ポストモンゴル諸国家におけるヤサとシャリーア覚書

 モンゴル帝国諸ウルスの崩壊後、モンゴルのウルスを直接ないし間接的に継承する国家・王朝がいくつか成立し、その中でも中央アジア以西の国家・王朝の大部分はイスラームを奉じていた。このイスラーム圏においてもチンギス統原理(チンギス・カンの男系子孫以外は君主になれないとするイデオロギー)が支配的であり、多くの君主はチンギスの血統をもって支配の正統化を図り、それは「タタールの頸木」を受けたとされるルーシにおいてもある程度の影響力を持った。
 自然、チンギスの血統を受け継ぐことを強調することはモンゴルの伝統を受け継ぐことを強調することに繋がり、これらの地域でもヤサ(モンゴル法)が施行されていた。しかし、その国家・王朝がイスラームを奉じている以上、シャリーア(イスラーム法)もまた一般市民の法秩序の中に溶け込んでおり、しばしばヤサとシャリーアとの間での摩擦が起こった。以下、ティムール朝とシャイバーン朝についてヤサとシャリーアの関係を見ていく。

 ……とまあ、偉そうなことを言ってますが、ヤサとシャリーアの関係についての覚書です。モンゴル系イスラーム国家と言えば黒羊朝やジャライル朝などもそうなんですが、今のところ資料が無いのでとりあえずティムール朝とシャイバーニー朝においてのヤサとシャリーアの関係を箇条書きにしておきます。

以下詳細
 
■ヤサ
 ヤサは、一般的にモンゴル法と訳されるが、法だけでなくチンギスが発した命令・勅令の意味も含むと考える見解や、政治制度・諸慣行を含む概念であるとする見解などがある。ポストモンゴル時代にもその役割は引き継がれた。

■ティムール朝において

1.バーブルの回想録には以下のようにある。

「以前には、私達の祖先らはチンギスのトレ(ここではヤサと同じ意味と考えて良い)を不思議なほど尊重していた。王侯の会議や会合でも、祝宴や食事の際も、坐る時も立つ時も、この掟に反することはしなかった。しかしチンギス・ハンのトレも、人が必ずそれにのっとって行動せねばならぬ金科玉条ではない。誰によってであれ、すぐれた規定が残されたなら、それに従って行動すべきである。しかしもし祖先がまちがった事をしたのであれば、正しい事とおきかえる事が必要である。」
 ここからわかることは、
 ・バーブルの祖先、つまりティムール朝の人々は、「チンギス・ハンのトレ」をきわめて尊重して違反することがなく、この掟が彼らの生活全般を規定していた。
 ・バーブルの時代には「チンギス・ハンのトレ」はそれほど重要性を持たなくなっていた。
 ・私達、がどういった人々を指すのかについては解釈が分れるだろうが、恐らく支配階層であると思われる(後述)

2.ティムールはヤサに執着したが、シャリーアも尊重した。その態度はシャー・ルフの治世においても変わらなかった。

・トゥグルク朝軍と対峙した時に戦いに関する知識を伝授するとともに、「戦場における往昔の帝王たちのトレとヤサの諸規則」を演説した。
・以下イブン・アラブシャーのティムール伝より
 ・モグール・ウルスとティムール帝国は敵対関係になく、それは双方でヤサが普及しているからであるという見解が残っている。また一方で、ティムールはヤサに基づく統治体制を作り上げたが、サイイド(預言者ムハンマドの子孫)、聖者、ウラマーへの配慮にも言及している。
 ・マムルーク朝から送られた暗殺者が捕らえられた際、ティムールはヤサには他国の使者を殺す規則はないが、シャリーアでは暗殺の首謀者を殺すことは認められているので、首謀者を殺した。
 ・ティムールはヤサをシャリーア以上に尊守し、それはシャー・ルフの時代でも変わらなかった。当時のウラマーやイマームがティムールに対して「不信者」の裁定(ファトワー)を下した。

3.一方で、ティムールの死とともにヤサ体制を忌避する動きも見られた

・ある者が、「ムザッファル朝を真似て、カイロのハリーファ(カリフ)に使者を送って、支配の正当性を求めよう」という内容のことを言っており、ヤサとチンギス統原理による権力の正統化よりも、従来のイスラーム国家が取ってきた、カリフによるスルタン任命方式での権力の正統化を目指す動きがあったことが分かる。

■シャイバーン朝において

1.シャイバーニー・ハーンはウラマーと論争し、ヤサをシャリーアの枠内で合法化しようとした

・具体的には、家長Aが、息子Bが死んだ時に、息子Cが生きているにもかかわらず、息子Bの息子D、つまり孫のDに相続が出来るかという問題。(シャリーアでは出来ない)
・シャイバーニーはシャリーアに知識があり、一方的にウラマーにヤサを合法化しろと命じたのではなく、彼らとの論争を通じてヤサをシャリーアの枠内で合法化しようとした。
 ・シャイバーニーはイジュティハードを持ち出し、ヤサを合法化しようとしている。
・シャイバーニーと論争したウラマー3人のうち、2人がシャイバーニーに反対し、1人が賛成している。

2.シャイバーニーはウラマーの意見を尊重し、シャリーアを保護する立場を取った
・シャイバーニーは、ウラマー達の意見を聞き、納得して自身の意見を取り下げた(猛反発されてしぶしぶ引き下がったわけではなく、あくまで議論の結果として取り下げた)

■雑考

 まあ、本論とはズレるんですが、大して文化が無いと言われていたモンゴルですが、こういう事例を見る際に思うのはヤサがシャリーアと張り合ってる点なんですよね。同じ遊牧政権がイスラーム化した場合でも、トルコ系は容易に吸収されているのに対して、モンゴルは簡単には同化されていない。チンギスの権威を差し引いてもヤサがシャリーアに対して優位に立っていた時代があったということは、ヤサがかなり整理された法体系だったことを暗示してるんじゃないかと思う次第。
 まあ、中華とイスラームの両方の高レベルな文化を知っていたモンゴルは容易に中華に取り込まれなかったとする論調があるので、イスラーム地域においても同じ事が起きたことを指摘できるかもしれませんが、突厥のことw考えるとやはりモンゴル自身が高度な文化を持っていたという結論におちつくんじゃないだろうか。
 専門家でないのでよく分かりませんが。

参考資料
川口琢司「ティムールとヤサ」『ティムール帝国支配層の研究』、北海道大学出版会、2007年
磯貝健一「シャイバーニー・ハーンとウラマー達」『東洋史研究』第52巻3号、1993年、32-68頁
プロフィール

鉄勒京二

Author:鉄勒京二
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