514年 記事番4 イルガーズィーの遠征

イスラム歴514[西暦1120-1121]年 完史英訳1巻P214-215 
「本年のイルガーズィーの遠征についての記事」

括弧内は管理人の注
管理人は翻訳・要約に責任を持たない

以下訳文
 今年、アル=ムスタルシド・ビッラーは、彼(イルガーズィー)が追い出したフランク(十字軍)に対する攻撃に感謝するため、また、デュバイスを彼の陣営から抹消することを命じるため、サディード・アッダウラ・イブン・アル=アンバリーに名誉の衣を持たせてナジュム=アッディーン・イルガーズィーの許へ送った。トリポリの領主であったアブー=アリー・イブン=アマールは、彼(イルガーズィー)のもとに滞在し、イルガーズィーが与えてくれた場所で暮らすため、イブン・アル=アンバリーのイルガーズィーの許に行く旅に同行した。イルガーズィーはデュバイスを立ち退かせなかったことを謝罪し、そうすると約束した。イルガーズィーは彼に対して大規模な軍を招集したフランクに対して出撃した。彼らはアレッポ地域のダニース[原注a]で会敵した。戦闘が開始され激戦になった。勝利はイルガーズィーの手に転がり込んだ[原注b]。
 イルガーズィーとダマスカスの主人であるアタベク・トゥクテギン(ブーリー朝アタベク)は軍を併せ、フランクをマラント・アル=ヌマーンで一昼夜包囲した。彼らが勝とうとしているとき、アタベク・トゥクテギンはフランクが死を覚悟してムスリムに渾身の抵抗をすることを避けるため、包囲を解いた方が良いと示唆した。彼の懸念はトルクメン騎兵の欠点とフランク騎兵の長所のため引き起こされていた。そこでイルガーズィーは包囲を解き、フランクは持ち場から離れ逃げ始めた。イルガーズィーはトルクメンを戦利品に対する意欲でもって連れてきておりフランクの領土に長居することは出来なかったのだ。彼らのうちそれぞれが一袋の小麦と一匹の羊を持って到着し、簡単な戦利品を手に入れるまで数時間を数え、そしてねぐらに帰る。彼らの遠征が長引けば、彼らは四散しただろう。イルガーズィーは彼らに分配するのに十分な資金を持っていなかったのである。

a:この版での読み方は、ダート・アル=バクル(野菜の土地)がダニース・アル=バクルに置き換えられるべきだ。Cf. Ibn Qal., 200-201:'a place called Sharmada or Danith al-Baql'
b:これはAger Sanguinisの出典の文とまったく同じである。(513/1119年の以前の記事を参照)


要約
■カリフ・アル=ムスタルシドがイルガーズィーに使者を送った
 ・用件は対十字軍戦に対する感謝とデュバイスの処分の命令
 ・元トリポリ領主だった男がイルガーズィーの保護を受けるため同道
■十字軍が対イルガーズィー軍を招集
■イルガーズィー出撃、ダニースで大勝
■ダマスカスのトゥクテギンと軍を併せマラントで十字軍を包囲
■死兵の突撃を恐れたトゥクテギンが包囲を解くよう示唆
■イルガーズィーはそれを受け入れ包囲を解く
 ・というのも、トルクメン騎兵をこれ以上長時間雇う資金がなかった
■十字軍は敗走


この半分略奪軍みたいなトルクメン騎兵隊をまともに組織できるようになるのは、ザンギーの登場を待たねばならない。
また、ダマスカスのトゥクテギンはある程度十字軍と妥協してダマスカスの生き残りを図っており、包囲を解いたのはその外交方針も関係している……のかな。
プロフィール

鉄勒京二

Author:鉄勒京二
当ブログは一介の歴史好きが読んだ本を紹介したり、書いた文章を公開したりするための場です。執筆記事は西アジア史関係が多いですが、読書は西アジアにこだわらず地域・時代を広く浅く扱っています。
当ブログの内容を雑誌・書籍等にご利用されたい場合はご一報下さい。
管理人への連絡は掲示板か拍手でどうぞ。

検索フォーム
カテゴリ
リンク
アクセスカウンター
月別アーカイブ