514年 記事番1 王弟マスウードの叛乱

イスラム歴514[西暦1120-1121]年 完史英訳1巻P210-212 
「王弟マスウードのスルタン・マフムードに対する叛乱と彼らの間に起こった戦いについての記事」

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以下訳文
今年のラビ1月[原注:1220年6月]スルタン・マフムード(イラク=セルジューク朝スルタンのマフムード2世)と彼の弟、王弟マスウードとの間で戦があり、後者(マスウード)はこの時、モスルとアゼルバイジャンを領有していた。この戦の原因はデュバイス・イブン=サダカがマスウードのアタベク(後見人)のジュヤーシュ・ベクと協調しており、王弟マスウードに王位を求めることを促し、彼を助けることを約束したことだ。私達が既に語ったようにマリクシャーの息子の二人のスルタン、バルキヤールクとムハンマドの不和の間で彼の父が獲得した高い地位と名声を(同じように)彼が望んだため、彼の援助は紛争の原因となった。
 王弟マスウードのアタベクのカーシム・アッダウラ・アル=ブルスキはバグダード府を諦め、マスウードはアル=ラフバに加えマラーガを彼に割り当てた。彼とデュバイスの間には憎しみの溝があった。後者(デュバイス)はジュヤーシュ・ベクにアル=ブルスキを逮捕するよう助言し、彼のスルタン・マフムードへの好意への非難を書き送った。彼(デュバイス)は彼の逮捕のためにかなりの額の資金援助を申し出た。アル=ブルスキはこれを聞き、スルタン・マフムードの許へ行くためそれらを放棄し、マフムードは彼を名誉のうちに迎え入れ、彼に高い地位を与え彼の権力を増した。
 司令官アブー=イスマイール・アル=フサイン・イブン=アリー・アル=イスファハーニー・アル=トゥグライーが王弟マスウード[原注:の軍]に加わった。彼の息子のアブール=ムアイヤード・ムハンマド・イブン=アビー=イスマイールはしばしば王弟とともにトゥグラー[原注a]を書いたが、彼が [原注:前の]トリポリ領主アブー=アリー・イブン=アマールを513[原注:1119-20]年、コイのすぐ近くで解任した後、彼の父がマスウードに宰相として任命された。アブー=イスマイールはデュバイスの協力方針に賛同し、つまり、スルタン・マフムードに反抗し彼への忠誠を放棄した。
 この状況が公になり報せがスルタン・マフムードに届くと、彼(マフムード)は彼ら(マスウードら)がもし彼(マフムード)と断交するなら脅迫し、また、もし協調と忠誠を維持し続けるなら寛大に扱うと約束する手紙を書き送った。彼ら(マスウードら)は彼(マフムード)の言葉に耳を貸さなかった上に、隠していた計画を明らかにした。彼らは王弟マスウードをフトバ(金曜礼拝での説教)でスルタンであるとし、彼のために一日五回敬意を表する音楽を演奏すると宣言した。これはちょうどスルタン・マフムードの軍隊が四散している時期で、そのことが彼らをなおのこと勢いづけた。彼の軍隊が万全でない時(を見計らって)、彼ら(マスウードら)は彼(マフムード)に対する軍を編成した。彼(マフムード)は15000の兵を集め、彼らに対して動かした。彼らはラビー1月の半ば[原注:1220年6月14日]にアサダバードの峠近くで会敵し、早朝から日が沈むまで戦った。
 アル=ブルスキはスルタン・マフムードの先陣にいて、この日、英雄的な奮闘をした。王弟マスウードの軍はこの日の終わりには打ち負かされ、重鎮や士官の多くが捕虜になった。マスウードの宰相である司令官アブー=イスマイールは捕虜になり、スルタンは彼を殺すよう命じたが、「私はあなたの信仰と信条が邪悪であると固く信じている」と言った。彼の宰相としての任期は、齢60過ぎにして一年と一月で終わることとなった。彼は 秘書職と詩の分野において秀でていたが、彼が多くの作品の制作者だということを考慮に入れても、錬金術の技術への傾倒によって人々の資金を言いしれぬほど消費していた。
 王弟マスウードについて言えば、彼の軍隊が打ち負かされ四散させられた時、彼は戦場から十二リーグ(一リーグは約4.8km)離れた丘へ向かい、若いマムルーク達とそこへ隠れた。彼は彼の御馬番のウスマーンを安全な扱いを彼の兄弟に求めるために送った。彼(ウスマーン)はしかるべき時にスルタン・マフムードのもとへ向かい、彼の兄弟マスウードの事情を説明した。彼(マフムード)は彼(マスウード)を憐れみ、安全を保障し、アクソンコル・アル=ブルスキに彼の懸念をなだめるため彼の許へ行き、彼を許し連れ帰る旨伝えるよう命じた。彼が彼の安全の保障を求めた後マスウードはあるアミールと合流し、そのアミールは彼がアゼルバイジャンとともに領有してきたモスルに行くことはよい考えだと説得し、デュバイス・イブン=サダカに援助の夭逝を書き送り、彼の軍勢を増やし、王位への追求を再開することを助言した。彼は彼の現在の位置からこのアミールとともに離れた。
 アル=ブルスキが到着した時、彼はマスウードを見付けることができなかった。彼の分隊に、彼は彼(マスウード)の足跡を追いモスルまで彼を追跡すると告げた。彼は彼(マスウード)を追跡し、出発地から三十リーグのところで追いついた。彼の兄弟(マフムード)が彼を許し、何であれ望むものは保証した時、彼は彼の軍へ降った。スルタン・マフムードは彼の兵士達に彼を尊敬とともに迎えるよう命じ、彼らはそうした。彼は彼に彼の母と一緒にいるよう命じた。彼(マフムード)は会議を開き、彼の兄弟を召還した。彼らは泣いて抱き合った。マフムードは彼に同情し、彼(マスウード)が彼(マフムード)に求めたものを実行してやった。彼は彼と彼自身を彼の行為において結びつけた(マスウードは叛乱が自分の責任であると言った)。このことにより、マフムードは寛大な態度を取るよう揺さぶられた。アゼルバイジャンとモスルとジャズィーラのスルタンとしてマスウードがフトバを唱えられたのは28日間であった。
 アタベクのジュヤーシュ・ベクについて言えば、彼はアサダバードを通り過ぎ、王弟マスウードを待っていた。彼(マスウード)が現れなかった時、彼(ジュヤーシュ)は彼(マスウード)を別の場所で待ったが、彼(マスウード)は来なかった。彼は絶望し、モスルへ行きその外で野営した。彼は地方から穀物を市内に集めて、彼の軍勢と合流した。彼は、スルタンがスルタンの兄弟をどの様に扱ったか、そしてスルタンの兄弟がスルタンと一緒に居ることを聞いた時、彼はこれらの事情により、彼の立場を弁護できないことに気付いた。彼は狩りに行くと見せかけてそこを去りった。彼はザーブへ行き彼と共に来た兵士達に言った、「私はスルタン・マフムードのところへ行くことに人生を賭けることに決めた」。彼は出発し、ハマダーンの彼のところへ向かった。彼が御前へ来た時、スルタンは彼の懸念をなだめ、彼に保証を与え、彼を寛容に扱った。
 デュバイスについて言えば、彼はイラクにいて、王弟マスウードの敗北を聞いた時、彼は略奪し、土地にゴミを残し、邪悪な行動をそこでし始めた。それはスルタン・マフムードの使者が彼の元へ彼に勝つ[原注:のを試みる]ために来た時まで続いたが、彼は使者に注意を払わなかった。

a:「トゥグラー」は元来部族の印で公文書の証明に統治者の名前と称号を精巧に書いた字だった。(花押のこと)


要約
■イラクのスルタン・マフムードと王弟マスウードの間で紛争が起こった
 ・王弟マスウードがマフムードに叛乱
 ・マスウードのアタベクのジュヤーシュ・ベクがそそのかした
 ・ジュヤーシュはデュバイスと結託していた
 ・デュバイスは紛争に乗じて父親と同様に高い地位を得ようとしていた
■スルタンは降伏を呼びかけ寛大な扱いを保証するが反乱軍は無視
■反乱軍は金曜礼拝でマフムードの名前をスルタンとして唱えさせた
■マスウードは一万五千の兵を集め出兵
■アサダバード近郊で両軍が戦闘へ
■反乱軍敗北、マフムードの宰相も捕虜になり斬られた
■マスウードはマムルークとともに隠れた
■マフムードが彼を許すと言ったのでマスウードは降伏に傾く
■しかし部下のそそのかしにより再び軍を招集するつもりになる
■さらにしかし、使者が来た時、マスウードは降伏した
■ジュヤーシュ・ベクは許された
 ・失望し、モスルで篭城の構えを見せた
 ・しかしマスウードが許されたことを聞いた
 ・自身の行動に弁護の余地が無いことを悟り出頭
 ・マフムードは彼を許した
■デュバイスは自棄を起こし暴走した

ちなみにこの時、ジュヤーシュ・ベクの部下にザンギーがいる。訳文の通り、ジュヤーシュはマスウードを支持していたが、ザンギーは「兄弟の序列を守りマフムードを立てる」ようにジュヤーシュに進言したという。
デュバイスのその後については次の記事に続く。
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