たまには月夜に米の飯―西アジアの米の話―

 西アジア・北アフリカと言えば麦食のイメージが強いと思います。実際、アラブ圏での主要農作物は昔から麦類で*1、北アフリカの名物料理として知られるクスクス(粒パスタ)はひき割り小麦の料理ですし、エジプトやレヴァント(中東の地中海東岸地域)は古代以来の麦作地帯でした。
 そもそも、農業の発祥地の一つがあのあたりで、レヴァントからアナトリア高原の南東部、イランのザグロス山脈付近にかけて生育していた野生の麦をもとに、元前7000年頃から栽培が始まったと考えられています*2
 一方、世界三大穀物のもう一方の雄である米(なおもう一つはトウモロコシ)ですが、面積あたりの収量が世界トップを誇っているのはどの国かご存知でしょうか?
 日本はこと米だけは自給率が100%に近いというのはよく言われる話ですが、その日本の年間一ヘクタールあたりの収量がおよそ6.7トンで*3、世界平均4.5トンに比べてもかなり高いといえるでしょう。ところが、世界トップの一ヘクタールあたり収量は日本の収量を超え、世界平均のなんと二倍以上、9.5トンを誇っています。また、当該国家の米の生産高も600万トンに上っています。
 実はこの隠れた稲作大国、意外なことに先にも名前を挙げたエジプトなのです。
 ナイルの灌漑と長い日照時間のお陰ということもあるのでしょうが、近隣諸国ではシリア・ヨルダン・レバノンのレヴァント三国が生産なし、リビア・チュニジアが生産なし、スーダンが1.7万トン、エチオピアが13万トンということでエジプトの米の生産高は頭抜けているといえるでしょう。
 エジプト料理にも米を使ったものが少なくなく、葡萄の葉や野菜のご飯詰めや、国民食コシャリ(レンズ豆と米、パスタなどを炒め、トマトソースと揚げタマネギをかけた料理)、ご飯のモロヘイヤスープ掛け等々が存在しています。

 西アジア諸国の中ではイランでも米食が広く行われており、カスピ海南岸を中心に年間260万トンの米が生産されています。塩と油を加えて炊き上げた白ご飯(チェロウ)や具を混ぜて炊くピラフ(ポロウ)などはおもてなし料理として作られている模様*4
 ついでに言えば、モンゴル帝国時代に大部の歴史書『集史』を編纂したことで有名なイランのイルハン朝(フレグ・ウルス)のイラン人宰相ラシードゥッディーンは『残りしものと生けるもの』というタイトルの農業技術書を著していまして、穀物を扱う章では稲にもページが割かれていたりします*5
 さて、そんな西アジアの米ですが、パエリアなどの米料理で有名なスペイン・バレンシア地方にもイラク南部からエジプトを通り、アラブ支配の時代に広がったらしく、英語の「ライス」もアラビア語で米を表す「ルッズ」が転訛したものとのこと*6

 もともと麦食文化圏であった西アジアに、なんで米が広がったんだろうなということを考えてみる時に、面白いことを書き残している人がいます。ハプスブルク家からスレイマン大帝時代のオスマン帝国に派遣されていた外交官のビュスベックという人物です。以下は彼の報告書にある一節。

「私見では、穀物のうちでは稲、駄獣のうちではラクダからトルコ人は多大な益を得ている。この二つはともに彼らが行う遠征に極めて適しているのだ。米は劣化せず衛生的な食物であるし、少しの量で大人数の腹を満たすことができる。ラクダはかなりの重量の荷を運べ、空腹と渇きに耐え、さして世話に手間がかからない。(中略)スルタンは遠征に出る時、四万頭ものラクダと、ほぼ同数の荷ラバを準備する。目的地がペルシアであれば、その大部分はあらゆる種類の穀物――特に米――を積む。ラバとラクダはテントと武器、攻城兵器やその他あらゆる道具も運ぶ」*7

 確かに米は玄米は言うに及ばず精米でも適切に保管していれば1年や2年で食べられなくなったりはしませんし、(充分な水があるという条件はつきますが)炊くだけで食べられるので兵糧としても優秀だったのでしょう。
 桜井一彰氏の『オスマン朝の食糧危機と穀物供給』によると、イスタンブル付近の米所はバルカン半島の現ブルガリアのプロヴディフの周辺だったそうですが、やはりエジプトも重要な米所で、イスタンブルの食糧不足時にはエジプト総督に対して米の輸送を督促する指令が出されていたとのこと*8
 現代トルコの米の生産高は83万トンなのでエジプトやイランには及ぶべくもないながら、西アジア・北アフリカ諸国の中では比較的多い方に入ります。オスマン帝国時代の名残りもあるのでしょうか。

 ともあれ、西アジアは地理的にも文化的にも遠い地域のように思いますが、米の飯を同じくして食べる文化圏であるということは、知っておいてもいいのではないかなと思うのでした。

*1 大塚和夫「砂漠、農地、都市、そしてイスラーム」『世界の食文化10 アラブ』p.31
*2 大貫良夫他『人類の起源と古代オリエント』pp.52-57
*3 以下、統計数値は『世界国勢図会 第27版』に依る(データは2014年)
*4 鈴木珠里「似て非なる食卓の風景――イランの食文化」『イランを知るための65章』
*5 清水宏祐『イスラーム農書の世界』pp.20-21
*6 佐藤次高『イスラーム世界の興隆』pp.255-256
*7 The Turkish Letters of Ogier Ghiselin de Busbecq pp.108-9 より重訳
*8 櫻井一彰『オスマン朝の食糧危機と穀物供給』p.120, p.129

伝承は幽谷の淵より―ニザール派とハサン・サッバーハ―

 俗に「暗殺教団」と呼ばれる組織がありますが、実際の彼らはシーア派の分派であるイスマーイール派の派内分派であるニザール派信徒の集団でした。イスマーイール派の王朝であったファーティマ朝の後継者問題と絡んで廃嫡されたニザールを支持するためニザーリ(ニザール派)の名で呼ばれています。初代指導者はハサン・サッバーハというイラン人男性でした。
 このニザール派はヨーロッパでも知名度の高い英雄サラーフッディーン(サラディン)や十字軍との関わりもあり、しばしば創作のネタになっていますが、そもそも早い段階から伝承と事実が入り混じっています。

 まず、マルコ・ポーロはいわゆる『東方見聞録』において、「山の老人」と呼ばれる怪人物が少年たちを拐かし暗殺者として教育する様を述べています。老人はこの世の楽園と思われるような庭園を創り、少年を眠らせてからそこに連れ込み、そこを天国であり、自身が預言者であると思わせます。そして暗殺の必要があると、少年をまた眠らせてその庭園の外へ連れ出し、天国から連れ出されて困惑する少年に「しかじかの要人を暗殺せよ。成功すれば私が再び楽園へ連れて行ってやろう。失敗して死んでも天使がお前を楽園へ連れて行くだろう」と言い含めて暗殺に送り出す、というわけです*1
 この類の伝承はヨーロッパに伝わり、早くも14世紀には「アサシン」の語が「暗殺者」を意味する普通名詞として使われるようになっています*2
 十字軍時代を中心として要人暗殺を事としていたのはある程度まで事実のようです。しかしながら、彼らが麻薬を用いたというのはどうも眉唾に近く(当時、一般的な罵倒語として「大麻野郎(ハシーシーン)」が用いられており、これがヨーロッパに伝わったと考えられているとのこと*3)、麻薬狂いのイメージは勝手に膨らんでいったようです。

 なるほど彼らの実像が見えにくくなっているのはオリエンタリズムのせいかと思えば、たしかにそういう一面はあるものの、西アジアでもヨーロッパとは違った形で奇妙な伝承が作り上げられています。これは既に14世紀の歴史書『集史』の時代には逸話として成立していたようです*4
 この伝承の主要登場人物は三人。一人が酒好きながら大詩人として名を成し科学者としても著名なウマル・ハイヤーム*5、セルジューク朝最盛期を現出した大宰相ニザーム・アル=ムルク、そして今回の主題、ニザール派の開祖ハサン・サッバーハ。内容は以下のようなものです。

 1042年頃、イランのニーシャープールのあるマドラサ(学院)で三人は知り合った。彼らは大の親友となり、ある時ウマルの提案で、三人のうち将来最も幸運に恵まれた者が他の二人にあらゆる援助を惜しまずに与えることを誓いあった。ウマル自身は内向的な性格で立身出世にもあまり興味がなかったのだが、他の二人は非常な野心家で、国務に与ることを念願した。特にニザームはめざましい出世をとげ、セルジューク朝のスルターン、アルプ・アルスランに仕え宰相にまでのし上がった。
 ウマルは若き日の約束を思い出し、ニザームに伝えると、ニザームは快く約束を果たし、ウマルには年金を、ハサンには仕官の道を与えた。ところが、ハサンは嫉妬心の強い男で、恩人のニザームの失脚を企図し、謀略をしかけた。これはニザームによって阻止され、面目が潰れたハサンは宮廷を逐われる。彼はカイロへ赴き、イスマーイール派の布教の使命を得て、ニザームへの復讐心を持って再びイランへ舞い戻るのであった……*6

 ジュワイニー『世界征服者の歴史』によると、ニザール派の手によって暗殺された最初の要人はセルジューク朝の名宰相ニザーム・アル=ムルクということになっています*7。ウマル・ハイヤームは天文学者としてセルジューク朝宮廷と関わりがあり、新しい暦を献呈したりしているので、必ずしも三人に全く関係がなかったわけではないのですが、とは言え三人が学友だったとするのは年代的に無理があるので、この逸話は魅力的ではあるもののおおよそ作り話であると考えていいでしょう。
 ニザーム・アル=ムルクはセルジューク朝の宰相を務め、またニザール派を含むイスマーイール派の宣教に対抗してスンナ派振興策を熱心に行った人物でした*8。ニザール派がニザームを狙ったのは、指導者の個人的恨みというよりも宣教に対する妨害の排除という面が大きかったのでしょう。

 実際のハサン・サッバーハはイランのコムに生まれ、レイで学問を修めたのち、1072年にイスマーイール派の宣教師となり、78年、エジプトのファーティマ朝宮廷に赴き、再びイランに戻って宣教活動に従事しています。94年には先に述べた通り、ファーティマ朝の後継者問題でファーティマ朝と関係を絶ち、独自の勢力として立ち現れることになりました*9
 ニザール派の特徴として暗殺ばかりが取り上げられるのですが、面白いのはハサンが1090年にイラン北部の山中の要害アラムート城塞を奪取して以降、この集団は各地で要塞を奪い、あるいは購入し、点々とした飛び地の領地を持っていることです(サラーフッディーンが攻撃したものの攻略できなかったシリアのマスヤーフ(マシャフ)城塞もその一つ)*10。この細切れの領地のネットワークは他に類を見ないもので、当時のニザール派の特徴とも言えるのではと思います。
 ニザール派がどうしようもないほど頭の固い集団かと言えばそういうわけでもなく、特にシリアのニザール派は信仰上の敵である十字軍やスンナ派のザンギー朝やアイユーブ朝とも合従連衡を繰り返しています。
 アイユーブ朝と言えば、シリアのニザール派の指導者、ラシードゥッディーン・スィナーンにもサラーフッディーンとの逸話があります。ニザール派に二度の襲撃を受けたサラーフッディーンは、ニザール派の拠点であるマスヤーフを包囲し攻撃するのですが、ある夜、サラーフッディーンが護衛を立たせて陣営で就寝していたところ、誰にも気付かれずいつの間にか毒塗りの短剣で止められた紙片が置かれ、「どうあがこうとも、勝利は我らにあり」と書かれていたというのです*11。この一件でサラーフッディーンはマスヤーフから兵を引いたというのですが、ちょっと常識では考えられないので、これも事実ではないと見なしていいでしょう。

 ともあれ、ヨーロッパに伝わった伝説といい、三人の学友の伝承といい、サラーフッディーンとラシードゥッディーンの逸話といい、伝承を引き寄せやすい集団ではあったようです。
 彼らは最終的にモンゴル軍の侵攻を受けて壊滅するのですが、モンゴル絡みでもカラコルムに400人もの暗殺者が送り込まれていたという噂があったとカラコルムを訪れたギヨーム・ド・ルブルク修道士が書いています*12
 イランで勢力が壊滅する最後の最後まで誇張と事実と伝承の間を彷徨い、実像の見えにくい集団ではありますが、それだけに研究者諸氏のニザール派の実像に迫ろうとする研究は面白いのだなあと思うのでありました。

*1 月村辰雄・久保田勝一[訳]『マルコ・ポーロ東方見聞録』pp.46-49
*2 加藤秀和「アサッシン」『新イスラム事典』
*3 同前
*4 佐藤次高『イスラーム世界の興隆』p.210
*5 近年の研究では科学者ウマルと詩人ウマルは別人であり、14世紀頃に二人が混同されてしまい、詩人にして科学者という人物像が出来上がってしまったのではないかとも言われている。詳細は伝ウマル・ハイヤーム著「ノウルーズの書(附ペルシャ語テキスト)」(訳注・校訂 守川知子・稲葉穣)に添えられている守川氏の解説を参照。
*6 小川亮作[訳]『ルバイヤート』の訳者による解説を参照(pp.118-125)。
*7 Ala-ad-Din Ata-Malik Juvaini , THE HISTORY OF THE WORLD-CONQUEROR, vol.2 p.677
*8 佐藤前掲書pp.208-209
*9 加藤秀和「ハサン・サッバーフ」『新イスラム事典』
*10 岩村忍『暗殺者教国』p.38
*11 佐藤次高『イスラームの「英雄」サラディン』p.124
*12 カルピニ/ルブルク『中央アジア・蒙古旅行記』p.312



 『世界征服者の歴史』に関してはJhon Andrew Boyle の英訳がある。
 なお、イランでの勢力が壊滅した後のニザール派の大部分は、19世紀にインドにコミュニティを移し、指導者アーガー・ハーン3世の時代には宗派近代化政策を取り、西洋文明を積極的に摂取、融資・保険制度を宗派内部に整備。後継者アーガー・ハーン4世はアーガー・ハーン財団を設立し国際的な開発機関として注目を集めているという(子島進「アーガー・ハーン」及び小牧幸代「アーガー・ハーン3世」、いずれも『岩波イスラーム辞典』)。

天国は母親の足元にある―女城主ダイファ―

 来年の大河ドラマが『女城主直虎』ということもあって関連本が続々と出ています。当主の実母などの女性が当主を代行することは中世日本においては「後家権」として認められており、しばしば見られる事例のようです*1
 「女戦国大名」とも呼ばれる今川家の寿桂尼や、赤松家の洞松院も後家権に基いてその統治を行ったと考えられているとのこと。
 今回紹介するのは、中世西アジア、アイユーブ朝での似たような事例になります。
 西アジアの女性君主というと女スルターンとして知られ、またマムルーク朝の初代スルターンにも数えられるシャジャル・アル=ドゥッルが有名です。ルイ9世の十字軍やキトブカ率いるモンゴル軍を撃退し、奴隷からスルターンになった英雄バイバルスとの関わりもあり、現地のテレビドラマなどにも登場しています。彼女はかつてのアイユーブ朝のスルターン、サーリフの妻として、またサーリフの夭逝した息子ハリールの母として統治を行いました。彼女が発給した文書や、フトバ、発行した貨幣などには「ワーリダ・ハリール」すなわち「ハリールの母」という称号が用いられていたことが確認されています*2
 フトバは毎週金曜日の礼拝時に行われる説教、あるいは講話で、その最後は「このフトバを○○の名において読む」という形式で結ばれました。これは、毎週王権が誰に属しているのか確認する儀礼でもありました*3。また一方、自身の名を刻んだ貨幣の発行も自身の政治権力者としての正統性を示すものです*4
 とは言っても、フトバでの名前の読み上げと貨幣の発行という二大要件を満たしたとは言え、シャジャル・アル=ドゥッルはわずか80日間の統治をおこなったにすぎません。
 ところが、アイユーブ朝関係者にはもう一人、女性でありながら支配者となり、しかも六年間もの間その地位を確保していた人物がいます。それが今回の主人公、ダイファ・ハトゥンです。

 話はアイユーブ朝のサラディンことサラーフッディーンとその弟で後にスルターンになるアーディルがともに健在であった頃に遡ります。この二人、実はかなり仲がよく、サラーフッディーンはアーディルに相談することなく重要事を決めることはなかったと言われています*5。また、一時期にはサラーフッディーンは後継権をアーディルに与えていたらしく、メッカ巡礼の旅行記を記したイブン・ジュバイルはエジプトのモスクでのフトバにおいて、カリフ、サラーフッディーン、そしてアーディルの三者の名が唱えられ、また聖地メッカのカアバ神殿のある聖モスクでもこの三者とメッカのアミールの名がフトバで唱えられたことを報告しています*6。1183年のことなので後にサラーフッディーンの後継者となるアフダルはまだ13歳なのでおそらく中継ぎだったのでしょうが、サラーフッディーンのアーディルに対する信頼がうかがえます。
 そんなサラーフッディーン家とアーディル家はより強く結びつくべく、子供たちのいとこどうしの縁組も何組か行われています。一組はアーディルの息子でのちのスルターン、カーミルと、サラーフッディーンの娘、ムーニサ。そしていま一組が、サラーフッディーンの息子でアレッポ領主のザーヒルと、アーディルの娘、ダイファ・ハトゥンだったのです。
 歴史家イブン・アル=アシールによるとザーヒルは、事態の掌握に長け、恒常的な収入源も確保し、失敗には厳罰で挑む一方、人士には援助を惜しまなかったといいます*7
 サラーフッディーン没後、ザーヒルらサラーフッディーンの息子たちと叔父アーディルは内紛を繰り返すことになります。ザーヒルはアーディルに最後まで抵抗し、最終的にその宗主権を受け入れることになるものの、兄弟のうちでただ一人当初の領地を確保したまま天寿を全うしました。
 ダイファとザーヒルの結婚は1212年のことで、二年後には息子アジーズが産まれています*8
 ザーヒルはダイファの産んだアジーズを後継者に指名していました。実のところ、ザーヒルには年長の別の息子もいたのですが、アーディルの娘のダイファが産んだアジーズを指名することによって継承をすんなり通らせる意図があったのだとイブン・アル=アシールは書いています*5。1216年にザーヒルが突然病死すると、この目論見は当たり、アーディルはあっさりとこの継承を認めました。
 ところが、アジーズは1236年に23歳の若さで頓死。彼も病没だったと伝えられています。
 ここに至り、ダイファは本格的に政治に関わるようになります。アレッポ政権はザーヒルの息子、つまりダイファの孫のナースィルが継ぎますが、彼はまだ7歳。ダイファは摂政となり政権の発給文書にもサインし、行政に関わっていました。また、フィルダウス・モスクには彼女の名を刻んだ銘があり、「アル=マリカ・アル=ラヒーマ」の称号が添えられているとのこと*9。「マリカ」は王号「マリク」の女性形なので、まさに彼女は自身が支配者であると示していたことになります。
 当時、アイユーブ朝ではカイロのスルターン、カーミルとダマスカスのアシュラフとの間で対立が持ち上がっていましたが(いずれもダイファの兄弟)、ダイファはアシュラフから同盟の持ちかけがあったにも関わらずこの状況下でよく中立を保ち、アレッポを争いに巻き込ませませんでした。さらに、カーミル没後にもアイユーブ朝は内乱に揺れますが、ここでも同盟のもちかけを蹴ってダイファは中立を堅持。のちにスルターンとなったサーリフ(上で書いたシャジャル・アル=ドゥッルの夫のサーリフです)はこれを評価し、アレッポの領地としての独立を引き続き認めるところとなります*10
 ダイファの晩年にはモンゴルに追われ西走したホラズムシャー朝の残党の乱入などもありましたが、これはアイユーブ朝の他の諸侯の助けもあり撃退。
 そして1242年、ダイファはその生涯を閉じることになるのでした。

 実際のところ、中世日本の「後家権」と同じように、幼年の君主の後見人として母や祖母が政治の実権を握ることは必ずしも当時の西アジアにおいては他に例のないことではありませんでした。時代と地域が近いものではウサーマ・イブン・ムンキズが『回想録』に記している事例で、ジャアバルのウカイル朝の実権をしばらく握っていた元キリスト教徒の奴隷の女性なども存在します*11
 とは言え、ダイファ・ハトゥンについて思えば、サラーフッディーン没後の内乱、アーディル没後の対立、カーミル没後の内乱の時期を経験し、後の二者については当事者として政治の場におり、それでも大過なくアレッポの平穏と独立を守り通したあたり、かなりしたたかな女性であったと言えるでしょう。「天国は母親の足元にある」とは、アラブ世界で知られているハディースの一つですが、アレッポを平穏のうちに保った彼女にこそふさわしい言葉ではないでしょうか。

*1 大石泰史『井伊氏サバイバル五〇〇年』 pp.150-160
*2 佐藤次高『イスラームの国家と王権』 p.144
*3 佐藤前掲書 pp.159-160
*4 加藤博「貨幣」『新イスラム事典』
*5 Eddé, Anne-Marie , SALADIN p.121
*6 イブン・ジュバイル『メッカ巡礼記』 1巻 p.99 , pp.263-264
*7 Ibn al-Athir , The Chronicle of Ibn al-Athir for the Crusading Period from al-Kamil fi'l-Ta'rikh , vol.3 p.169
*8 Humphreys, R.Stephen , From Saladin to the Mongols p.155
*9 Ibid., p.229
*10 Ibid. , pp.230-238
*11 ウサーマ・ブヌ・ムンキズ『回想録』 pp.172-173



 井伊直虎に関しては今後も関連本が出てくることと思われるが、さしあたり前後の時代も含めて押さえられる大石氏の『井伊氏サバイバル五〇〇年』が手堅い。
 ダイファ・ハトゥンについてはHumphreysのFrom Saladin to the Mongolsから該当記述を拾って読むのが手っ取り早い。
 なお、イブン・アル=アシールのザーヒル評を引いたが、奇妙なことに、彼はダイファ・ハトゥンについて意図的に無視しているようだ。彼女に限らず、ブーリー朝のズムッルド・ハトゥンやザンギー朝のイスマトゥッディーンなど、女性が政治の表舞台に立った事件について、彼は無視したり名前を伏せたりするきらいがある。

お前が消えたって盃だけは残る―日本・イラン交流記―

 この記事のタイトルは中世イラン(ペルシア)の飲んだくれの大詩人、オマル・ハイヤームの『ルバイヤート』の一節ですが、どことなく日本人好みの無常観の漂う詩であると思います。日本とイランの関係と言えばつい先日、平城宮跡で出土した木簡にイラン人と思しき人名が書かれている、ということがニュースになりました*1。奈良文化財研究所の史料研究室の渡辺晃宏室長によると、当該木簡には「破斯清通(はしのきよみち)」という人名が記されており、清通が大学寮で働いていたことが分かるということです。
 渡辺氏も言及していますが『続日本記』には天平8年(736年)に「唐の人三人、波斯一人」(波斯=ペルシア)が来日して聖武天皇に謁見したという記事があります。この李密翳というイラン人が、清通本人か、あるいは関係者の可能性もあるとのこと。本当にイラン人であったかどうかはまだ何とも言えませんが、事実であれば夢のある話です。

 さて、日本とイランの交流と言えば、記事タイトルの酒碗というわけでもないのですが、正倉院に収蔵されている白瑠璃碗がアルサケス朝・サーサーン朝時代の墳墓から出土したガラス器と同類のものであるという話はとても有名です。山内和也氏によると、これがイランのものであると明らかになったのは偶然とも言える成り行きからだったそうです*2。1956年のことというのでもう半世紀以上前になりますが、東大のイラン・イラク調査団の一員であった故深井晋司氏が、骨董屋で正倉院の白瑠璃碗とそっくりのガラス器を見つけたというのです。今でこそ当然のように世界史の資料集などでは写真が並んでいたりしますが、骨董屋でがらくたに紛れており、透明度もなくすっかりくすんでいたそれを見つけて正倉院の白瑠璃碗と同類のものではないかとすぐに思い当たるのが流石と言うべきでしょうか。

 さらに、日本とイランの交流に関して、これも発見した本人曰く偶然であったということながら面白いエピソードがもう一つ。高山寺方便智院旧蔵で現在は個人蔵の重要文化財『紙本墨書南蛮文字』なる古文書があり、故羽田亨氏本人の言によると「偶々此寫眞を見て、這南番文字といふものヽ波斯文(新)なるが如きを思ひ、就て研究を試みしに、全く波斯の詩を記せるもの」であったとのこと*3
 鎌倉時代の僧侶に、慶政上人という御坊がいます。法華山寺の人で明恵上人とも交流があった人物であるらしいのですが、彼が1217年、宋の国へ渡り、泉州にいた時、船上で西方の風貌をした人と知り合い、記念に寄せ書きをしてもらったようで、それこそがこの『紙本墨書南蛮文字』だったのでした。慶政本人はこれがなにがしかありがたいお経であると思っていた可能性が高いようで、羽田氏がこれを見るまで(要するに700年ほどの間)誰も正体に気が付いていませんでしたが、実はこれはアラビア文字で記されたペルシア語であり、岡田恵美子氏によるとペルシア文学の金字塔『王書』こと『シャー・ナーメ』の一節と、長編恋愛詩『ヴィースとラーミーン』の「恋文」の一節であったのです*4
 当時泉州は中国における海外からの玄関口のような貿易港で、少し後の時代にこの地を訪れたマルコ・ポーロが「ザイトン(あるいはサルコン)」という名でその港の賑わいを伝えています。曰く、「このサルコンの港には、インドからやって来る船がかならず立ち寄り、香辛料や各種の貴重な商品をもたらすので、マンジ地方のあらゆる商人も買い付けにやって来る」「キリスト教国のために胡椒を積んだ船がアレクサンドリアの港にようやく1艘やって来るとしたら、このサルコンの港には100艘以上の船がやってくると言っても過言ではない」*5
 おそらく、慶政が出会ったのも貿易に携わっていたイラン人だったのでしょうが、案外、民間日宋貿易に関わっていたような日本人と、ユーラシア東西を結ぶ貿易に携わっていたイラン人は、中国の泉州や広州で日常的に出会っていたのかもしれません。

*1 「平城京にペルシャ人の役人がいたことが判明。「破斯清通」ってどんな人?」『ハフィントンポスト日本版』 2016年10月5日閲覧
*2 山内和也「正倉院のガラスを求めて――ギーラーン地方の考古学」『イランを知るための65章』
*3 羽田亨「日本に傳はれる波斯文に就て」『史学研究會講演集第三』
*4 岡田恵美子「海を渡った恋の詩――文化交流」『イランを知るための65章』
*5 月村辰雄・久保田勝一訳『マルコ・ポーロ 東方見聞録』 p. 194



 タイトルの詩の全文は以下の通り(訳は岩波文庫版の小川亮作訳による)。
「歓楽もやがて思い出と消えようもの、
古き好(よしみ)をつなぐに足るは生(き)の酒のみだよ。
酒の器にかけた手をしっかりと離すまい、
お前が消えたって盃だけは残るよ!」
 なお、『紙本墨書南蛮文字』については、ほぼ羽田氏と同時期にこの文書に着目した清の羅振玉(当時中国はまだ中華民国ではない)が紹介し、それを目にした東洋学の泰斗ポール・ペリオもこの文書について研究している。経緯については故前嶋信次氏が1952年の「泉州の波斯人と蒲壽庚」『史学』25にてまとめている。

あるにゃんこオヤジとネコの話―アブー・フライラと西アジア史上の猫―

 本日放送のせんだい歴史学cafeは歴史の中の猫がテーマのようです。あちらは西洋史が中心なので、勝手に便乗して西アジア史における猫にまつわる人物の話を書いてみようと思います。

 さて、イスラームにおいて預言者言行録ことハディースは、クルアーンに次ぐ法源として確固たる地位を築いていますが、その伝承経路にしばしば顔を出す人物に、アブー・フライラという御仁がいます。以前にも説明しましたが、「アブー」は「○○の父」、「フライラ」は「子猫」の意なので訳すと「にゃんこオヤジ」ということになります。
 出身はイエメンで、やや遅く預言者ムハンマドの直弟子になるものの、4年間ムハンマドの言行をよく見聞し、それを多く伝えたといいます。貧しい家庭の出であったため家を持たず、モスクのスッファ(回廊)に住んでいたといいますが*1、バラーズリーによると、預言者の戦争にも従軍し、メッカ征服の場に立ち会い、まさにムハンマドが「真理は到来し、虚偽は消え去った。まことに虚偽は消え去るものである*2」と述べた現場を目撃しています*3。晩年には正統カリフのウマルによってバーレーン総督に任じられるという大出世を果たしました*4

 初期イスラーム史においては結構な重要人物であるのですが、そんな彼が権威ある書物にまで本名ではなく、にゃんこオヤジと呼ばれているのは彼が猫好きで知られていたからだと言います。日本ムスリム協会の『サヒーフ・ムスリム』の和訳の注によると、羊を飼いながら子猫と遊んでいたからつけられた名前だとか。

 そもそも、イスラームは割と猫贔屓で、ハディースのひとつに猫を餓死させた女性が地獄に落ちたと預言者が語った、というものがあったりします(なお、伝承者は例によってアブー・フライラ)。他にも「猫は不浄のものではない、周りにいて見張ってくれる」「マディーナ人のなかでも猫を飼っている家には繁く訪れた」などのハディースが存在しており、実は預言者ムハンマドも結構な猫好きでした*5
 ムスリムが猫好きだという話はヨーロッパにも伝わったようで、スレイマン大帝期のオスマン帝国に外交官として滞在したビュスベックは以下のように書き残しています。
「彼らが猫好きである態度については彼らの立法者ムハンマドが大の猫好きであったことによる。ある時、彼が読書中に猫が袖の上で眠ってしまった。礼拝の時間になり彼は務めを果たさなければならなかったのだが、猫の眠りを妨げるのは忍びないということで、袖を切って礼拝に向かった」*6
 これはムスリムたちの間でよく知られている逸話のようですが、ビュスベックがオスマン帝国において、何故猫がこんなに大事にされているのか疑問に思った時に誰かが教えてくれたのでしょう。
 また、ブワイフ朝のアミール、ルクヌッダウラは愛猫を執務室にまで持ち込んだそうですが、その猫が用務を取り次いだという逸話もあるようです*7

 逆に犬は一般には不浄な存在として、あまり良い扱いをされません(ビュスベックも先ほどの猫の記述と同じ部分で「彼らは犬を不浄の動物と見なしている」と書いています)が、場合によっては主に忠実なものとして肯定的に捉えられることもあるようです*8。これはクルアーンに、犬についての両面の記載あることからも見て取れます。

 いずれにせよ、以前書いた馬やラクダとは違って、より生活に密接な人間の友として、やはり西アジアでも犬や猫は人の関心の対象となっていたのでした。

*1 小杉泰『イスラーム帝国のジハード』 pp.375-6
*2 『クルアーン』17章81節 訳は作品社版による
*3 バラーズリー『諸国征服史』1巻 pp.75-7
*4 バラーズリー前掲書 1巻 pp.161-3
*5 堀内勝「猫」『岩波イスラーム辞典』
*6 The Turkish Letters of Ogier Ghiselin de Busbecq pp.111 より重訳
*7 堀内同前
*8 堀内勝「犬」『岩波イスラーム辞典』

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鉄勒京二

Author:鉄勒京二
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