593年 記事番3 トゥクテギンの死

イスラム歴593[西暦1196-1197]年 完史英訳3巻P31 
「サイフ=アル=イスラームの死と彼の息子による継承についての記事」

括弧内は管理人の注
管理人は翻訳・要約に責任を持たない

以下訳文
 この年のシャワーウィー月[原注:1197年8月17日-9月14日]、サラディンの兄弟でイエメンの領主であったサイフ=アル=イスラーム・トゥクテギン・イブン=アイユーブがザビードで死去した。我々は、彼がいかに(イエメンの)権力を握ったかを既に記した。彼は厳格な統治者で、領民に厳しく、しばしば商人の商品を買い上げ、値段を好きなように決めてまたその品物売っていた。彼はメッカ――全能の神はかの地を守られんことを――を領有することを欲し、カリフのアル=ナースィル・リディン=アッラーは彼(トゥクテギン)の兄弟のサラディンにその問題について書き送り、サラディンはそれを止めた。彼(トゥクテギン)は言い表せないほどの金貨をため込んでおいた。彼はしばしばそれ(金貨)を溶かし石臼のような形にして売り飛ばした[原注a]。
 彼が死んだ時、彼の息子のイスマイールは彼の後を継いでイエメンの領主になった。彼は、自分がウマイヤの血統でクライシュ族だと主張するほど愚かで、神経症だった。彼は自身がカリフ・アル=ハーディ[原注b]。であると宣言した。彼の叔父のアル=アーディルがこれを聞いた時、彼は心配し悲嘆した。アル=アーディルはイスマイールに、彼に、本当の家系に戻り、捏造した家系を取り消すよう命じる非難と叱責の手紙を書いた。しかし彼(イスマイール)は行動を起こさず、撤回せず、それに加えて彼の軍隊やアミール達い対して悪し様に振る舞うようになった。そのため、彼ら(軍隊とアミール達)は彼(イスマイール)を殺し、彼の父(トゥクテギン)のマムルークであったアミールを王座につけた[原注c]。

a:ジャーハルに率いられたファーティマ朝の軍隊が969年にエジプトに侵攻した際、nombreux chameaux portaient ostensiblement des lingots d'or, fondus en forme de meules "pour impressioner les populations"(Wiet,L'Egypt arabe, 153)(どうやらフランス語らしい。翻訳できなかった)
b:すなわち「導く者」
c:アル=ムイッズ・イスマイールは598年ラジャブ月30日/1202年1月17日に殺された。イスマイールの弟アル=ナースィル・アイユーブのアタベク(後見人)であったサイフ=アッディーン・ソンコルが権力を握った。(Simt al-ghali,81-4)


要約
■サイフ=アル=イスラーム・トゥクテギンが死去
 ・彼は厳しい統治者だった
 ・彼はメッカを領有したがったが、カリフがサラディンに頼んでやめさせた
 ・彼は金貨をため込んでいた
■息子のイスマイールが後を継いだ
■イスマイールは愚図で、自分がクライシュの血統であると主張
■アーディルがそれを聞いて諫めるがイスマイールは無視
■イスマイールは部下を悪し様に扱ったので殺される
■トゥクテギンのマムルークだった男がイエメンの権力を握った

この後まだしばらくイエメンは名目上アイユーブ家の支配が続くが、しばらくの後にトルコ系のラスール朝に取って代わられるとのこと
それにしてもまさかトゥクテギンの息子がこんな電波だったとは……
一部の和訳にmimiさんのお力を借りました、感謝!
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鉄勒京二

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