー教徒人口が圧倒的に多数であり、またムスリム人口も相当数おり、ゾロアスター教徒が人口の面であれば吹けば飛ぶような存在であることは変わりませんでした。
 近代、イギリス帝国は植民地支配において、現地の少数派を植民地官僚として登用し支配を広げていきます。
 一方のザンジバルは1890年にイギリスに保護国化されており、これと前後して同じくイギリスに支配されていたインドとの繋がりが強くなってきていました*8。この時期、ザンジバルのインド系人口も増加しています。
 フレディの父親ボミはこの時代の流れとイギリスの政策に乗り、インドからザンジバルに渡って植民地官僚として働いていたのです*9。1964年、前年に独立していたザンジバルでは革命が発生し、選挙によって選ばれたアラブ系の政権がアフリカ系の人々により排除され、アラブ系の人々や旧支配層などはイギリスやエジプトに亡命するところとなります*10。植民地官僚として働いていたボミも家族を連れてイギリスへと渡ります。フレディは1946年生まれですから、これが18歳になる年のことでした。

 イギリスへ渡った後のフレディはよく知られている通り(そして大まかには映画で描かれたように)、大スターへの道を進み、エイズで惜しくも45歳という若さで亡くなります。
 映画ではゾロアスター教の徳目を押し付ける父親を煙たがっていたフレディが、ライブ・エイド(20世紀最大のチャリティコンサート)の直前にボミと会って「良き思い、良き言葉、良き行い」について会話をし、抱擁するシーンがあります。彼がどの程度ゾロアスター教の教義に関心を持ち、実践的であったのかは私には判断する知識も能力もありませんが、彼はペルシア人を名乗り(インド出身だとは言わなかったそうですが)*11、死後少なくとも土葬ではなく火葬されたそうです。本来、ゾロアスター教の教義では死体は風葬(ないし鳥葬)されるのが理想なのですが、近代以降のインドのゾロアスター教コミュニティでは諸々の問題から火葬を選択するパルーシーも増えてきていたようです*12
 映画のように分かりやすい構図だったかはともかく、フレディの心にある程度は長い道のりをたどってきた一族と、ゾロアスター教への思いがあったことは間違いないのではないかなあと思うのでした。

*1 青木健『新ゾロアスター教史』 p.275 映画では英語訛りなのか少し異なる表記だった。
*2 「私は、よく考えられた思考をすることを自ら誓い、よく話された言葉を話すことを誓い、よくなされた行動をなすことを誓う」。メアリー・ボイス『ゾロアスター教』 p.86
*3 ボイス前掲書 p.27
*4 後藤明「啓典の民」『新イスラム事典』。啓典の民はムスリムに敵対しなければ宗教的自治が認められた。
*5 青木前掲書 p.250
*6 上岡弘二「ゾロアスター教」『新イスラム事典』
*7 タタ・グループについては青木前掲書 pp.264-273
*8 宮本正興・松田素二[編]『新書アフリカ史 改訂新版』 p.265
*9 青木前掲書 p.275
*10 富永智津子『スワヒリ都市の盛衰』 p.85
*11 青木前掲書 p.275
*12 ボイス前掲書 p.403

アグラバーはどこだ!? アラジンについて考える―地理と歴史と文学と―

 ディズニー映画『アラジン』の実写版が公開され、好評上映中のようです。かくいう私も観てきましたが、アニメ版よりも「自由」を強調している作劇で、今日的なテーマについて面白くわかりやすく表現されていたように思います。
 さて、この『アラジン』の舞台となっているアグラバー王国ですが、架空の国であるのは言を俟たないにしても、どのあたりの地域が想定されているのでしょうか?

 冒頭、ジーニーが歌う「アラビアンナイト」には「アラブの」ではなく「アラビアの」という歌詞が出てきますので、シリアやエジプト、マグリブなどを併せた広域アラブ世界のどこかというよりは、アラビア半島が舞台であると考えた方がいいでしょう。アグラバーの首都が港町であり、すぐ内陸部には砂漠があることもこの想定を裏付けています。
 ラクダが多く、馬がほぼ見られないこともアラビア半島である可能性が高い理由のひとつです。内陸部に砂漠があるアラブ圏と言えば北アフリカもそうなのですが、特にリビアのあたりは名馬の産地として知られており、馬が見られないということは考えにくいのです。北アフリカ=地中海地域であれば帆船よりも櫂船が多いと思われるので、これも北アフリカ説を退ける要因のひとつ。
 また、王国の名称「アグラバー」ですが、接尾辞aba(d)=「~の都」で終わる地名はペルシア語の影響の強いエリアによく見られ、現在でもトルクメニスタンのアシガバード、パキスタンのイスラマバードなどが存続しています。さらに、アグラバーの文化には衣装や舞踊などの面でインド風のものが多く、インドの影響が強く感じられ、一方王宮のデザインを見るとオスマン様式に近く、トルコ文化の影響もある模様。
 ペルシア(イラン)もインドもトルコも当然アラブではなく、ヨーロッパ側の「東洋」イメージを詰め込みごった煮にしている時点でオリエンタリズムの誹りは免れぬ……と言いたいところなのですが、実はこれらの条件について、微妙ながらも満たす可能性がある地域があります。

 もったいぶらずに言ってしまうと、答えは簡単でペルシア湾のすぐ南側、アラビア半島東北部です。アグラバーの首都が港町であり、「~の都」という意味の言葉がそのまま王国名になっていること、隣国にも同じような命名をされている国があることを思うと、港市国家が集まっている地域である可能性が高いでしょう。
 似たような条件のバーレーンは(現在の数字ですが)アラブ人人口が大半を占めるものの、イラン人8%、印僑なども相当数存在するようで、イラン、インドの文化的影響も強く、またトルコ文化の影響については覇権国家オスマン帝国のことを思えばそう不自然でもないかもしれません。
 アグラバーの王号はスルタンのようで(ジーニーがアラジンに「やめておいたほうがいい願い事」を説明する時に広げた図に何故かラテンアルファベットで書いてあります)、また主人公の名前がアラーウッディーン(ヨーロッパ訛りでアラジン)であることから、スルタン号および「○○ディーン」系のラカブ(尊称)が一般化している10~11世紀以降が舞台と見ていいでしょう。

 こう考えていくと、劇中、いいのは顔だけであまり聡明そうに見えない描き方をされているアンダース王子が(アグラバーが北アフリカでない以上)最終的に海路になるとは言え一度は陸路ムスリム国家の領地を横断し、使節団を率いて到着していることを思えば、女性関係はダメダメでも案外統率力のある御仁だったのかなあなどという想像も広がっていきます。これも実はスペインの使節団がエチオピアに来ている事例があり、まったく無いとは言い切れないのが面白いところ。イスラーム世界における女王については、マムルーク朝のシャジャル・アル=ドゥッルをはじめ、いくつか例がありますから、これもまあなくはないでしょう。

 もともと「アラジンと魔法のランプ」という物語は『千夜一夜物語』には収録されておらず、『千夜一夜物語』をヨーロッパに紹介したアントワーヌ・ガランがシリアで収集したものを千夜一夜物語の翻訳に組み込んだことによって千夜一夜物語の一部として知られるようになりました。よく言われるように原作でアラジンが中国人というのは原典の本文に「中国の数多い町の一つに」住んでいると書いてあるので、そこから想像力を逞しくしたヨーロッパの挿絵画家がアラジンを中国風に書いたことから広まったのだと思いますが、唐代の広州のような沿岸地域には万単位のアラブ人が住む居留地があり、そういったところの出身という可能性もあります。
 話の筋がずれましたが、ともあれそういったピジン的な物語であった「アラジンと魔法のランプ」が今回のような形で語り直されることは、なるほど「らしい」話ではあるのかなあといったところでしょうか。


 「アラジンと魔法のランプ」原典の翻訳については前島信次氏訳『アラビアン・ナイト 別巻 アラジンとアリババ』に収録されている。
 シャジャル・アル=ドゥッルの生涯は板垣雄三[編]『世界の女性史〈13〉中東・アフリカ 1 東方の輝き』に詳しい。
 上では触れなかったが、『アラジン』ではイスラーム圏を想定していると思われるにも関わらずモスクと思われる建物が一切登場しないなど、やはり問題は見え隠れする。欧米からのイスラーム世界表象の偏りについてはサイード『オリエンタリズム』を参照。

読書案内:歴史学の脇道としての現代思想

 このブログの近況記事をチェックされている方はお察しのことと思いますが、最近よく哲学書を読んでいます。きっかけはいくつかありますが、ひとつは現代歴史学が言語論的転回への対応に苦慮していた、ということです。記事タイトルからはヘーゲルやマルクスの歴史哲学、あるいは歴史の引き受け方を論じたベンヤミンの『歴史の概念について』などの話かと思われるかもしれませんが、その手の話はほぼ出てきません。
 この記事では、歴史学と哲学の関わりを中心に簡単な読書案内をしてみたいと思います。基本的には歴史学に軸足を置いている人を対象としているので、哲学書に関しては原典より解説書の紹介の方が多くなると思います。

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センター試験をネタにホラズム・シャー朝の滅亡について考える

 あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
 さて、世間ではセンター試験が行われたようで、受験生の皆さんはお疲れ様でした。私は毎年趣味で世界史Bを解いているのですが、今年は近現代史の問題が多かったようで、前近代に偏りがちな人間としては少し苦戦したので勉強の必要性を感じているところです。
 それはそれとして、試験内容として今年は以下のような問題が出題されました。

2019センター
(2019年センター試験、世界史B、p. 32より引用)

 モンゴル帝国を主題とした問題で、チンギスが題材になっているものです。問題の本文はチンギスという人物の権威化、いわゆるチンギス統原理の形成について述べられており、なかなか面白い内容になっているのではないでしょうか。
 ただここで問題にしたいのが問5です。ワールシュタットの戦いでモンゴル側を率いたのはバトゥ(直接分隊を指揮したのはバイダル)、大都を都としたのはクビライ、チャハルの出現は北元のダヤン・ハーン以降、ということで消去法を取れば正解は①ということになりますが、さてチンギスはホラズム・シャー朝を倒したのでしょうか?

(以下、長文になるので折りたたみます)

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当ブログは一介の歴史好きが読んだ本を紹介したり、書いた文章を公開したりするための場です。執筆記事は西アジア史関係が多いですが、読書は西アジアにこだわらず地域・時代を広く浅く扱っています。
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