完史読んでて気付いたこと

えー、まあ辞書とにらめっこしながら読んでおりますが、気になった記述がいくつかあったのでまとめ&追記から見出しの訳の続き


・アル=カーミルの弟のアル=アシュラフの本名がムーサー(モーセ)

 カーミルの本名がムハンマド、ムアッザムの本名がイーサー(イエス)なので、イスラムの五大預言者のうち、三人の名前がアーディルの息子達に付けられていることに。多分アーディルは分かっててやったんだと思うんですが裏付けできる資料が無い……。ムザッファルの本名もわからんし。


・完史の複写をした人物が、カーミルの名前の後に「神は彼の上に深い慈悲をもたらした」という故人に対する決まり文句を追加している

 訳者のD.S.リチャードさん曰く、これは故人に対する決まり文句(イブン・アル=アシールよりもカーミルの方が没年が後)なので、明らかに複写をした人物が後で付け加えた文句だそうです。カーミルは割と好かれてはなかったと思うんですが……誰が書き入れたんだろうなあと。まあ、誰なのか特定するのは不可能に近いでしょうが、カーミルの死を悼んでる人がいたということを知って何か安心しました。

続きを読む

完史が届いた!

完史
完史が届いたよ! 注も索引も付いているので思ったよりも親切設計でした。
とりあえず以下1200年までの見出しだけ訳したものをメモ。

続きを読む

陳興道とモンゴルのベトナム侵攻まとめ

陳興道<チャン・フンダオ>(1228-1300)
本名を陳国峻<チャン・クォクトゥアン>、現在のベトナム北部にあった大越<ダイヴェト>陳朝の将軍。
元朝のクビライが差し向けたモンゴル軍を二度に渡って破り、大越の独立を守り通した。
「兵書要略」「萬劫宗秘伝書」などの兵書の著作がある。

蒙越戦争
第一次(1257年-1258年)
第二次(1284年-1285年)
第三次(1287年-1288年)

三次に渡るモンゴルのベトナム侵攻。
対立したのは北部の陳朝大越国及び南部の後第十二王朝チャンパ王国。


以下詳細

続きを読む

世界の教科書シリーズ21 ベトナムの歴史


 ベトナムで使用されている中学歴史教科書の邦訳本。世界史・自国史(ベトナム史)両方が掲載されている。

続きを読む

近況

ムスタルシド調べたのと、この間のチャットのお陰でちょっとアッバース朝のナースィル様が気になってたんですが、たまたま借りた岩波の世界史史料2に載ってて噴いた。
何か、イブン=アル・アシールの「完史」に載ってるんですが、色んな人にズボン配りまくってたらしいですよ?アーディルとその息子達にもズボンあげたとか。アッバース朝カリフの権威を再浸透させたかったのは分かるけど何故フトゥーワ入会のアイテムがズボン……。
ちなみにアーディル、ダマスカスで実際にそのズボン履いたそうです。カーミルとムアッザムも一緒だったんだろうか……カリフから貰ったおそろのズボンて。

後、陳興道とモンゴルのベトナム侵攻をまとめ中です。うん、ベトナムの中学校の歴史教科書自国史詳しすぎwww 
第一回侵攻をまとめただけでかなり疲れた……。中国語wikipediaに英文wikipediaに載ってない情報があるみたいなんでそれを調べる……というか訳して確認するのにも結構手間取りました……。

そういや陳興道は1228年生まれなんでエジプトでモンゴルを退けたバイバルスと同い年かもしれないですね。モンゴルの第一回ベトナム侵攻が1258年、一方アイン・ジャールートの戦いは1260年……。頭角を現したのはバイバルスのが大分先のようですが(陳興道が全軍の指揮を取るのは1284年の第二回ベトナム侵攻以降で、第一回の時はいち地方司令官)。

ついでに北条時宗は1251年生まれ、文永の役が1274年、生まれもモンゴルの侵攻に初めて直面したのも他の二人より結構後ですね。モンゴル侵攻に直面した時の年齢が若いことは若いけど……時宗って他の二人と違って前線には出てないからなあ

世界史絵チャ!

主催の亀さん、かすてらさん、参加者のみなさん、大変楽しかったです、ありがとうございました!
やっぱりカーミルは有能だと思います。

九人のアタベク

何か話題があっちゃ行ったりこっちゃ行ったりしてますが、基本的に十字軍時代の中東が管理人の専門です。
図書館行けない時は手元にある資料でごちゃごちゃ語るしかないので……。
ヨーロッパ史・中国史他もまあ、高校世界史レベルの知識はあるつもりですが。

で、だ。牟田口義郎さんの「物語中東の歴史」で前々から気になってた記述なんですが、ザンギーを紹介する項で「彼は当時、分裂したセルジューク帝国内に輩出した九人のアタベクの中で最も傑出した人材だった」って表記があるんですが……九人のアタベク?一人はザンギーとして、後の八人は?
とりあえずザンギー(生1087 - 没1146)の時代のセルジューク朝系アタベクとしてそれなりに能力のある人を各アタベク政権につき一人づつ挙げてみると

1.ザンギー朝、イマードゥッディーン・ザンギー(位1127-1146)
2.ブーリー朝、ムイーヌッディーン・ウヌル(位1140-1149)
3.アルトゥク朝、イル・ガーズィー(位1104-1122)
4.ダニシュメンド朝、ダニシメンド・ガーズィー(位1097-1104)
5.イルデニズ朝、シャムスッディーン・イルデニズ(位1135-1175/76)

五人までしか分からぬ……。一つの政権につき複数人挙げていいことにすれば九人越すでしょうし。

そしてアルトゥク朝について調べててアイユーブ朝のアル・カーミルがディヤルバクル(今のトルコ南東部)のアルトゥク朝に遠征してたってことを知った。アイユーブ朝とルーム=セルジューク朝の仲が悪いのはザンギー朝から引き継いだのか……?
まあ、それはおいといて、ザンギーと同時代のアタベク政権について誰か情報求む。

アッバース朝のムスタルシドについて

アッバース朝のアル・ムスタルシドが気になる……しかしセルジューク朝もそろそろ瓦解しようかという時期のアッバース朝カリフなぞ資料がなかなか無いような気がするぞ。
兵どもが夢の跡とでも言うべきムスタルシドの行動は以下の通り。

即位(1118)
→セルジューク朝の跡目争いにつけ込んで軍を掌握
→困ったセルジューク朝のスルタンはザンギーにヘルプを求める
→バグダード近郊でザンギーに破れて宮殿に幽閉
→五年間雌伏...
→セルジューク朝スルタン死去、再び跡目争いにつけ込む
→ザンギー再び出撃
→カリフ自ら待ち伏せ
→ザンギー敗北、ティクリート領主時代のアイユーブの助けによって逃走
→ザンギーが籠もったモスルを攻撃、失敗
→この失敗で権威が地に落ち
→セルジューク朝スルタンに捕まって死去(1135)

まるで後鳥羽帝を更に図太くしたような御仁です

……書いてて思ったけどよく考えたらアイユーブってアッバース朝が権力を再び握るのを阻止した張本人なのね。
ひょっとしてナーシル様がサラディンを嫌ってぐちぐち言ってたのって単にサラディンの名声が気に入らなかっただけじゃなくてこのせいもあるのか?考えすぎ?

アレですね、アッバース朝ってブワイフ勢力のバグダード入城以降落ちぶれた落ちぶれたって言いますけど期を見ては実権取り返そうとしてるのね。
ナーシル様もホラズム・シャー朝のテキシュを呼び寄せてセルジューク朝を潰してますからね。ホラズムの力を利用して聖俗両権を再びカリフの手に!とか思ってたらしいです。まあ、ホラズムに押さえられてうまいこといかないのもお約束ですが。

それにしてもザンギーにしろサラディンにしろ同時期のカリフがアレな人だなあ……。
フィリップ2世オーギュストは「教皇のいないサラディンが羨ましい」とか何とかのたまってたそうですが、カリフ様も教皇と同じくらいたちが悪いよ?

でもトルコ人の支配に甘んじてきたアラブ人にしてみればこのムスタルシドとナーシルって希望の星だったのかなあと思わないでもない。

第五回十字軍まとめ

第5回十字軍(1217-1221)
ローマ教皇主導で行われた十字軍。アイユーブ朝エジプトの本拠カイロを目指しダミエッタを占領したが、無理な進撃によりナイルの増水に巻き込まれ失敗。主導権を握っていたのはエルサレム王ジャン・ド・ブリエンヌ及び教皇特使ペラギウス。
エジプト側はこの間、アル=アーディルからアル=カーミルにスルタンが代っている。

ちなみに教皇ホノリウス3世及び皇帝フリードリヒ2世はイスラム教徒との条約を十字軍に対して禁じている。教皇は異教徒との妥協を嫌い、皇帝はラテン系国家の損耗と自分の立場の保護を図ったのではないかと思われる。

重要人物(主観)は黒字にしてあります
「不明」とか「?」としてあるのは、史学的に不明なんじゃなくて管理人の調査能力が及ばずに分からない場合

以下詳細な年表

続きを読む

外国語史料とサラディンの妹とムアッザム

いやはや、相変わらずベトナム史の方は進捗無しです。誰かヘルプ!

で、まあ十字軍時代の中近東史の話なんですが、正直アラビア語の原文史料は読みようがないのですが、有り難いことに英訳史料がそれなりに出てるのでメモ変わりにリンク貼っ付け
ぶっちゃけ自分用記事
バハーウッディーンのサラディン伝と完史の1146までのは読みたいと思うのでそのうち買うかも
しかし資金のある時は時間が無いし時間のあるときは資金がないですねえ

あ、そうそう、ちょっと論文読み直してて珍しい記述を見かけたんです。サラディンの妹ですって。
アイユーブ家の女性(嫁入りした人も含めて)って記録に残ってるのはムーニーサ・ハートゥーン(アル・カーミルの嫁さんでサラディンの一人娘)と、シャジャルアルドゥッル(アル・サーリフの嫁さんていうかマムルーク朝初代君主)くらいだと思ってたんですが、ラビーア・ハートゥーン(論文によると1243・4没)ていう人がサラディンの妹として名前が残ってて、ダマスカス近郊のモスク建設に関わってたそうです。
没年を見る限り、強盗騎士と呼ばれたルノー・ド・シャティヨンに殺されたっていう妹とは別人のようで、初耳だったんでちょっと気になりました。

ちなみにこの論文、東洋学報68巻に掲載されている三浦徹さんの「ダマスクス郊外の都市形成――12-16世紀のサーリヒーヤ――」といいます。
アル・ムアッザム(アル・カーミルの弟でダマスカスの領主だった)とかヌールッディーンとかの細々とした事業がかいま見れて面白いです。
アイユーブ家は基本的にシャーフィイー派支持だったのにムアッザムが一人だけハナフィー派を支持してたので親父のアル・アーディルにとがめ立てられてたとか(ちなみにスンナ派の四大法学派の中の二つです。残りはマーリキー派とハンバリー派)。
ひょっとしてカーミルとの仲違いの原因だったりしたんだろか?ダミエッタがペラギウスの第五回十字軍に落とされたときは危険も顧みずムアッザムはカーミルを助けるために十字軍の補給線を寸断する作戦に出てますが……。

後、ムアッザムが思いの外敬虔で、親父(アル・アーディル)と伯父(サラディン)の墓に毎金曜日に参ってた、とかいう話も載ってます。


……なんかムアッザム語りになってしまったな。嫌いじゃないんですよ、ムアッザム。やや不器用っぽいけど一途なところとか。カーミルの方が好きではあるんですけどねw


本題とずれましたが以下リンク

続きを読む

プロフィール

鉄勒京二

Author:鉄勒京二
当ブログは一介の歴史好きが読んだ本を紹介したり、書いた文章を公開したりするための場です。執筆記事は西アジア史関係が多いですが、読書は西アジアにこだわらず地域・時代を広く浅く扱っています。
当ブログの内容を雑誌・書籍等にご利用されたい場合はご一報下さい。
管理人への連絡は掲示板か拍手でどうぞ。

検索フォーム
カテゴリ
リンク
アクセスカウンター
月別アーカイブ