526年 記事番4 ザンギー、カリフに敗れる
イスラム歴526[西暦1131-1132]年 完史英訳1巻P294-295
「イマード=アッディーン・ザンギーのバグダード遠征と敗退」
括弧内は管理人の注
管理人は翻訳・要約に責任を持たない
以下訳文
「イマード=アッディーン・ザンギーのバグダード遠征と敗退」
括弧内は管理人の注
管理人は翻訳・要約に責任を持たない
以下訳文
中国史上のイスラーム・回儒あれこれ
中国には現在2000万人のムスリム(イスラーム教徒)が居住していると言われ、中国の人口の70人に1人がムスリムだそうです。もちろん彼らは現代に突然湧いて出たわけではなく、歴史上様々なルーツがあるわけですが、多くは漢化して漢語を母語としています。
イスラームの教えは当然アラビア文字のアラビア語で書かれているものが大半なわけですが、そうなると中国内の漢語を母語とするムスリムの中にはアラビア語を読めず、イスラームの正しい教えがどのようなものであるのか分からなくなってくるという状態も生じます。
そんな状況下で、明末から清初にかけて、漢文を用いてイスラーム典籍の翻訳・著作を行う学者たちが現れることとなり、そういう漢文イスラーム文献を著した学者たちのことを「回儒」と呼びます(自称ではない)。
何で突然回儒の話が出てくるかというとイブン・アラビーを調べていた時にイブン・アラビー学派文献目録データベースで劉智にぶち当たったのがきっかけなんですが、これがなかなか面白い。
ちなみに劉智は中国四大経学派の一人と目される人物です(残りの三人は王岱輿、馬注、馬徳新)。
彼らは儒教の専門用語を用いてイスラーム教育にあたったり、自らの思想を著したりしており、儒教とイスラームの相性の良さを主張する言説もあったり(例えば「孔孟の教えで[『大学』にいう]身を修め、家を斉え、国を治めることはわれらイスラームもおなじであって、その是非については議論する必要などまったくない」――『正教真詮』問答紀言(『中国のイスラーム思想と文化』から引用))する一方では儒教の理気二元説が批判されていたり……と、中国思想との関わりが大変興味深い。
経歴も面白い人がいて、馬注(1640-?)は、雲南の保山生まれで、父を七歳の時になくし、祖父に育てられ、十六歳のときに秀才となり(=科挙の受験資格を得る)、十八歳のときに明の亡命政権、南明の官吏となっています。
で、ありながら呉三桂の攻撃により南明の永暦帝がビルマに逃亡すると、馬注は雲南の武定で教学に従事するようになり、1669年、三十歳の時に北京にむかい、北京に十数年感滞在し『清真指南』の執筆を開始、1684年に北京から中国各地を回ってムスリム学者たちから稿本に対する意見や詩をもらい、1687年に雲南に戻る……と。
西アジアのウラマーたちはイスラーム時代初期には各地を歴訪して勉学を修めたものの、時代が下り地方でも学問的に習熟してくると、在郷で学べるようになりあまり旅をしなくなったそうですが、中国ではムスリム知識人の数も少なく、やはり各地を回らなければいけなかったのだろうかと思ったり。
また、馬徳新はメッカ巡礼を果たしています。
管理人も不勉強なので詳しいことは読んでくれとしか言えないわけですが(アジア遊学の『中国のイスラーム思想と文化』が初心者向け)、日本の学者は伝統的に漢籍に強く、また戦後はイスラームに強い人もどんどん増えてますから、これは日本人の活躍が期待できる分野でありまして、今後とも注目しなければならないと思う次第です。
以下、回儒に関する日本語の書籍とネット上で読める参考資料
イスラームの教えは当然アラビア文字のアラビア語で書かれているものが大半なわけですが、そうなると中国内の漢語を母語とするムスリムの中にはアラビア語を読めず、イスラームの正しい教えがどのようなものであるのか分からなくなってくるという状態も生じます。
そんな状況下で、明末から清初にかけて、漢文を用いてイスラーム典籍の翻訳・著作を行う学者たちが現れることとなり、そういう漢文イスラーム文献を著した学者たちのことを「回儒」と呼びます(自称ではない)。
何で突然回儒の話が出てくるかというとイブン・アラビーを調べていた時にイブン・アラビー学派文献目録データベースで劉智にぶち当たったのがきっかけなんですが、これがなかなか面白い。
ちなみに劉智は中国四大経学派の一人と目される人物です(残りの三人は王岱輿、馬注、馬徳新)。
彼らは儒教の専門用語を用いてイスラーム教育にあたったり、自らの思想を著したりしており、儒教とイスラームの相性の良さを主張する言説もあったり(例えば「孔孟の教えで[『大学』にいう]身を修め、家を斉え、国を治めることはわれらイスラームもおなじであって、その是非については議論する必要などまったくない」――『正教真詮』問答紀言(『中国のイスラーム思想と文化』から引用))する一方では儒教の理気二元説が批判されていたり……と、中国思想との関わりが大変興味深い。
経歴も面白い人がいて、馬注(1640-?)は、雲南の保山生まれで、父を七歳の時になくし、祖父に育てられ、十六歳のときに秀才となり(=科挙の受験資格を得る)、十八歳のときに明の亡命政権、南明の官吏となっています。
で、ありながら呉三桂の攻撃により南明の永暦帝がビルマに逃亡すると、馬注は雲南の武定で教学に従事するようになり、1669年、三十歳の時に北京にむかい、北京に十数年感滞在し『清真指南』の執筆を開始、1684年に北京から中国各地を回ってムスリム学者たちから稿本に対する意見や詩をもらい、1687年に雲南に戻る……と。
西アジアのウラマーたちはイスラーム時代初期には各地を歴訪して勉学を修めたものの、時代が下り地方でも学問的に習熟してくると、在郷で学べるようになりあまり旅をしなくなったそうですが、中国ではムスリム知識人の数も少なく、やはり各地を回らなければいけなかったのだろうかと思ったり。
また、馬徳新はメッカ巡礼を果たしています。
管理人も不勉強なので詳しいことは読んでくれとしか言えないわけですが(アジア遊学の『中国のイスラーム思想と文化』が初心者向け)、日本の学者は伝統的に漢籍に強く、また戦後はイスラームに強い人もどんどん増えてますから、これは日本人の活躍が期待できる分野でありまして、今後とも注目しなければならないと思う次第です。
以下、回儒に関する日本語の書籍とネット上で読める参考資料