食うものと食われるもの、記録しようと狙うもの―西アジア史食事情―

 以前、せんだい歴史学CafeさんのUstream放送で「突撃!レキシの晩御飯!」という放送回がありました。大谷さんの「究極のメニュー -ローマ皇帝風A定食-」のお話を聞いていて、面白いなあと思いつつ、そう言えば西アジアの理想的な食のあり方ってどんなものだっただろう、と気に留めつつはや一年以上。ちょっと手元にいくつか面白いネタがあるので半分は備忘録も兼ねて紹介したいと思います。今回の軸は(素材が)贅沢か質素かではなく単に質量です。

 まずはローマ皇帝の食事についてかいつまんで復習。メイン史料は『ローマ皇帝群像』こと『ヒストリア・アウグスタ』です。対比しやすい人物をひとまずピックアップしましょう。
 アルビヌス帝(位:196-7)について、「アルビヌスは大食漢であり、人間の限界を越えるほどの大量の果物を消費していた。(中略)空腹の時にアルビヌスは、ギリシア人がカリストルティアエと呼んでいる乾燥無花果を500個、カンパニア地方の桃を100個、オスティアのメロンを10個、ラビクムのブドウを10ポンドゥス、鳥を100羽、牡蠣を400個食べたのであった」*1と『皇帝群像』は述べています。
 モンタナーリ『食の歴史』を引く井上文則先生の分析を取るならば、ローマ皇帝は質素な食事を取るべきで、贅沢を戒めるべきという思想が『皇帝群像』には顕著なようです。また、肉よりも野菜の方が好まれ、野菜や穀物など人の手が加わって栽培されたものこそ文明的な食であるというイデオロギーの存在も指摘されています。要するに(3~4世紀以降の観念では)「悪帝」は肉の多い贅沢な食事を取り、「善帝」は野菜メインの質素な食事を取る、ということになります*2。アルビヌスが悪帝カテゴリに入るかどうかは微妙なところですが、ともかく、これを一端頭に入れておきましょう。

 さて、翻って中世アラブ世界。
 よく知られている人物のひとりですが、実は大食いの逸話があったのか、というのがこの人、ウマイヤ朝初代カリフのムアーウィヤ。以下はイブン・アッティクタカーの述べる彼の大食いの様子。
「また次のようにも伝えられている。焼いた仔牛一頭が彼のために調理されたが、彼はこれと一皿の漂白パンと四個のケーキと、炊きたての仔山羊一頭とその他各種の料理をことごとくたいらげた。ついで100ラトルの野菜が給仕されると、これも食べてしまった」*3
 なお、1ラトルは地域によって差もありますが、どれだけ少なく見積もっても500グラム弱です。イブン・アッティクタカー曰く、ムアーウィヤは寛大で忍耐強かったものの、こと食べ物に関してだけは貪欲で吝嗇だったとのこと。
 一日五回の食事を取り、最後の一回が最も豪華だったようですが、その最後の食事を終えて小姓に片付けをさせる際に「片付けるがよい。実のところ満腹とはいかぬが、疲れたによって」などと言っています。
 また、サラディンの弟でスルタンにもなったアーディルについて、マクリーズィーはこう伝えています。
「彼の食欲は飽くことを知らず、焼いた羊まるまる一頭を彼一人で平らげることができた」*4
 マクリーズィーはアーディルに対してはそこそこ好意的ですが、即位してからは贅沢三昧だったことも伝えています。
 いずれも常人には不可能な大食いなので、著者たちの意図なのか、著者たちの時代までに自然とついた尾ひれなのかはともかく、創作である(少なくとも誇張である)ことは確かです。それにしても、どういう理由があったのでしょうか。ムアーウィヤにしろアーディルにしろ、権謀術策を駆使して国盗りの道を成り上がったという暗い側面がある一方、他者に寛容・寛大で彼らの治世に国は繁栄したという明るい面もあります。これだけでは判断しかねるのですが、イスラームの文脈を押さえたとき、基本的にハディースは食べ過ぎを戒め、質素で禁欲的な食事を良しとします*5
 例えば、ティルミズィーが収集したハディースに以下のようなものがあります。
「二人分の食事は三人に十分であり、三人分の食事は四人に十分である」
 ということは、これはやはりローマ皇帝の場合と同じく、上の逸話は二人を非難する文脈と読むべきなのでしょう(とは言え、先にも書いた通り、イブン・アッティクタカーもマクリーズィーも、二人の長所も述べているので、数ある長所短所のうちの一つ、といったところでしょうか)。

 面白いのは、同じ西アジアでもイランでは大食いに関して、肯定的な評価が見られるということです。取り上げるのは『王書』こと『シャー・ナーメ』、対象は言わずと知れた英雄ロスタム。
 まずはロスタムが生まれた場面。
「10人の乳母がロスタムに乳を与えるが、乳は男の力であり実質をつくるもの。離乳期にはいって食べはじめると、食事はパンと肉で大人の五人分を平らげて、この子の食事の世話は疲れ果てる」*6
 食べ盛りにもほどがあるだろう、という話ですが、成長してからも彼は食べます。
 ロスタムは狩りを行い、多くの獣をしとめると、「手頃な木をえらび焼き串をつくって一頭の野生ロバを刺し通すが、ロスタムの手にかかればそれは鳥の羽根ほどの重さもない。ロバが焼けると、肉を切り分けてたべ、骨を折り割いて髄をすする」*7
 文字通り、骨の髄までしゃぶる、といったところでしょうか。英雄はワイルドに食うというイメージがあるようです。

 なんにせよ、どちらかと言えば食事というのはプライベートの領域に属する話で(むろん饗宴などもあるわけですが)、それをあれこれ評され、場合によっては尾ひれとして話が膨らんだりするのも、政治家というのは大変だなあとは思うのでありました。

*1 アエリウス・スパルティアヌス『ローマ皇帝群像』2巻 p.182
*2 井上文則「ローマ皇帝たちの食卓-『ヒストリア・アウグスタ』に見る-」『食文化-歴史と民族の饗宴』
*3 イブン・アッティクタカー『アルファフリー』1巻 p.221
*4 Maqrizi , A History of the Ayyubid Sultans of Egypt , p.170 より重訳。
*5 鈴木貴久子「食事」『新イスラム辞典』 pp.283-4
*6 岡田訳『王書』 p.188
*7 岡田訳『王書』 p.212

ムアーウィヤに関しては、ムスリム・イブン・アル=ハッジャージュが収集したハディース集『サヒーフ』に以下のようなものもある。
「イブン・アッバースは次のように伝えている
私が子供達と一緒に遊んでいると、アッラーの使徒がやって来たので私はドアの後ろに隠れました。
しかし彼は(どんどん)やって来て私の肩を軽くたたくと「行ってムアーウィヤを呼んできなさい」と言いました。
こうして私は行って戻って来て「彼(ムアーウィヤ)は食事中です」と言いました。
すると彼はまた私に「行ってムアーウィヤを呼んできなさい」と言いました。
そこで私は行って戻って来ると「彼は食事中です」と伝えました。
すると彼は「アッラーが彼の腹を決して満腹にしないように」と言いました」
これが誇張された可能性もあるだろう。
なお、訳は日本ムスリム協会版による。



『王書』は東洋文庫版(黒柳恒雄訳)と岩波文庫版(岡田恵美子訳)がある。いずれも抄訳ではあるが、東洋文庫版はソフラーブの巻、ビージャンとマニージェの巻およびロスタムとシャガードの巻は原典の全訳。岩波文庫版はコンパクトで、ハイライトを抽出しており、また訳されていない部分もダイジェストとしてあらすじがついていて概観するには便利。文章は岩波文庫版の方が読みやすい。

岡本隆司[編]『宗主権の世界史』


 近代の国際秩序の確立を、東洋史側から問い直す一冊。

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近況・新刊情報と最近読んだ本など

 ご挨拶が遅れましたがあけましておめでとうございます。
 2016年はヌルハチの後金建国から400年にあたります。去年は八旗に関する研究書が二冊も出ましたが、途中まで読んで積んでいるのでちゃんと通読せねばと思います。

 新年最初の記事は真田丸に便乗したアイユーブのコラムでした。
 真田丸は一話・二話を見た限りでは勝頼がなかなか格好いい悲劇の武将として描かれていて好印象。監修には黒田・平山・丸島の三先生方に加え、軍事監修に西股先生を入れるという豪華さぶりで、コント的な部分も三谷脚本の本領発揮といった体です。お話は天正壬午の乱に突入していきますが、引き続き見守っていきたいと思います。

 さて、新刊情報。
 中公新書今月の新刊は『キリスト教と戦争』、『古田織部』、『イタリア現代史』といろいろ面白そうな本が出ます。発売日は25日。
 スンナ派神学を正面から扱った貴重な本、松山洋平『イスラーム神学』が28日。
 東北の古代史四巻『三十八年戦争と蝦夷政策の転換』は来月15日に。
 また、来月25日にはイスラーム原典叢書シリーズ『ムスリム同胞団の思想』の下巻が出ます。これで残すところ未刊は劉智『天方性理』だけになります。2010年11月にシリーズが始まった当初は四ヶ月に一冊刊行という触れ込みでしたが、遅れたもののやっと終わりが見えてきたというところでしょうか。

 以下、最近読んだ本。

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アイユーブ―表裏比興の男―

 ここのところ世間は真田信繁(幸村)で湧いています。真田家と言えば、機を見るに敏で寝返り移り身を繰り返し、生き馬の目を抜く戦国時代にあって国衆から見事近世大名にまで成り上がった一族です。中でも信繁の父である真田昌幸は、仕えていた武田家が滅亡した後の天正壬午の乱の時期をかわぎりに、僅か三年ほどの間に織田、上杉、北条、徳川、再び上杉と主君を変えており、なかなかの世渡り上手であったことが伺えます。秀吉は、この世渡り上手を表裏があって信用できないとみなし、「表裏比興の者」と評しました。

 ところで、セルジューク朝(特に西部)が分解しつつあった十字軍時代の西アジアにおいても、寝返りを繰り返して生き残り、最終的に王朝にその名を冠せしめることになる人物がいました。他でもないサラディンの父、アイユーブです。
 もともとアイユーブ一家はクルド系の住民が多いアルメニアの都市、ドヴィーン出身のクルド人でしたが、アイユーブの父シャージーの代にシャージーの旧知の友人、ビフルーズの伝手でセルジューク朝に仕官し、ティクリートの城代を務めていました。アイユーブは父の職掌を引き継ぎ、ティクリートを治めています。
 しかしながら、時代には既に動乱の機運が漂い始めていました。イラク北部やシリアでは分封されたセルジューク朝の幼少の王子たちを後見していたアタベクたちが半独立(ザンギー朝、ブーリー朝など)。バグダードでは長らく実権を奪われていたアッバース朝カリフが軍事指揮権を回復し、直轄支配地の拡大に乗り出します。
 アイユーブは、当時イラク北部を二分する勢力であったザンギー朝とアッバース朝の間にあり、アッバース朝に敗れて追われていたザンギー朝初代アタベク、イマードゥッディーン・ザンギーの逃亡に手を貸します。
 数年後、事情があってティクリートを離れざるを得なくなったアイユーブはこの時の縁を頼ってザンギーのもとへ転がり込みますが、これが彼の変転の経歴の始まりでした。
 ザンギーはシリア北方のアレッポを拠点とし、シリア南方のブーリー朝のウヌル治めるダマスカスと度重なる勢力争いを繰り広げていました。アイユーブはザンギーのもとでウヌルから奪ったシリアの都市、バールベクを任されますが、ちょうど武田信玄が上杉謙信と勢力争いを繰り広げていた前線である川中島の押さえを、真田幸綱が任されたようなものでしょう。

 ところが、ザンギーは四方への快進撃の最中、子飼いの奴隷に酒の諍いで殺されてしまいます。天正壬午の乱ほどでは無いにしろ、ザンギーの旧領も南方のウヌルの侵攻、本拠奪還を狙うエデッサ伯国の扇動、ザンギー朝からの独立を狙うアルトゥク朝の離反などにより混乱し、二つの拠点であったモスルとアレッポもザンギーの二人の息子、サイフッディーンとヌールッディーンの間で分割されました。
 この時、一度目の寝返りとしてアイユーブは仕官先をウヌルに変え、弟シールクーフはヌールッディーンに仕えさせています。家を割って存続を図るのは真田家でもしばしば見られましたが、アイユーブの場合はどちらかが滅びるということはなく、後年アイユーブはシールクーフと再開を果たすことになります。

 ウヌルに仕官し、いくつかの村落を得てダマスカスに移住したアイユーブは、あまり行動がはっきりしないもののウヌルに仕え、第二回十字軍の侵攻の際には息子シャーハンシャーが防衛戦で戦死しています*1。また、ウヌルとヌールッディーンがザンギー時代の方針を転換し同盟を結んだため、兄弟相討つ可能性はほぼなくなりました。
 しかし、ウヌルが死ぬとアイユーブは二度目の寝返りを準備しはじめ、ヌールッディーンに仕えていたシールクーフと連絡を取り、ヌールッディーンに有利になるようダマスカス市内で工作を始めました。最終的にアイユーブは民兵組織の好意的中立を取り付けることに成功しますが、この民兵の指揮を執っていたのはダマスカスの歴史家イブン・アル=カラーニシーの兄弟でした。
 イブン・アル=カラーニシーは兄弟を通してアイユーブを知っていた可能性があり、アイユーブを以下のように評しています。すなわち、「決断力と知性、それに状況への対応能力に優れていることで知られている男」である、と*2。アイユーブの評価には、彼の息子サラディンがエジプトのスルタンになったこともあり、過大評価される可能性がありますが、イブン・アル=カラーニシーが死去したのは1160年で、彼はサラディンがエジプトの支配者になるということを知りません。その点、アイユーブの評価として知っておくに足ると言えるでしょう。
 ヌールッディーンは自身の計略とアイユーブの協力もありダマスカスを無血で接収。アイユーブはヌールッディーンのもとでも重用されるようになります。ヌールッディーンの御前でも唯一彼のみがヌールッディーンの許可を得ずとも着席することを許されていたといいます。普通であれば、アイユーブはヌールッディーンの重臣として生涯を終えたでしょう。しかし、彼の前には三度目の離反の機会が待っていました。

 よく知られているように、アイユーブの息子サラディンはヌールッディーンの命によりエジプト遠征に派遣され、エジプトで独立を果たすことになります。アイユーブはヌールッディーンとの直接対決は避けながらもエジプトをヌールッディーンの影響下から切り離そうとするサラディンをよく支えました。イブン・アル=アシールによると、彼は主戦派を宥めながらもこっそりとサラディンにこう語っています。「神にかけて、もしヌールッディーン公が例えエジプトのサトウキビ一本にでも手を出してみろ、私は死ぬまで戦うだろう」*3

 真田家は信州の故郷を守るために寝返りを繰り返しましたが、アイユーブ家は(少なくともアイユーブ本人は)領地を転々とし、必ずしも土地には執着を示しませんでした。都市化していたとは言え、山岳遊牧民であるクルドの価値観が影響しているのかもしれません。
 この表裏比興の男、アイユーブの最後は、落馬による事故死というあっけないものでした。裏切り・離反を繰り返したとは言え、息子がサラディンであるためか、あるいは本人の人望か、そこのことを非難するアイユーブ評は、意外なことにあまり見られないのではありました。

*1 Eddé SALADIN p.24
*2 Ibn al-Qalanisi The Damascus chronicle of the crusades p.273 より重訳
*3 Ibn al-Athir The Chronicle of Ibn Al-Athir for the Crusading Period from al-Kamil Fi'l-ta'rikh part.2 p.200 より重訳



 真田昌幸については古くは人物叢書の柴辻俊六『真田昌幸』が定番であったが、ここのところ良書の出版が相次いでいる。さしあたり価格が手頃で内容も詳しい丸島和洋『真田四代と信繁』を挙げておく。
 アイユーブについては専門に扱った書籍は無いが、サラディン関連のものに記述がある。邦語では佐藤次高『イスラームの「英雄」サラディン』とアミン・マアルーフ『アラブが見た十字軍』。英語ではEddé SALADIN
 原典には英訳のあるものがあり、イブン・アル=アシールとイブン・アル=カラーニシーはそれぞれD.S.RichardsとH.A.R.Gibbが訳している(ただしイブン・アル=カラーニシーは抄訳)。
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鉄勒京二

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