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原稿/一応完成

一応最後まで書き上がりました
まだ調整とかムアッザムについての加筆とかはするかもしれませんが大筋はこんな感じ

登場人物

・リュズガル
エジプト軍の百騎長。字はサイフッディーン<信仰の刃>。トルコ系の男。
・ナシーム
リュズガルの部下の女十騎長。ベルベル系のトゥアレグ族出身。
・アル=カーミル
実在。エジプトのアイユーブ朝第五代スルタン。字はナスィルッディーン<信仰の勝利>、本名ムハンマド。アル=カーミルは<完全>の意の尊称。イスラム最大の英雄のうちの一人サラディンの甥。
・アル=ムアッザム
実在。ダマスカスを都とするシリアの領主。アル=カーミルの弟。
・ファクルッディーン
実在。貴族。エジプトの優秀な外交官。
・フリードリヒ二世
実在。神聖ローマ皇帝。イタリア名はフェデリーコ二世。第三回十字軍を率いた指揮官の一人フリードリヒ一世バルバロッサ<赤髭帝>の孫。
・ヘルマン・フォン=ザルツァ
実在。ドイツ騎士団第四代総長。後の世に「十三世紀のビスマルク」、「中世最大のドイツ人政治家」と呼ばれることになる男。
・アルヴィーゼ
実在。イタリア人聖職者。
・ペドロ・デ・モンタギュー
実在。テンプル騎士団第十六代総長。他の騎士団と対立。
・ペラギウス
実在。スペイン人枢機卿。

以下本編
一 フランク
「この世の民は二つの種類に分かれる。頭脳はあるが信仰のなき者と、信仰はあるが頭脳のない者と」
――アブール=アラー・アル=マアッリ


 アイユーブ朝が治めるエジプトの北端、港湾都市ダミエッタの海に面した城砦。
 街を攻め立てるフランクから、空が割れんばかりの鬨の声が響いた。
「……まずい!」
 未明。守備隊の誰かが目を見開いて唸った。
 港を封鎖していた鉄鎖の一端を固定してあった小島の砦、そこにとうとう敵が侵入し始めたのである。

 門扉が突き破られた。
「神の御旨だッ!!」
「主よ! 御照覧したまえ!」
 凄惨。血飛沫で視界が紅い。十字の旗を掲げた男達は、怒声と悲鳴と断末魔が入り交じる中、誰のものともつかぬ耳や指を踏みつぶして猛り進む。石畳が赤黒くぬめる。
「さあ来いフランク! 俺が地獄に堕ちるまでに千人道連れにしてやるッッ!」
「アッラーフ・アクバルっ!」
「うわあああっ! もう駄目だあああっ!」
 決死の覚悟を決めるトルコ騎士がいる一方で、一目散に逃げていくアラブ兵がいる。
「投降する! 助けてくれ……」
 聞く耳持たず、十字剣が振り下ろされる。マントの十字に飛び散る脳髄。
「異教徒の降伏など認めてはならん! 進め! 進むのだ!」
 砦の小島に横付けされた船の上から聖職者が叫んでいる。

 味方の多くが倒れるか逃げるかしている。その中で、男は未だ戦っていた。
「さあ来い。次、道連れにされたいやつは誰だ……!」
 イフリートを思わせるぎらつく眼光で辺りを見回す。さしものフランク兵も、足が止まった。
 ただ男一人のために膠着したフランク兵の前に、一人、金髪の男が進み出た。流暢なアラビア語で尋ねる。
「名を聞いておきたい」
「ダミエッタ守備隊、この砦を預かっているイマードゥッディーン・オルハン・アル=バスリーだ」
「オルハン、か。ドイツ騎士団総長ヘルマン・フォン・ザルツァ。お相手願おう」
「フランクにしては紳士的な男だな」
「騎士の道に則るまで」
 オルハンが頷き、剣撃が交差する。
 一握りの戦士達の英雄的な戦いではもちろんのこと十分ではなく、瞬く間に砦は占拠されてゆく。


 陽が、昇った。砦は完全に占拠された。
 西洋の暦にして一二一八年、八月二五日のことである。
 ヨーロッパからイスラム・ユダヤ教・キリスト教の聖地であるイェルサレムの征服を目指す遠征軍が派遣され始めて一世紀を越えた。現地のイスラム教徒達からは「フランク」と呼ばれ、後の世にヨーロッパでは「十字軍」と呼ばれることになるその遠征軍は、大きなものだけでも既に四回を数えている。
 一度は聖地イェルサレムを征服しイェルサレム王国を建国した十字軍であったが、寛容と高潔で知られたイスラムの英雄、サラディンによりイェルサレムを奪回される。それから四半世紀の間、イスラム勢力はイングランドの獅子心王リチャード一世率いる第三回十字軍を退け、イェルサレムを保持してきた。
 イェルサレムの再征服を目指すローマ教皇は遠征軍の組織を号令。ここに十字軍の再結集となる。
 十字軍はイェルサレム支配を恒常化するため、イェルサレムを押さえるアイユーブ朝の心臓部であるカイロを制圧することを計画、その第一段階としてダミエッタに上陸したのであった。
 小島の砦が陥落して港の封鎖が解かれても、ダミエッタはなお奮戦した。攻城戦は続く。


「殿下の援軍が駆けつけたぞ!」
 街の後方に待機していたエジプトの副スルタン、アル=カーミル(まだスルタンに即位していないので現時点では正確にはナスィルッディーン)の部隊が急を察しフランクに急襲をかけた。港の封鎖が解かれたことによって完成するかと思われていた包囲は、カーミルの部隊によって阻止されたのだ。
 しかし事態は予断を許さなかった。
 数日後、エジプトのスルタン、アル=アーディルが死去したという報せが舞い込んだ。本来ならばカーミルがスルタン位に就く筈であるにもかかわらず、カイロでは一部の者がクーデターを起こそうとする。スルタン位継承の内乱が起こってはフランクに対応できようはずもない。
「必ず救う、今は許せ……!」
 そう呟き、カーミルは苦渋の選択としてダミエッタ戦線を放棄し、カイロへ急行する。ダミエッタの包囲は完成してしまう。反乱分子を叩き、即位を急いで済ませたカーミルは、弟アル=ムアッザムの協力を得て再度ダミエッタへ取って返す。しかし十字軍の軍勢は多く、加えてこの年はナイルの増水による水位の上昇が例年よりも低かったため、エジプト軍は食糧難に見舞われていた。


 陣中。天幕。
「陛下……! その条件は……」
 エジプトの外交官、ファクルッディーン・イブン=アル=シャイフは若き君主アル=カーミルの提案に息を飲んだ。
「必ず助けると、私はそう誓ったのだ」
 鈍く光る目で、カーミルはファクルッディーンを見据えた。
「人民は承伏いたしませんぞ……!」
「かまわぬ、ダミエッタ住民幾万の命に代えられるものなどない……」
 驚くべき休戦協定の提案、大いなる譲歩。
「そのような条件で助けられたとて、ダミエッタの住民は喜びますまい。むしろ怒りにかられることすら無いとは……!」
「分かっている。全ての責め苦は私が負う」 
 カーミルは、文書に署名するためにインク壷を侍従に求めた。


 しばし後。十字軍陣営は、色めき立った。
「乗らない手はありますまい!」
 カーミルが示した大盤振る舞いの休戦協定に、会議に参加した十字軍の王侯貴族達は次々に賛意を示す。しかし。
「ならん! 異教徒と和議を結ぶなどもっての他!」
 スペイン人枢機卿ペラギウスは喚いた。厄介なことに、ローマ教皇はこの狂信的な聖職者に遠征軍の全権を与えていた。
「神の御意志は戦によってのみ実現されるのだ! ついてはダミエッタを陥とし……カイロまで進撃する。然かる後、骨を抜かれたシリアを奪い、イェルサレムを我らの手に!」
「馬鹿な……!」
 そう呟いたのはローマ教皇から連絡係として派遣された聖職者アルヴィーゼであった。しかし、枢機卿ペラギウスとテンプル騎士団総長ペドロ・デ・モンタギューに睨まれ、押し黙る。
 代って口を開いたのは、ドイツ騎士団総長、ヘルマン・フォン・ザルツァ。
「無用な戦の為、何人の兵の屍を異国の土地に晒させるお積もりか。なるほど左様、聖地の為なら命を投げ出そうというもの。しかし今、この協定に乗れば兵の損害無く……」
「ゲルマンの田舎者には黙っていてもらおうか。今、カーミルが休戦協定を持ち出したのは彼の王が窮地にあるがため。戦えば勝てる! エジプトを押さえられればこの大地から生まれる利益を神のために使うこともできるであろう」
 テンプル騎士団総長ペドロはヘルマンの言を遮った。ラテン系の人間が多数を占め、ドイツ皇帝と対立するローマ教皇が主導する十字軍の中で、ゲルマン系の人々は常に弱い立場に立たされていた。騎士団の中でもドイツ騎士団のみが唯一ゲルマン系である。
「待たれよ! 人口に劣る我らがエジプトを恒常的に支配することが可能とお思いか!?」
「私に賛同する者には、起立を願う!」
 ヘルマンを無視し、枢機卿が言う。テンプル騎士団総長とは、真っ先に立ち上り、辺りを睨み回した。続いてテンプル騎士達、イェルサレムが陥落したにもかかわらずその肩書きを保持し続けているイェルサレム総大主教、そしてイタリア人諸侯達、総長を含めた多くの聖ヨハネ騎士達が起立する。そしてやや遅れ、数人のドイツ人諸侯が、最後に暗い面持ちで聖職者アルヴィーゼが立ち上がる。
 憮然としてヘルマンとドイツ騎士団の騎士達は座していた。
「ふむ、賛成多数のようだの……」
 ペラギウスが笑った。ヘルマンは背筋が凍るのを感じる。
 目を細め、ペラギウスは言い放った。
「そういえばそこのドイツ人が捕虜にしておった異教徒がおったのう。連れ出してもらおうか」

 ダミエッタ城。突如、攻城側から矢の雨と投石機による砲撃が止んだ。怪訝に思ったムスリムの守備兵達が城壁の外を見ると、男が縛られて転がされていた。
「オルハンだ……!」
 誰かが呟く。
 果敢に戦っていた彼は、痩せこけ、傷だらけであった。
「見るがいい、異教徒共よ!」
 高位のキリスト教聖職者と思しき男が、スペイン語で叫んでいる。
「我はローマ教皇猊下より全権を預けられし枢機卿ペラギウスである! 今、貴様ら異教徒に異教に身を捧げることの愚かさを知らしめる! この男の行く末を、しかと見るが良いであろう! 神の御心に逆らうものがどうなるか……」
 隣に立つ男が大声でアラビア語に通訳する。
 途端、オルハンは大きく笑い出した。
「結構なことだ! 貴様等が神の御心に従ったと言うのであれば、何故サラディンはイェルサレムを奪回できたのであろうな!」
「黙れ! 異教徒め!」
 言葉は通じずとも何を言っているのかは雰囲気で分かるのだろう。枢機卿がオルハンに杖を突きつけると、二人のテンプル騎士が棍棒でオルハンの腹と背を強かに殴りつけた。一時的にオルハンの息が止まる、目を剥き、喘ぐ。怒りと悲嘆の声が城内から上がる。

「ぬう……外道め……!」
 枢機卿の行為を眼前に、ヘルマンは唸った。
「異教徒を挑発して何になるというのですか。怒る彼らはなお抵抗する。我が方の損害も増えるばかりではありませぬか。エジプトを支配するにしても被征服民の力を借りねばならぬというのに……」
 部下のドイツ騎士がヘルマンに話しかけた。
「それも勝てた時の話だがな……。すまぬ、オルハン……!」
 ヘルマンは苦々しい顔で答える。
 アルヴィーゼが、無言で震える拳を握りしめているのが見えた。彼は枢機卿から目を背けた。すると、一面に広がる騎士団員達の死体が目に入ったのか、さらに面持ちが暗くなる。
「これが聖戦だというのか。かくも多くの者が故国を離れた異郷の地で屍をさらさねばならぬとは……」
 その台詞を聞いたヘルマンは彼に言葉をかけようとしたが、テンプル騎士団の総長が先に耳ざとくそれを聞きとがめた。
「よいではないか。奴らは天国へ行ける。生き残った我々にはエジプトの富が手に入る」
 そう言って彼は笑う。アルヴィーゼはその言葉に反論した。
「しかしパウロもこう言っているではありませんか。『外の人を裁くのは、わたしのすることであろうか』。異教徒を裁くのは神の権限であって、我々の権限では無い。これは神の権限を横取りしているのでは……」
「しかしルカの福音書はこうあるぞ。『入るように強制せよ』」
 それきりアルヴィーゼは黙ってしまった。
「……無益」
 ヘルマンは呟いた。

 オルハンはこれ以上ないほどに痛めつけられていた。両手両足の指は既に無い。
「…………なるほど……枢機卿は、他人の手を借りねば……神の、名を持ちだして、なお……捕虜の処刑も、自らの手で、満足に、出来ぬのか……」
 オルハンは喘ぎ喘ぎ、皮肉の言葉を発する。
「黙れ! 黙れ! 黙れっ!」
 枢機卿の言葉と共にテンプル騎士達はオルハンを殴り続ける。

「父さん……!」
 城内で、少年が呻いた。
「リュズガル……!? 下がっていろと言ったはずだ!」
 守備兵の一人が少年を押し戻そうとする。
「父さんが……! 父さん!!」
 呼吸を整え、城の外のオルハンは再び怒鳴った。
「俺はどうせここで死ぬ、だがお前達は諦めるな! 俺の無念を晴らす時まで!! フランク共が二度とこの地を踏まなくなるまで! エジプト軍よ! 息子よっ!!」
 最後まで言い終わらないうちに、テンプル騎士の棍棒がオルハンの首筋に直撃した。
 白目を剥いて倒れる父の姿を、リュズガルは見届けた。
「う……あ……」
 目を、そらせない。
 父の首が落とされ、そのまま投石機に載せられ、放物線を描いて城内へ……。
 そこでリュズガルの意識は途絶えた。


 結局、ダミエッタは一時的に占領される。しかし、無謀にもカイロへの道を突き進んだ十字軍は王弟ムアッザム率いるシリア軍によってダミエッタまでの退路と補給線を断たれ、ナイルの増水によって泥濘に足を取られる。これを待ち構えていたカーミルのエジプト軍がナイルの堰を切り、十字軍は総崩れの有様となった。彼らはダミエッタの明け渡しと即時撤退、八年間の休戦という条件を飲まねばならなかった。
 こうして今回の十字軍もまた、失敗に終わった。




二 カイロ
「エジプトはナイルの賜である」
――ヘロドトス


 ――七年の歳月が流れた。アイユーブ朝エジプトの首都、カイロ。
 空が青い。市場には南中した強い日差しを避けるために厚い日除けを張った出店が並び、果物、穀物、精肉、インドから輸入された香辛料、雑貨などが視界一杯に広がっている。
 街の治安はすこぶる良い。スルタン自らが時折視察に出ているのだろう。
 目当てのものを買い求める人々の雑踏を割って一騎の騎馬が進んでいた。黒髪碧眼、トルコ系の男だ。薄く巻いた長布帽、砂色の日除けの外套、腰に差す剣は飾り気が無く、実用性を重視した作りになっている。
「久々のカイロだが……相変わらずで何よりだ」
 彼、齢二十三となったリュズガルは馬から下り、瓜を買い求めそう言った。
「騎士の旦那はカイロは久々なんですかい?」
 店の主人が尋ねる。リュズガルは招集を受け、百騎の騎兵とともにカイロに赴いたのであった。スルタンからの呼び出しを受けたため、騎兵を兵舎に留めこうしてカイロの道を進みつつ、まだ呼び出しに指定された時間には早いので、道すがら暇を潰しているのだ。
「まあな。アナトリアの方はどうなっているか知っているか?」
「カイクバードはなかなかの名君らしいと聞きましたぜ」
 カイクバードの話は以前からリュズガルも聞いていた。
 各地を歩いてきた商人達が集まるスークは、情報収集にはうってつけの場である。もっとも、信憑性のない噂も少なくはないのだが。
 他にも二、三尋ねてから、礼を言ってリュズガルは馬に跨り、瓜を囓った。冷たさと水分が乾いた喉にありがたい。
 瓜を食みながら馬を進める。しばらくすると、遠方に巨大な城壁が目に入る。サラディンが建設を開始し、最近になってカーミルの手により一応の完成をみた城砦だ。政府の諸機関がこの城壁の中に集まっている。城壁の上から鳩が飛び立っていくのが時折見える。各地と連絡を取るための伝書鳩だろう。

 そのシタデルの中の王宮で、カーミルは廊下から露台に出てピラミッドとナイルを眺めていた。平和だ。伯父サラディンが、父アーディルが守った平和だ。
 カーミルの思考を、足音が遮った。カーミルは目を廊下の奥へ向ける。
「陛下、ご無沙汰をしております」
 カーミルは廊下からペルシア製の絨毯が敷かれた応接室の中へと戻った。
「入れ。付いてこい」
 両開きの扉が開く。執務室は盗聴と暗殺を防ぐ為に窓が無い。壁は大理石が用いられており、天井からは蝋燭が室内を照らしている。しかし、部屋自体はそこまで広くはない。初代スルタンのサラディンが清貧を好んだことに加え、当時のエジプトの財政難もあり築城に資金をかけられなかったため、最低限の威厳を保つ造りにしかなっていないからだ。
 精緻なモザイク模様の描かれた壁の前に、スルタン、アル=カーミルは座った。
「サイフッディーン・リュズガル・イブン=オルハン、アル=ムアッザム殿下治めるシリアより只今参りました。本日より、親衛隊の任に就かせて頂きます。引き連れて参りました百騎はすでに兵舎に」
 進み出たリュズガルが儀礼として床に接吻した。
「よろしく頼む。顔を上げよ。……息災だったか?」
 カーミルの言葉に、上げられたリュズガルの顔が僅かばかり笑みを含んでいた。
「アラーの加護と陛下の人徳を持ちまして」
「七年ぶりか……。おぬしの父を救えなかったことは常に私の……」
 カーミルには後悔の念がある。七年前、ダミエッタは結局陥落した。カーミルが勝てたのは相手方の無能によるところが大きい。
「陛下、その話は」
「……うむ。ムアッザムの様子はどうだ?」
 カーミルは弟のことを尋ねた。王弟アル=ムアッザムはシリアを治めている。リュズガルはムアッザムの元から中央に派遣されてきたのだ。兄を頼むと言ったムアッザムの顔を思い出しながら、リュズガルは最近のシリアの状勢を交えつつムアッザムの様子について話した。
「そうか……何よりだ」
 一瞬、カーミルの顔が王者のそれではなく、ただ弟を心配する兄のものに見えた。が、すぐにエジプトの王者は威厳という鎧で表情を覆う。
「最近のフランクについての動向はどこまで知っている?」
「神聖ローマ皇帝、フリードリヒ二世が遠征を教皇から再三に渡って請求されていると。取るとすれば海路だと思われます。スルタン・カイクバード治めるアナトリアのルーム=セルジュークの領土を通過する愚はないでしょう」
 カーミルは頷いた。西洋最強の国家、ドイツを版図の中心とし、北イタリア、チェコなどを含む神聖ローマ帝国を治めるホーエンシュタウフェン家の当主、フリードリヒ二世が十字軍遠征の準備を進めているという。第三回十字軍の折にフリードリヒ一世が二十万の大軍を率いた国力は健在であり、かつフリードリヒはシチリア王も兼ねているためシチリア軍も動員できる。由々しき事態であった。
「時に、リュズガルよ」
「は?」
「キリスト教徒とは、何だと考える?」
 その唐突な質問の意図は計りかねたようだったが、しかしリュズガルは即答した。
「悪魔です。第一回の遠征時、聖地でムスリム、ユダヤ教徒、同胞たるキリスト教徒までも虐殺したその性格は何ら変わっておりません。七年前の来襲でそれを知りました。聞くところによれば、異端を征伐すると称してキリスト教徒相手のアルビジョワ十字軍とやらも行われたとか」
 カーミルは相変わらず鈍く光る目でリュズガルを見る。ややあって、カーミルは身を翻し、開いたままの扉の方を向いた。
 日の落ちるギザを見、喧騒が止み、明かりの灯り始めた市街を見渡す。
「この地の王がスルタンではなくファラオと呼ばれた時代より、ナイルが育んだ悠久の歴史、そこに根を張って強かに生きる人々。七年前、一歩間違えば縷々として続いてきたその営みが無に帰していたかもしれぬ。私は、守る。どんな手段を使ってでも、だ」
「微力ながら、お力添えさせていただきます」
 リュズガルは知らない。カーミルの決意が、七年前と同じものだということを。カーミルが七年前、どんな手段を使おうとしたかを。
「今度こそ、一滴の血も流させはしない。宗教戦争など無益。そうだな、友よ」
 カーミルの言葉は夕暮れに流れて消えた。
 ふと、彼は扉に目を向けた。同時に部屋の外から侍従が報告する声が聞こえた。
「陛下、ファクルッディーン卿が帰還なされました」
「おお、待っていたぞ。リュズガル、下がってくれるか」
「承知しました。では、失礼いたします」
 入れ違いに入ってきた中年の貴族と目があった。
 家柄だけで地位を手に入れる貴族というものが嫌いなリュズガルは形ばかりの礼をして通り過ぎた。カーミルのアイユーブ家とて実力無きものが王位に長く留まった試しはない。
「陛下、ただいま帰りました」
「どうだった、先方の様子は?」
「陛下が贈られた天体観測儀を受け取って子供のようにはしゃいでおりました。息子の次に大事にするとのことです」
「彼の御仁らしい……」

 カーミルの笑いを含んだ声を聞き、はて、誰のことだろうかと疑問に思いつつ、リュズガルは部屋を後にした。


 エジプトには軍事鍛錬場がある。最も完成された軍事鍛錬機構としての体裁を整え、モンゴルを撃破した世界最強の部隊の一つ、バハリ=マムルークを育成するのはまだ後の話だが、この時に既に宿舎、厩舎、武器庫、訓練場、礼拝堂を備え、原型は出来上がっていた。平時に兵はここで鍛錬に励む。その兵舎。石造りの平屋で、必要充分な造りになっている。リュズガルと共にカイロに着いた面々の多くは既にカイロの市街へ繰り出しているようだ。残っている人影はまばらだ。
「隊長って陛下から目を掛けられる理由が何かあるんですよね? 一介の百騎長が呼び出されるなんて」
 イスラム世界では珍しい女十騎長、ナシームが別の十騎長に尋ねた。彼女はイマズィゲンのトゥアレグ族出身の女性だ。トゥアレグは女系社会を構築しており、女性が腕などの肌を晒していることも多い。郷に入っては郷に従え、ということでナシームは一応肌を隠しているがそれも簡素なものである。
「陛下も同じ時期に父上を亡くしておられるからなあ。それにうちの隊長は実質五百騎長の実力を持ちながら若すぎるという理由で百騎長に留め置かれている人だから……」
「私はそれだけだと思わないけどなあ」
「? どういう意味だ」
 ナシームが反問に答える前に、扉が開いた。
「荷ほどきは終わったか?」
 リュズガルだった。
「隊長! おかえりなさい!」
「終わりましたよ。銘々麾下の兵を解散させていますが」
 十騎長の言葉にリュズガルは頷いた。
「しかしカイロが初めての兵もいるだろう」
「大丈夫です。カイロを知ってる私達の部下を見回りにだしてますから」
「抜かりないな。ところでなんで残ってる? お前達は出かけないのか」
「俺はただの野次馬ですが」
 ニヤニヤと笑いながら十騎長が言う。
「野次馬? 何の?」
「それはご自分で考えて下さいな。俺はそろそろ出かけてきますから」
 手を軽く振って彼は歩いて出ていった。
「あのバカ……余計なことを……」
 ナシームが呟く。
「ふむ……ところでお前はこれから暇か?」
 思い出したようにリュズガルが言った。
「は、はい! 暇です! え、え、何ですか、市街に一緒に……」
「いや、市街に出ようにも時間が時間だろう……少し鍛錬場を使ってみたいんだが。弓矢はあるな?」
「……」
「どうした?」
「いえ、もう、それでいいです! ……隊長と二人なら」
 最後の台詞は聞き取れなかったらしい。リュズガルは意にも介さず立ち上がった。
「よし、一汗流すか」



三 転機
「賢人は常に友人の事を思い出す。愚者は必要な時だけ思い出す」
――トルコの諺


 リュズガルは率いてきた騎兵と共にここで訓練をした。自由時間にはカイロの市街へ出て時間を潰すこともできる。
 ある日のこと。リュズガルがナシームを含む数人の部下と騎射の訓練に励んでいる時。
「頑張っておるなあ」
 一人の男が様子を見つつ呟いた。リュズガルは振り返って男の姿を認めた。
「ファクルッディーン卿……」
 リュズガルは歩み寄らせて馬を降りた。
「おお、トルコ人でも私の名を知っておったか」
 その言葉にリュズガルは片眉を上げ、口の端を下げた。
 ――この間会ったばかりではないか。忘れたふりをしているのか。
 さらに気に障ることがあった。
「どういう意味で仰っている? トルコ人でも、とは」
「これは失礼」
 そう言って笑う。
「アラブ人は年甲斐も無く他人を挑発するのが得意と見える」
「バカ……! 何言ってるの!」
 ファクルッディーンを挑発した誰かをナシームがひっぱたく。
「ふん、犬の遠吠えは良く響くな」
「ファクルッディーン卿、部下の不躾については謝罪する。しかし、貴方は結局何をおっしゃりたい?」
「気に入らぬ。カーミル陛下の御同情を誘ってその地位についた貴様等がな」
 ファクルッディーンの眉がつり上がった。
「我らに実力無しとおっしゃるか。家柄で立身出世した貴族が」
 売り言葉に買い言葉である。
「音に聞こえるトルコ兵、その強さは本当にそれほどのものかね? どうだ、証明してみはしないか。幸い剣闘の訓練場も近い」
 ファクルッディーンは剣の柄に手をかけた。
 リュズガルも弓を置いた。
 ――貴族の、それも文官なんぞに舐められて黙っていられるものか。
「よろしいでしょう。手加減は無用です」

 ――場所は移って剣闘訓練場。
 見物人が集まっている中で二人は白刃を抜いた。
 ファクルッディーンは両手で扱うアラブの典型的な直剣、リュズガルは東方の厚刃の曲刀である。
「な、なんでこうなるの……」
 審判に引っ張り出されたナシームがぼやく。
 ――リュズガルなら万一のことも無いだろうけれども。

「始め!」
 瞬間、刃と刃が噛み合った。ファクルッディーンの目が光を曳いて視界の左へと流れる。利き手とは逆の方向、常道である。だが。
 ――疾い!
 リュズガルは息を飲んだ。刃を回す。峰に手を当てて相手の一撃を相殺する。重い。
 一連のやりとりが終わって一度ファクルッディーンは距離を取る。
 ――甘く見ていた。強い。急所狙いの一撃で仕留められる相手ではない。
「どうした? トルコ兵?」
 相手は強い。しかしそれだけでこちらが負ける理由にはならない。リュズガルはニヤリと笑った。
「いえ、別に」
 言うが早いかこちらから仕掛けた。袈裟懸けに刃を叩き下ろす。弾かれた。しかし反動は大きいだろう。一瞬の隙。今度は突き込む。意表を突かれた顔のファクルッディーンは剣の平でそれを受け止める。
 突く。薙ぐ。時に峰打ち。変幻自在の剣技がファクルッディーンを襲う。しかし防御は固い。
「ぬ……」
 埒が空かない。一端距離を取ろうとするそぶりを見せ、ファクルッディーンを誘う。
 ――かかった!
 リュズガルの刀が回転し、柄がファクルッディーンの眼前に迫る。避けられた。相手は屈んでいる。
「!」
 低い位置からの叩き上げる一撃。辛うじて受け止める。
 しばらく一進一退の攻防が続く。

「むう、なかなか強いじゃないか、あの御仁」
 リュズガルの部下の一人が呟く。
「そうは言ってもうちの隊長も二十で百騎長に任命された男だぞ」
 別の誰かが応える。
「隊長が負けるわけないんです!」
「お前一応審判だろうが」

「……チッ!」
「……ぬっ!」
 双方、渾身の一撃。刃と刃の間が狭まり――――両方の刃が、折れて弾け飛んだ。
 ファクルッディーンは肩で息をする。リュズガルはそのまま地面に倒れこんだ。
「……やりおるな」
 ファクルッディーンは僅かに笑いながら呟いた。手を差し伸べる。それを掴んで、リュズガルは立ち上がった。
「……そちらも。大変申し訳なかった。心より非礼を詫びたい」
 深々と一礼する。
「いや、面を上げてくれ。仕掛けたのは私だ。大人げなかった……。ところで今日、いい酒が届いたのだが、一緒に飲まんか?」
「是非……!」
 コーランが禁じているのは酒に溺れることであって酒を飲むことではない。
「それはいいですけどお二人、剣、どうするの?」
「あ?」
「え?」
 ナシームに言われて気付いた。
「安く、譲ってはもらえぬのか……?」
 武器庫にある剣のことを言っている。
「平時ですから貸し出しはしますが売却は出来ないはずですよ」
 二人は一緒に肩を落とした。


 イタリア半島の南部に浮かぶシチリア島の森。鬱蒼と茂る木立、木漏れ日の中、ドイツ騎士団総長、ヘルマンは目の前の男の言葉に驚愕した。
 ヘルマンは騎士団のプロイセン地方進出の後ろ盾にこの男の力を頼むため、シチリアに滞在していた。そもそもヘルマンは彼の親密な助言者だった。デンマーク国王の釈放期限に関する交渉や、リューベックの帝国自由都市化など、この男のためにこなした実務も多い。
「本気であられる……!?」
 その、彼と親密な関係を持つヘルマンであっても、なお予想のつかない言葉を聞いた。
「当然だ。予がおぬしに嘘をついたことがあったか」
 眼前でアンダルシア種の黒馬にまたがる男、彼こそはフリードリヒ二世。
 赤みがかった頭髪に、人を射抜くような眼光を放つ碧眼。文武に秀で、堂々とした物腰。神聖ローマ帝国の皇帝にしてシチリア王国の王。艶のない黒い布を使った狩人そのものの服装。と、いうのも当然で彼は数名の侍従と個人的な友人でもあったドイツ騎士団総長のヘルマンを伴って鷲狩りに出かけていたのだ。
 木漏れ日が揺らぐ。その光を遮り、黒鷲が大きく羽を広げ、フリードリヒの差し出した腕に留まった。
 ヘルマンは落胆した。このシチリアで育ち、グリエルモ二世を祖父に持つ男ならあるいはと考えていたのだが。もう一人の祖父、フリードリヒ一世の血の性格の方が大きかったのだろうか。
「時は来たれり。十字軍を結成する」
 ヘルマンの落胆をよそに、キリスト教世界最強の軍事力を持つ男が、立ち上がろうとしていた。


 今日の鍛錬を終えてリュズガルとナシームはカイロの町中に繰り出してた。肉汁のしたたる焼き鳥を食べる。モスクの外には日向を避けて猫が転んでおり、その隣で子供達も昼寝をしている。
 頭上から、礼拝を呼びかけるアザーンが響いた。
「もうそんな時間か」
「早いですね」
 彼らはモスクの入り口へと足を向けた。日が暮れる前に外交官ファクルッディーンを尋ねるつもりだ。あの後、ちょくちょく親交を深めにファクルッディーンの所を尋ねていた。もっとも、ファクルッディーンは留守がちなので今日会いに行くのは久々である。
 出入り口に武器を置いてモスクへ入る。偶像崇拝を禁ずるイスラム故のがらんとした作りの寺院だ。聖像が無い変わりに壁面には美しい文様が刻み込まれている。

 礼拝が終わるとモスクの軒先を借りて各地のうわさ話に花が咲く……のだが最近の話題はあまり明るくない。
「ペルシアのホラズムトルコはほとんど滅亡したようなものらしいぞ。モンゴルの仕業だそうだ」
「聞くところによると中華帝国の北半分までをも支配しているらしいじゃないか。誰が奴らを止められる?」
「ホラズムの王子、ジャラールッディーンはモンゴルに一矢報いて未だ抗戦を続けているというが」
「しかしジャラールッディーンはルームを荒らしてカイクバードの敵意を買っているというぞ」
「ルームとエジプト、シリアが同盟すればあるいは……」
「でもカーミル陛下はシリアを治めておられる弟君アル=ムアッザム殿と仲が悪いじゃないか」
 彼らの話は専らモンゴルに関する。チンギス=カン率いるモンゴルは瞬く間に版図を拡大してきた。じきにエジプトも標的になるのではないかと皆心配しているのだ。
「フランクだけではなくモンゴルにも備えねばならんのか。頭が痛いな」
 リュズガルは呟く。
「モンゴル?」
 北アフリカ出身のナシームは東方の事情についてあまり詳しくない。
「俺達……トルコ人が半ば捨てた生活を未だに守っている連中だ。皆騎兵の機動力、兵站を考えないで済む生活形態、常に血を見る日常。連中は恐怖、疲れ、容赦を知らない」
 途端。一人の男が息を切らせてモスクに入ってきた。
「大変だ。今しがた着いた船の船員から聞いた。フリードリヒが、出航したらしい!」
「何だって!?」

 街が騒がしい。
「既に噂が広がったか。何のつもりだ、神聖ローマ皇帝よ」
 宮廷、ファクルッディーンは自室の執務机の前で眉を寄せて考え込んでいた。
「ファクルッディーン卿!」
 扉を開けて大股で歩み寄ってきた男がいる。
「む、リュズガルか」
「フリードリヒが出航したと聞きました……! 防衛戦の準備は?」
「ああ、陛下が念のため全軍に動員をお掛けになる。心得ておけ」
「承知」
 リュズガルの目が爛々と輝いているのをファクルッディーンは見逃さなかった。
 ――そうか、おぬしの父親は……。
 意気盛んに去っていくリュズガルの背中を見てファクルッディーンは深い溜め息をついた。
「勝てますか?」
 後から入ってきたナシームが尋ねた。敵は西洋の最強国、神聖ローマ帝国だ。
「勝てる勝てないの問題ではない。勝つ必要のない戦いに出来るか否かが問題なのだ」
 ファクルッディーンは目の間を揉む。
「?」
「それが外交。私の仕事だ。まったく……忙しくなる」
「どういうことですか?」
「詳しくは話せん」
 ファクルッディーンは首を横に振った。


「隊長もファクルッディーン卿も隠し事?」
 不満顔でナシームは廊下を歩く。どうにも自分は知らされていないらしいことが多すぎる。分からないなら調べるまで。城内の伝書塔へ向かう。鳩を飼っている飼育係とは顔見知りなのだ。各地の情報が集まって来る上に様々な人が利用するあそこなら何かしら分かるだろう。
 冷えた螺旋階段を上り、飼育室の扉を開ける。
「居る? って、あ」
 そこで飼育係にねぎらいの言葉を掛けていたのは。
「ご苦労だった」
 ナシームは目を見開いた。
「陛下!」
 眼前のその男、アル=カーミル。慌ててナシームは頭を下げた。
「む……確か、リュズガルの部下だったか」
「お、覚えて頂き恐縮です!」
「顔を上げよ、丁度聞きたいことがある」

 場所は変わってスルタンの執務室。
「楽にしてくれ」
 そう言われたところで簡単に楽には出来ない。招かれたナシームは恐縮しきりである。
 その態度に軽く笑ってカーミルは話題を切り出した。
「君は十騎長の中でもリュズガルと親しいそうだな」
「は……はい」
 乗り出した身体をカーミルは元に戻した。勿体を付けても始まるまい。
「彼に対フランク戦の先鋒を任せたいと思っている」
「……!」
 総力戦になればファクルッディーンやマムルーク隊の連隊長にも出撃してもらうことになるだろうが、先頭で柔軟な対応が出来るのはリュズガルくらいだ。一般に思われている以上にエジプトは人材不足なのである。
「その為に彼が適任かどうか、色々考えていたところなのだ」
 そこでカーミルは一端話を切った。ナシームが理解できているかを確かめる。
「は、はい」
「尋ねたい。リュズガルはフランクを前にして平静を保てると思うかね? いや、もっとはっきり言おう、彼はフランクに対する憎しみを御することが出来ると思うかね?」
「……彼は私情に流される人ではありません」
 ナシームにとってはそれがいささか残念な結果に繋がることもあるのだが。
「恋路の障害にでもなっているのか?」
 カーミルは微笑した。
「い、いえ! 決してそのような……!」
「彼にとっても、私にとっても、そしてある意味では……キリスト教世界とイスラム世界にとっても一つの山場となるだろう。乗り越えねばならん」

 ナシームは黙ってエジプトの王者の横顔を見つめた。雲の上の人だと思っていたカーミルは、しかし普通の人間とそう変わらぬ心性の持ち主のようだった。
 カーミルは続けた。
「イェルサレムに詣でたことは?」
「いえ、まだ……」
「そうか……平和の中にあってこその聖地だ。だからこそ、サラディン陛下は、ボードゥアン四世との休戦に合意した」
 イェルサレムが十字軍に占領されていたころ、そこを西欧人の中でも希有な賢王、ボードゥアン四世が治めていた時代があった。だが多数の過激派はこの王の判断を無視、王が病に倒れ亡くなるや否やイスラム陣営を襲撃に走った。この開戦が、結局サラディンによるイェルサレム奪回に繋がるのだ。
「だとしたら、平和を保たねばなりませんね」
「そう思ってくれるか」
 カーミルはしばし瞑目した。
「すまない、柄にもなく喋りすぎた」
「いえ、そんな……」
「色々と決心が付いた、礼を言う」
 その決心の内容を、まだ誰も知らない――。




四 前兆
「剣を取る者は、剣で滅びる」
――マタイ福音書



 十数日後。イタリア、ローマ教皇領、ラテラノ、教皇庁。
「フリードリヒめ……」
 苛立った様子で枢機卿ペラギウスは廊下を進んでいた。教皇に会うためである。
「教皇猊下!」
「どうした、騒々しいぞペラギウス枢機卿」
 広い部屋の中央に座しているのはローマ教皇グレゴリウス九世であった。
「フリードリヒの船団が……引き返したと!」
「聞き及んでおる」
 フリードリヒからの書簡には、船内でチフスが流行したので引き返す旨が書かれていた。しかしローマ教皇庁はそれを額面通りには受け取らず、教皇への挑戦と見て取った。ゲルフとギベリンの争い――簡単に言えば教皇派と皇帝派によるイタリアの主導権争いがあったからである。
「ど、どう処置なさいますか?」
「聖なる誓いを冒涜したのだ。決まっておろう……!」
 ローマ教皇は立ち上がりゆっくりと進み出た。
「キリスト教徒との交際を禁じ、ミサへの出席をゆるさず、皇帝を殺した者を罪に問うことはない」
 その意味するところは。
「……破門」
 ペラギウスは喜びを隠しきれない様子で呟いた。
「既に手続に入らせておる……。あの小男のうろたえる顔が目に浮かぶようだて……」


 しかし実際にはフリードリヒは焦燥はしていてもうろたえてはいなかった。船団はイタリアへ引き返し、フリードリヒはシチリア島のパレルモの宮廷に戻っている。
 やや窶れた顔、しかし相変わらず鋭い眼。フリードリヒはヘルマンから報告を聞いて鼻で笑った。教皇の予測とは裏腹に、彼は実際にチフスにかかっていたのだ。
「破門か……下らん」
 何気ない台詞だが、皇帝ハインリヒが教皇に雪の中裸足で許しを請うた「カノッサの屈辱」から一世紀半ほどしか経っていない時代である。
「……どうなされますか?」
 ヘルマンは尋ねる。
「予の病状が回復すれば、再度十字軍を招集する。他に方法もあるまい」
「……結局、教皇に膝を折るのですか」
 ヘルマンはそろそろこの男を見限ろうかと思い始めていた。が、「世界の驚異」と呼ばれたこの皇帝の決断の理由は、ヘルマンの想像の及びも付かぬものだった。
「何を馬鹿な。教皇に対抗するためだ」
「……!?」
 ヘルマンの驚愕をよそにフリードリヒは立ち上がり、窓の外を見渡し、その台詞を呟いた。
「『イスラム世界に完全に勝利すれば、再び救世主キリストが到来し、最後の審判が下され、キリスト教の世界が完成される』……フランス等ではそう言われているらしいな」
 そして振り返って笑う。
「素晴らしい世界だと思うかね?」
 その笑顔と、笑顔の背後の窓の外の風景に、ヘルマンは何を見ただろうか。
「おぬしは、何のために戦う?」
「……ただ、騎士としての誇りにかけて」
 フリードリヒは満足そうに頷いた。
「それでいい」


 エジプト、宮廷。
「フリードリヒよ、そういうことか。ならばこちらも受けて立つぞ」
 エジプトのスルタン、カーミルは外交官ファクルッディーンの報告を聞いてそう呟いた。
「どちらにせよ、戦闘の準備は無駄にはなりませなんだな」
 ファクルッディーンの言葉にカーミルは頷く。
「シリア方面に向けて進軍するぞ」
 状況は、人々の予想よりもはるかに流動的であった。かねてよりこじれていた、カーミルの弟のシリア領主アル=ムアッザムとの関係がここに至り破局寸前にまで悪化したのである。
 事を重く見たカーミルは、対十字軍に招集していた兵を、まずシリアのムアッザムのもとへ差し向け、圧力をかけることにしたのであった。

 交渉に当たらせるファクルッディーンを先頭に軍勢がシリアへの道を進む。
「ムアッザム閣下……何故。今、十字軍に立ち向かわねばならぬ時に……」
 シナイ地峡を馬で抜ける。砂漠の太陽に焼かれながら、リュズガルは呟いた。
「どんな人なんですか……?」
 隣を行くナシームが尋ねた。
「滾る義憤を隠そうともせぬ方、叔父サラディン陛下を誰よりも尊敬なさっていた」
 ダミエッタから逃れてきたリュズガルを自ら助けてくれた男。
 今にして思えばダミエッタの内情を知るにはリュズガルに尋ねる他なかったのだろうとも思うが、それにしてもリュズガルの境遇に涙を流す愚直さをあの男は持っていた。
 リュズガルが亡き父オルハンと同じ道に進もうと決意したのもムアッザムの勧めがあったからだ。
 だからこそ思う。何故。兄を頼むと言ったあの男が。
 彼の意図を知らず、ただ軍は進む。


 シリア南部、陣中、幕舎。
「来たか……ッ!」
 シリア領主にしてカーミルの弟、アル=ムアッザムは咳き込みながらも稜線を越えて現れたエジプト軍を見据えた。くずおれかけた身体を、慌てて側近が支える。
「父アーディルや兄カーミルとは違う。私は腰抜けの態度を取りはせんぞ……」
 どさりと、ムアッザムはクッションに身体を預けた。
 どのみち先は長くは無いだろう。万に一つも兄より長生きすることはあり得ない。しかし、その前に、釘をさしておかねば。
 その思考を、侍従の声が遮った。
「使者が参っております」
 ムアッザムは背筋を正した。
「通せ」

「アル=カーミル陛下の使者として参りました。ファクルッディーン・イブン=アル=シャイフでございます」
「久しいな、ファクルッディーン」
 ムアッザムはファクルッディーンを見、そして隣の護衛に目を向ける。
「……それに、リュズガル」
「ご無沙汰をしております、アル=ムアッザム閣下」
 ムアッザムは頷いた。リュズガルは一時期、ムアッザムの下にいた。
「陛下は息災か?」
 ムアッザムはカーミルのことを兄とは呼ばなかった。
「おかげさまをもちまして」
 ファクルッディーンの言葉を聞き、ムアッザムは目を閉じて背もたれに体重を掛けた。
「私はそうはいかんようだがな。……陛下からの言を聞こう」
「陛下は、閣下がすぐさま兵をダマスカスまで戻されることをお望みです。七年前、フランク撃退に協力したムアッザム閣下が、何故無為に疑心敵愾心を煽るような……」
「ああ、わかっている。その為だ」
「……!?」
「ファクルッディーン、リュズガル、お前達に直接会いたかった。こうでもせねば陛下は重鎮たるファクルッディーンと精鋭たるリュズガルを私の近くまで差し向けはしないだろうからな。護衛としてリュズガルまで直接出向いてきたのは想定外だったが……手間が省けた」
「我々に会う為に……?」
 二人は眉をひそめる。
「聞け、七年前のフランク来襲の時、兄が何をなそうとしたか」
 頭を振ってリュズガルが遮る。
「イェルサレムを引き渡そうとした、ですか? それは時間稼ぎの為だったはずです。事実、カーミル陛下は十字軍を退けた」
「では、何故私にイェルサレムの城壁を破壊するように命じた? お前なら分かるはずだ、ファクルッディーン」
 優秀な外交官は、押し黙った。
「……ファクルッディーン卿……?」
 ファクルッディーンはリュズガルの怪訝顔にも応じない。
「陛下が果たして、どのような意図を今現在持っているのか、本当に知っている人間はいないだろう。だが、予め言っておく、私が死のうとも、我が息子は承伏せぬ。やむなしと判断して兄の命令に従い、イェルサレムを引き渡す準備をしたあの戦いからの七年間、私は手をこまねいていた訳ではない。私が進めてきたシリア軍の拡充、そしてホラズムトルコとの同盟。十二分に十字軍に、そしてモンゴルに対抗できるはずだ。陛下は私が軍の整備を進めているのを中央を窺っているためだと勘違いしたようだがな」
「一つ申し上げておきましょう、フリードリヒは、閣下が思っているような人物ではない」
 ファクルッディーンはそうとだけ言った。
「どういう意味においてかな? 彼は『ムハンマドは詐欺師だ』と呼ばわる男だというが……っ」
 途端、ムアッザムは激しく咳き込んだ。
「閣下!」
 侍従が駆け寄る。
「大丈夫だ……。軍は退こう。もとよりエジプト軍と矛を交える気はない。だが、私の言葉、覚えておけ。リュズガル、重ねて言うぞ……兄を頼む……!」



五 黒鷲の旗
「イェルサレムでは、たったひとつの宗教が真理であったためしはない。いつでも複数の真理があった」
――アモス・エロン



 事態は予断を許さない。本年末、シリア領主アル=ムアッザム、病により死去。
 翌年、神聖ローマ皇帝フリードリヒ二世率いる十字軍、シリアにおけるキリスト教徒の拠点、アッカに上陸。

「……つまり、テンプル騎士団と聖ヨハネ騎士団は我々に協力する気は無い、と、そういうことだな?」
 アッカ。中東における数少ないキリスト教徒の街。海を望む小高い丘の要塞、その一室で、ローマ教皇庁から派遣された聖職者アルヴィーゼは皇帝フリードリヒと向き合っていた。地中海からの風が吹き込む窓、その外の空が青い。
「はい。恐れながら教皇猊下のご命令により、両騎士団は皇帝陛下に付き従うことができません……」
 破門された皇帝になぞ教皇の命令が無くとも従わぬ、とはテンプル騎士団総長の弁である。
「結構。ヘルマン、ドイツ騎士団にその命令は来ていたか?」
「いえ」
「ふん、教皇猊下は随分とドイツ騎士団の力を過小評価なされているようだ」
 半ば皇帝の私兵と化しているドイツ騎士団に命令を送っても無駄だと判断したという事もあるだろうが、恐らく教皇はドイツ騎士団が皇帝に付き従ったところで大きな役に立つものではないと考えているのだろう。
 ふと、皇帝がまじまじとアルヴィーゼを見つめた。
「アルヴィーゼ、おぬしはどう考えている?」
「……と、仰せになりますと?」
「血によって聖地を回復することについてだ」
 何故この皇帝は自分の意見など求めるのだろうか?
「……イエスの教えに適っているとは思えません。しかし……テンプル騎士団のペドロ総長と話しているうちに何が正しいのかも分からなくなってきました」
「私はこの後ヤーファに居るだろう。付き従う積もりなら来るといい。いつでも待っている」
 ――この皇帝は、何を言っている? 聖的権威者の教皇に仕えるべき自分が世俗権威の皇帝に仕えられると?
「おぬしは何が正しいのかを知っている人間だ。だが、それを認めるのを恐れている」
 ――どういう意味だ?
 説明もせず、フリードリヒはヘルマンを伴って部屋を立ち去った。

「ふむ」
 廊下。高い位置に付いた窓から数条の光が差し込む。光の柱の中で埃が舞っている。その光の柱の向こうに目を留め、フリードリヒとヘルマンは立ち止まった。光の差し込まない陰。そこに赤い十字を付けたマントの男が立っていた。
「久しいな。ヘルマン殿。そしてお初にお目に掛かります。皇帝陛下」
 テンプル騎士団総長、ペドロ・デ・モンタギューであった。ペドロは一歩前に進む。その顔を陽光が照らす。
「ペドロ殿……」
 ヘルマンが身構える。
「ゲルマンの田舎者に何か御用かな?」
 それを気にせず、フリードリヒはフランス語で応えた。完璧な発音である。
「我らテンプル騎士団、破門された皇帝に付き従う積もりの無い事、申し上げに参った」
 ペドロは高圧的な態度を取る。
「わざわざご苦労だが、先程既に耳に入れた」
 面倒くさそうにフリードリヒは言い放つ。
「一体どうなさるお積りか? 我々の力が……」
 言い終えるまで待たずフリードリヒは遮った。
「必要ない。私の仕事はドイツ騎士団が十二分の役割を果たしてくれるのでな」
 怒る素振りも全く見せぬフリードリヒに、ペドロは苛立ちはじめた。
「皇帝陛下……破門されている人間を殺しても罪にならないのを御存知か?」
 その言葉を聞いてヘルマンが剣の柄に手を掛け前に出ようとした。それをフリードリヒは片手で制す。
「人間の罪と罰は神が決めるものではない。法を司ることによって定められるもの……少なくとも、地上においてはそうだ。聖職者が政治の領分に手を出すか?」
「……無礼な……!」
「加えて言うならば私が破門されたからとて黙って殺される道理もない」
 射抜くような眼光で睨み付けた。
「ぬ……!」
 それだけで身動きできなくなったペドロの横をフリードリヒは通り過ぎる。
「教皇猊下によろしく言っておいてくれ」
 軽い口調で、フリードリヒはそう言った。
「破門を解くこと、能わずともよろしいか……!」
 ペドロはそれだけを絞り出す。
 フリードリヒはそれを鼻で笑った。
「破門なぞ、私にとっては勲章のようなものだ」


「これは聖戦だ! 西洋の大王との長期に渡る激烈な戦いに備えよ!」
 スルタン、アル=カーミルは全土に触れ回らせていた。
 エジプト軍はムアッザム亡き後のダマスカスへ北上、そしてダマスカス周辺の軍勢を組み込んだ。ただし、ダマスカスそのものはムアッザムの息子が治めており、カーミルには未だ従っていない。エジプト軍はひとまずダマスカス問題は保留、西進し、ヤーファ近郊の戦場へ向けて粛々と進軍する。
「……そうだ、陛下はフランクと取引など」
 ムアッザムとの会話から引っかかっていたわだかまりは消えた。カーミルはこうして軍を招集して士気を鼓舞しているではないか。ムアッザムの整えた軍勢も組み込み、ムアッザムの遺志を継ごうとしているではないか。
「いよいよですね!」
「ああ」
 そうだ、そのはずだ。そうでなければならない。手綱を握り直す。
「隊長」
「……ん、どうした?」
 ナシームの方を向く。
「上の空になってますよ、何か心配なことでも?」
「心配事ならいくらでもあるさ。お前や部下達の無事、軍勢がカイロを留守にしたことによる治安の問題……」
「そうじゃないですよ」
「?」
 あらためてまじまじとナシームの顔を見る。
「もっと近いところで気に掛かってることがあるんじゃないですか?」
「……お前の目は誤魔化せんな」
「何年付き合ってると思ってるんですか」
 一つ溜め息を吐いてからムアッザムとのやりとりの経緯を話す。
「イェルサレムを……!?」
「どこまで真実なのかはわからん。だがムアッザム閣下が命を賭けてまで俺達に伝えようとしたことだ……ファクルッディーン卿の返事も要領を得ん」
「陛下は……平和を願うと」
「平和……か」
 軍勢は、丘の上に出た。リュズガルは馬主を巡らす。
 平原一面に広がる銀の川。神聖ローマ帝国軍は、既に見下ろせる位置にあった。


 金地に黒鷲をあしらった神聖ローマ帝国旗が翻る。十字軍の中東における拠点の一つ、ヤーファ。
「皇帝陛下は……! 皇帝陛下はどこにおわす!」
 アルヴィーゼは、城塞に着くなり叫んだ。
「アルヴィーゼ殿か!」
 奥から大股で歩み寄ってきたドイツ騎士がいる。皇帝の留守を預かっている者のようだ。
「皇帝陛下に……お伝え下さい、剣を握る覚悟も、済ませて参りました……!」
「ありがたい……だが、その必要は無い。貴方に握って頂くのは剣ではないのです」


 舞台は戦場へと変わろうとしている平原へ移る。
「全軍! 攻撃態勢ッ!」
 総指揮を委ねられたファクルッディーンの号令が轟いた。
 馬蹄が地軸を揺るがし、両軍の距離が縮まる。白兵戦距離まで近づこうとしたとき。

 しかし――双方の陣営から、撤退の銅鑼が響いた。
 
「馬鹿なッ!」
 リュズガルは馬を急停止させ、唸った。陣、数、地形、どれを取っても我が方が有利だったはずだ。
「どういう積もりだああッ、ファクルッディーン卿!」
 大声で怒鳴る。何処に居るのか、ファクルッディーンからの返事は無い。
「やはりカーミルはイェルサレムを売るつもりなのだ!」
 元ムアッザム麾下の兵士が叫ぶ。
「ぬうッ!」
 リュズガルは歯軋りをした。
 ――憎き敵が、フランクが眼前に居るというのに見過ごすというのか……!
 戦略的撤退ではあるまい。帝国軍は規律正しく退いてゆく。予め周知徹底されていたとしか思えない。
「隊長……」
 ナシームがなだめようとする。
「何だ!」
 リュズガルの形相が怒りに煮えている。
「陛下は、隊長の事を見込んで先鋒を任せるのだと仰っていました。ですから!」
「くっ……」
 リュズガルは震える拳を握りしめる。父の言が脳裏を通り過ぎていく。
 ――二度とフランクがこの地を踏まなくなるまで!
 ――ムアッザムの想いはどうなる? イスラム世界を憂い、反逆者の汚名をかぶせられる危険を冒しながらもリュズガルに兄を頼むと言い残した彼の想いは! その兄によって否定されるというのか!
 だが、リュズガルは動かなかった。動けなかった。どのような手段を使ってでもエジプトを守ると言ったカーミルの言が心に残っていたから。カーミルに従うファクルッディーンの、戦った後のあの笑顔を覚えていたから。「俺は、どうしたらいい!?」
 だが、彼のように自制心を働かせる事が出来る者だけではなかった。
「これは神の意志に、そしてムアッザム閣下の遺志に反するッ!」
「フランクを皆殺しにしろッ!」
 かつてのムアッザム麾下の部隊が一つ、突出した。堪忍袋の緒を切らした別の部隊もいくつかが続く。もし協定が結ばれているなら完全な違反だ。だが、あの少数の部隊で勝てるはずがない。帝国軍は気付き、すぐさま迎撃態勢を取りつつある。とっさのことに他の部隊は動けていない。
「ち……っ。割って入るぞ! 続け!」
 リュズガルの部隊がドイツ軍と突出部隊の間に割ってはいる。
「退いて下さい! スルタンの顔に泥でも塗るつもりですかッ!」
 ナシームが叫ぶ。
「あの腰抜けが立てる顔など持ち合わせているものか!そこをどけッ! ムアッザム閣下の無念、はらさずにはおけぬ!」
 左翼部隊は突出した味方と睨みあっているが、右翼部隊はドイツ軍と戦闘に入ってしまった。
「相手方に死者を出すなッ!」
 カーミルの判断を推し量ってリュズガルはそう命令する。だが、その声は震えていた。

「ほう、見所のある部隊もあったものだ」
 馬上、低く呟いた。フリードリヒである。
「だが一部とは言え、戦闘になった以上、捕虜の一人でもとらんと納得せぬかもしれぬな……」
「私が出ます」
 ヘルマンは馬を躍らせた。

 ヘルマンはこの局地的な混戦で見事に指揮を執っている相手方の指揮官に目を留めた。
「まさか……オルハンの息子か……」
 その一言で全てを理解した。
「あ……の……ドイツ人ッ!」
 リュズガルの記憶が掘り起こされた。父をあの枢機卿の前まで連れてきた、あの男だと。同時に自制心などどこかへ吹き飛ぶ。
「総長!」
 ヘルマンの部下のドイツ騎士が前へ出ようとする。
「お前達は下がっていろ! これは余興の決闘だ。戦闘ではない!」
「余興だと……何のつもりだッ!」
 馬上、刃が噛み合った。重い。すれ違う。馬蹄の響きの旋回が早い。
「父を……オルハンを捕らえたのは貴様だな!」
「いかにも」
 リュズガルの剣撃が一層激しさを増す。
「恥知らずのフランクめッ!」
 その言葉と共に渾身の一撃がヘルマンを襲った。
「ぬッ!」
 受け止めたが、腕が痺れる。次の刹那、喉元に剣が突きつけられていた。
「待て!」
 第三者の声がアラビア語で割入った。
 堂々たる体格の黒馬。その上に跨っている。
「フリードリヒ陛下……」
 ヘルマンは呟いた。

「陛下だと……貴様が頭目か」
「そうだ。……そこまでにしてもらおうか、周囲を見てみろ」
 何時の間にやら孤立してドイツ騎士たちに囲まれている。遠く本陣の方をみやるとナシームは攻撃にでよとした部隊を押しとどめられたようだった。
「おぬしにはおぬしの仇を殺す理由があるのやもしらんが、予には予の部下を守る理由がある」
 フリードリヒは言う。
「そこでヘルマンを殺すも否もおぬしの自由。だが、ヘルマンを殺せば我々はおぬしを放っておくわけにはいかなくなる。あちらには、残してきた者もいるのだろう?」
「ナシーム……」
 リュズガルは呟いた。
「付いてこい。おぬしは予の捕虜だ」


「一時はどうなることかと思ったが……」
 ファクルッディーンは汗をぬぐった。
「どうなることかじゃないですよ! 隊長が……」
 ナシームは彼に詰め寄る。
「落ち着け、これから交渉に出向く。何なら付いて来るか?」
「やっぱり、最初から……」
「そう睨むな。私達にも事情というものがあるのだ」


「飲め」
 帝国軍の陣。フリードリヒは自らリュズガルに水を渡した。
「何のつもりだ? 毒でも入れたか?」
「アラブの伝統だ。私が知らないとでも思ったか」
 飲み物か食べ物を敵の指揮官から直接与えられた捕虜は命を助けられる、という伝統がアラブには存在する。
「だがお前はフランクだ。違うか?」
 リュズガルは問う。
「そう呼ばれる連中と、特にあのローマ教皇の馬鹿と一緒にしてほしくはないが……。まあ、キリスト教徒ではあるな」
 フリードリヒは頷く。リュズガルは動転しきっていた。この男、アラビア語を完璧に話し、異教徒に対して見下すところがなく、ローマ教皇を馬鹿にする。本当にフランクの頭目なのか……。
「キリスト教徒とは……何だ!?」
 リュズガルは思わず聞いていた。
「『人』だ。嬉しければ笑い、悲しければ泣き、絶望すれば時に狂信に走る。イスラム教徒とてそうだろう?」
「!」
 ――何なのだ、この男は。
 これまでリュズガルがキリスト教徒に対して持ってきた印象が音を立てて崩れ落ちた。


 数日後。リュズガルは一介の将校が捕虜になったときの扱いとは思えないほど丁重なもてなしを受けていた。
 そしてその日、朝日が昇るころ。
「皇帝陛下! ファクルッディーン、参りました」
「ファクルッディーン卿!」
 使者の出で立ちでファクルッディーンが現れた。どうも事態が飲み込めない。
「おお、久しぶりだな、座れ座れ」
 フリードリヒはファクルッディーンに座を勧める。
「安心しろ、すぐに戻れる」
 ファクルッディーンはリュズガルに言った。
「ファクルッディーン卿、あの皇帝は……」
「驚いただろう? 私も初めて会ったときは仰天した。フリードリヒ陛下がああいうお方だからこそ、カーミル陛下は休戦協定を結ぶことを承諾したのだ」

 ファクルッディーンの語るところによれば。
 モンゴルの驚異への対抗、及びムアッザムへの牽制を目的として、フリードリヒがイェルサレムを治めれば有効な緩衝国が出来る、そういう目論見がカーミルにはあった。しかし、ムアッザムの死去と、国内世論の反発により、容易にはイェルサレムを手放すことは出来ない。
 事態を察知したフリードリヒは、次のような手紙をカーミルに送った。
「友よ、伏して願う。私に、イェルサレムを引き渡してほしい。引き渡さない限り、私は国へ帰れない。キリスト教徒に対して、面目が立たないのだ」
 対するカーミルの返信は。
「私もムスリムの声に配慮せねばならない。我が国を脅かす宗教上の反乱を引き起こすかもしれず、カリフから罰せられる可能性も否定できないのだ」
 事態は進まない。しかし、ムアッザムの息子は父にもましてカーミルに対し牙を剥く。そしてモンゴルの馬蹄は今にも近づいていた。
「弱ったものだ、どうすべきかね」
 フリードリヒが困った口調でいながら相変わらず笑っているのを見て、ファクルッディーンはカーミルの事前の了承に基づいてこう言った。
「サラディンが高い犠牲を払って回復したイェルサレム、それを無償で引き渡すこと、人民は承伏せぬでしょう。それに反し、もし聖地にかかわる協定が、流血の惨を避けることが出来ますならば……」
「その言葉を待っていた」
 フリードリヒは立ち上がり、進軍を命じたという。
 つまり、双方にとっては顔を立てることが第一なのだ。無償ではなく、戦によっていたしかたなくという理屈を成り立たせることができたのである。
 ヘルマンが「余興の決闘」と言ったのは、フリードリヒとカーミルの、一戦も交えないという裏の協定を破らないためであった。

 以上のことを、ファクルッディーンはリュズガルに説明し終えた。
「こらこら、そこでなにをこそこそと話している。さっさと座らんか」
 そう言いつつ、フリードリヒはファクルッディーンが説明を終わるのを待っていたらしい。彼はファクルッディーンを手招きする。
「陛下、土産でございます」
「おお、これは! イブン=スィーナーの『医学典範』ではないか! 先日の天体観測儀といい、カーミル陛下は本当に気が利く! いやあ、アラビア科学は素晴らしい! そうだ! 私はついこの間鷹狩りに関する本を執筆したのだが、今度はそれを贈りたい。是非読んでくれ!」
 黴びた本を嬉しそうに眺め回し、イスラム文化への賞賛を隠さぬフリードリヒを見てますますリュズガルは混乱してきた。その上鷹狩りだと? イスラム圏でしか流行ってないはずの鷹狩りの本をキリスト教国の君主が執筆するとは……。
 リュズガルには知る由も無いことだが、この鷹狩りに関する書、「デ・アルテ・ヴェナンディ・クムアヴィブス」は後の世には近代鳥類学の始まりと認められる。
 一方の「医学典範」は、フリードリヒの宮廷でラテン語に翻訳され、中世を通じてヨーロッパの各大学で教科書として扱われることとなる。
「不思議なお方だと思うでしょう?」
 隣で聖職者らしき男がリュズガルに話しかけた。
「ああ……」
「私はあの方に魅せられてここへ参じたのです」
 アルヴィーゼと名乗ったその男は、自身が教皇庁と決別し、皇帝に付き従うことになった経緯を話し始めた。

 数週間前、アルヴィーゼは、枢機卿ペラギウスの前にいた。
「皇帝は確かにそう言ったのだな?」
「はい……」
「あの馬鹿め! 神をも恐れぬ輩め! 地獄に堕ちるがいい! 業火に焼かれろ!」
 アルヴィーゼは、皇帝を罵るペラギウスの言葉が、何故か自分にも不快なものに聞こえているのに気付いた。
「しかし、流血を避けて聖地を取り返すという行為は神の御心に適っているのでは……」
「愚か者! 異教徒と協定を結ぶなぞ悪魔と協定を結ぶに等しいわ! 血だ、異教徒の血が必要なのだ! 聖地を蹂躙する悪しき異教徒は駆逐されねばならん! ……そう思うだろう、アルヴィーゼ?」
 アルヴィーゼは返答に窮した。あの時と同じだ。ダミエッタを攻めた時、起立を求められた時と。思わず頷いてしまいそうになる自分に、僅かながら涙が出た。あの時、ヘルマン達は自分の意志を貫いて座り続けていたのに、自分は立ってしまった。恥ずかしいと、今更思った。
 声が、震える。
「お、恐れながら……! 私は枢機卿の言葉が正しいとは思いません! 聖地は異教徒にとっても聖地、互いを尊重する態度を取る者を排除すべきではありません!
私は、皇帝陛下に従いますっ!」
しばらく、ペラギウスは呆けたような顔をしていた。おそらく何を言われたのか理解できなかったのだろう。
「お、愚か者! 何を血迷った! 地獄に堕ちるぞ!」 ペラギウスはわめき立てる。
「き、貴様は、は、破門じゃ! そうじゃ、破門じゃ!二度とここへ戻ってくるでない!」
 アルヴィーゼはむしろ清々しい気分でその言葉を聞いた。
「そのつもりです。破門など、私にとっては勲章に等しい」
 相変わらず声は震えていたが、笑って、喚き立てるペラギウスを背にすることができた。
 剣を持つ覚悟でフリードリヒの元へ向かったアルヴィーゼに与えられた仕事は、剣ではなくペンを握ることだった。幾度と無くアル=カーミルへの親書を代筆した。
 ともすれば教皇側から送り込まれた人間と思われかねないアルヴィーゼを、フリードリヒは重用したのだった。何故と尋ねたアルヴィーゼに対して、フリードリヒは「狂信者の目ではない。それで十分だ」と言った。

「……そんなお方なのか」
 リュズガルは、アルヴィーゼの話を聞き終えて深い溜め息を吐いた。今なら、ファクルッディーンがムアッザムにフリードリヒはムアッザムが思っているような男ではないと言った意味が分かる。
 そして、気になる話が一つ。
「ドイツ騎士団は、最後まで攻撃に反対したのか?」
「はい。総長ヘルマン殿の方針でした」
 ――あの男……。
 噂をすれば、というわけでもなかろうが、ヘルマンが現れる。
「私はアルヴィーゼが思っているほど立派な人間ではない。すまぬ、リュズガル、君の父上を救えなかった……」
「……総長、一つだけ聞かせてもらいたい。ずっと気になっていたことだ。父は、勇敢に戦ったのか?」
 何故父が、という思いはずっとあった。捕虜になるくらいなら死を選ぶ男だと思うからだ。
「オルハンは最後まで一人の騎士として戦った。捕虜となったのも、私に敬意を示してくれたからだ。その思いに応えられなかった。重ねて言う、すまない……」
 何もかもが、溶解していく気がした。
 そうだ、最早リュズガルの中で、彼らは「フランク」ではなくなっていた。ムスリムと同じく正義を愛するキリスト教徒達だ。
 なれば、休戦協定は、父の遺志に、フランクが二度とこの地を踏まなくなるまでという言葉に、反しはしまい。
 突如。伝令が急報を伝えた。
「大変です! テンプル騎士団が、我々を狙って攻撃をしかけてきました!」
 皇帝はそれをさも予測していたかのように笑う。
「ふん、実力行使か。敬虔なことだ。全軍! 今度こそ本当の戦だ! 気を抜くなッ!」
 各国語で鬨の声が轟いた。その中に、少なからずアラビア語が混ざっているのをリュズガルは聞き逃さなかった。
「皇帝陛下!」
「なんだ、リュズガル?」
「私も、戦わせていただきたい」
「好きにするが良い」
 フリードリヒは、大きく笑った。


 テンプル騎士団総長ペドロは怒っていた。これまで対立してきた報いとは言え、聖ヨハネ騎士団に協力を断られ、教皇からは皇帝をいつまで放っておくのかと迫られ、部下達は血に飢えている。
 この際だ。
「皇帝を殺せッ!」
 ペドロはこっそりとアル=カーミルに手紙を送っていた。駐屯している帝国軍は実は見かけよりも数がかなり少ないこと。これこれの時間に襲撃を掛けるからそれに乗じれば皇帝を簡単に捕らえるか殺すかができるということ。


「ナシーム……心配をかけた」
 ファクルッディーンに護衛として付いてきていたナシームに、リュズガルは素直に謝った。
「いいですよ、無事だったんですから」
「そうだな……」
 それを一瞥し、ファクルッディーンは僅かに笑った。
「出撃するぞ!」
「はい!」
 ファクルッディーンの命令に、二人は勢いよく応えた。

 だが、戦線は混乱していた。相手は常に実戦を経験してきたテンプル騎士団である。帝国軍とて決して弱い軍隊ではないのだが、押され気味であった。
 そして。
「ふははははッ! 来たぞ、来たぞ、エジプト軍だッ!」
 ペドロは歓喜した。アル=カーミルの軍勢が、彼らのすぐ後まで来ているのが見えたのだ。
 だが、しかし。

「頃合いだ、掲げよ!」
 フリードリヒの号令。神聖ローマ帝国旗が、大きく広げられた。金地に羽ばたくカタジロワシの紋章。誇り高く舞う、皇帝の尊厳。
 続けて、ドイツ騎士団の旗が掲げられる。黒十字の旗がいくつかある中で、上下に黒の線が入った白地の旗がある。そこにも黒鷲の紋章が縫いつけられていた。
 そして。

 振り向いたペドロは驚愕した。
「馬鹿な……」
 エジプト軍が掲げた旗。白地に黒鷲。上下にはアイユーブ朝の象徴の色である黄色の線。

「はっはっはっはッ! やはり私の旗は格好いいな!」
 フリードリヒが笑う。
 ファクルッディーンが使者としてシチリアに赴いた際、フリードリヒは彼を騎士に叙任し、帝国鷲の紋章の仕様を許可していたのだ。

「観念しろ! ペドロ!」
 テンプル騎士団は、休戦を押しつけられ、すごすごと退いていった。

 数週間後。
「ここが聖地イェルサレム!」
 フリードリヒとナシームとアルヴィーゼが同時に同じ台詞を吐いたのを見て、リュズガルは苦笑した。
 テンプル騎士団との戦いの後、エジプト軍の指揮を執っていたアル=カーミルとフリードリヒは、直接会い、十年間の休戦協定に合意した。二人はただ握手を交わしただけだったが、それで充分のようだった。
 イェルサレム及びそこへいたるための回廊といくつかの都市の割譲が決定されていた。

 結ばれた条約の主な内容は。

第一条、アル=カーミルはフリードリヒにイェルサレム
    の統治権を譲る。
第二条、皇帝フリードリヒはムスリムの聖所、岩のドー
    ムを含む神殿の丘を侵してはならない。神殿の
    丘は、イスラムの法に基づき、ムスリムが管理
    する。
第四条、イスラームの威厳と尊厳を理解する者ならば、
    たとえキリスト教徒であっても岩のドームに立
    ち入れる
第六条、皇帝は、スルタンに敵対する勢力に、軍隊や食
    料を提供しない。
第八条、キリスト教徒がこの条約に反する行動を取る場
    合、皇帝はスルタンを守る。

「キリスト教世界と対立するのも辞さぬと……」
 協定を結ぶに当たり、全権を任されたファクルッディーンの驚愕に対し、フリードリヒはこう応えた。
「教皇の馬鹿となら既に対立しているさ」

 聖地を案内されたフリードリヒはアル=アクサーモスクと岩のドームの建築美を讃え、キリスト教の聖職者が福音書を手に、勝手にモスクに入ろうとしたのを見て、アラーに対する何たる不敬かと激怒した。
 夜、役人がフリードリヒを慮って祈りの時間を告げるアザーンを取りやめさせた。
 翌朝。
「何故昨夜はアザーンが流れなかったのだね?」
 フリードリヒはその役人に尋ねた。
「皇帝陛下の気分を害さぬ為、取りやめたのでございます」
 そう言われると皇帝は渋い顔をしながらも笑った声でこう言った。
「それはいけないことだぞ、お役人殿。そのようなことをするには及ばない。そんなことをすればあなた方が我が国へおいでになったときに教会の鐘を鳴らせなくなってしまうではないか。私が聖地で一夜を過ごしたのはとりわけムスリムの祈りの声を聞きたかったからなのだ」
 その言葉を聞いた役人は、恐縮しきり、その日のアザーンはいつものように流れた。
 アザーンが流れるにあたって、皇帝の部下の多くが祈りを捧げるのを見て、リュズガルは驚きに目を見開いた。
「皇帝陛下……こんなにもムスリムを部下に抱えていらっしゃったのですか」
「実力のある者は使う。それがキリスト教徒だろうとイスラム教徒だろうと変わらぬ。……私は平和主義者というわけではない。だが、宗教が違うという理由で友に剣を向けるのは男のすることではない。私は古代ローマ帝国の再興を夢見ている。ローマは寛容さによりあの巨大な版図を築くことに成功したのだ。それを見習うまで」
「古代ローマの再興……とおっしゃると、いずれは」
「エジプトと戦を交えることにはならんさ。少なくとも、友がこの地を治めているうちはな」

 イェルサレムを訪れたカーミルは語る。
「平安こそが神に祈るために必要なものだ。平和と秩序無き世界での祈りはすがりに過ぎん。されば、平和こそがイェルサレム。神聖にして不可侵なものだ。都としてのイェルサレムに全てのムスリムが住むことはできないだろう。しかし、全てのムスリムが……いや、啓展の民も含めて、神を信ずる者達が、平和というイェルサレムの許に住むことは不可能ではない。なればこそ、それを出来る人間にイェルサレムを預けたのだ」


 だが、平穏は長くは続かない。
「皇帝陛下! シチリア王国に教皇の軍が侵入しました! 総司令官は枢機卿ペラギウス!」
「ち……和平の価値を理解せぬ馬鹿どもめ」
 皇帝は、聖地を発たねばならなくなった。
「いずれ、また」
 カーミルが言った。
「再び会える日を楽しみにしている。友よ」
「フリードリヒ陛下、カーミル陛下」
「何だ、リュズガル」
 フリードリヒが尋ねた。
「ヘルマン総長から聞きました。ドイツ騎士団は、これ以後、プロイセンに拠点を移すと。ヘルマン総長は、私とナシームに皇帝陛下のことを頼めないかと……」
 カーミルは頷いた。
「行ってくるといい」
「留守のことは心配するな。たまには会いにいく」
 ファクルッディーンは笑う。
 シチリア王国では、ムスリムとキリスト教徒が共存しているという。
「あの言葉を聞き、窓の外を見たとき、私は皇帝陛下の意志を知った」
 ヘルマンは言う。フランスで流布されているという言葉を口にした後、フリードリヒはヘルマンに窓の外を見せた。そこには、笑い合うキリスト教徒とムスリムの姿があったのだ。
「君はどうする?」
 ヘルマンがアルヴィーゼに尋ねた。
「私は巡礼を保護するためにここに残ります」
 それぞれの道は、決まった。
「行くぞ」
 フリードリヒが言う。
「はい!」

 ――フリードリヒは彼らを伴ってシチリアへと去っていった。




 エピローグ



 この後、十年間の休戦協定はきっちりと守られた……だが、休戦協定が切れると同時にイェルサレムは再び強引にイスラム勢力に占拠されてしまう。
 ヘルマン率いるドイツ騎士団は、プロイセン地方に進出。裏切られたという思いがあったか否か、異教徒に対する凄惨なまでの征服戦争を展開する。
 だが、モンゴルとのワールシュタットの戦い、ポーランドとのタンネンベルクの戦いを経、敗北を知ったドイツ騎士団は、次第に寛容な社会を作り始める。
 十八世紀、かつての偉大な皇帝と同じ名を持つ大王、フリードリヒ二世の時代、騎士団国家の後裔国、プロイセン王国は、カトリック、プロテスタント、ユダヤ人、そしてムスリムまでもが集い、「理性の国」と呼ばれるようになっていた。
 そしてそのプロイセン王国がいよいよドイツを再統一しようという十九世紀、皇帝フリードリヒ二世の亡骸が学術調査を受けた。
 フリードリヒの袖には、次のような刺繍が施されていたという。

「友よ、寛大なる者よ、誠実なる者よ、知恵に富める者よ、勝利者よ」

 決して平和主義者などではなかったが、異教徒とも対等に付き合うことが出来たこの皇帝は、カーミルとの友情を重んじた。

 二〇〇〇年三月、ローマ教皇は十字軍が行き過ぎた行為であったと、初めて過ちを認めた。しかし、聖地を巡る争いは未だ解決を見ない。ユダヤとアラブの争い、そしてユダヤの背後には、キリスト教国アメリカ……。
 聖地イェルサレム。そこで理想が現実となる日は、来るのだろうか?



参考資料

■アラブが見た十字軍
アミン・マアルーフ リブロポート 一九八六年
■十字軍大全
エリザベス・ハラム 東洋書林 二〇〇六年
■十字軍
ルネ・グルッセ 白水社 一九五四年
■十字軍――ヨーロッパとイスラム対立の原点
ジョルジュ・タート 創元社 一九九三年
■テンプル騎士団の謎
レジーヌ・ペルヌー 創元社 二〇〇二年
■Truth In Fantasy 78 騎士団
須田武郎 新紀元社 二〇〇七年
■シチリア歴史紀行
小森谷慶子 白水社 二〇〇九年
■物語 イタリアの歴史 解体から統一まで
藤沢通郎 中央公論社 一九九一年
■物語 中東の歴史 オリエント五〇〇〇年の光芒
牟田口義郎 中央公論社 二〇〇一年
■世界の都市の物語10 カイロ
牟田口義郎 株式会社文藝春秋 一九九二年
■地中海のほとり
牟田口義郎 朝日新聞社 一九七六年
■サイレント・マイノリティ
塩野七生 新潮社 一九八五年
■ルネサンスとは何であったのか
塩野七生 新潮社 二〇〇一年
■騎士の時代 ―ドイツ中世の王家の興亡―
フリードリヒ・フォン・ラウマー 法政大学出版局 一九九二年
■東洋史と西洋史とのあいだ
飯塚浩二 岩波書店 一九六三年
■十字軍の思想
山内進 筑摩書房 二〇〇三年
■十字軍の精神
ジャン・リシャール 法政大学出版局 二〇〇四年
■十字軍という聖戦
八塚春児 日本放送出版協会 二〇〇八年
■文明の道 4 イスラムと十字軍
NHK「文明の道」プロジェクト 日本放送出版協会 二〇〇四年
■神聖ローマ帝国
菊池良生 講談社 二〇〇三年
■北の十字軍 「ヨーロッパ」の北方拡大
山内進 講談社  一九九七年
■十字軍の遠征と宗教戦争
ジェイムズ・ハーパー 原書房 二〇〇八年
■十字軍騎士団
橋口倫介 講談社 一九九四年

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