517年 記事番1 ムスタルシドとデュバイスの戦

イスラム歴517[西暦1123-1124]年 完史英訳1巻P242-244 
「デュバイスとの戦争のためのアル=ムスタルシド・ビッラーの軍事行動についての記事」

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以下訳文
 この年にはカリフ・アル=ムスタルシド・ビッラーとデュバイス・イブン=サダカとの間で武力衝突があった。これは デュバイスが捕らえていたカリフの宦官アフィーフを解放して手紙を渡す使者とし、その手紙の中で彼はアル=ブルスキを送って彼(ムスタルシド)と戦わせ彼を資金援助すると脅したこと、また、スルタンが彼の兄弟の目を見えなくしたことによって引き起こされた。彼は過激な脅しをかけ、黒を纏い、髪を切り、バグダードを略奪し破壊することを誓った。カリフはこの通達に激怒し彼の怒りはアル=ブルスキにデュバイスに対する報復戦をしかけることを命じた、彼は戦争を516年のラマダーン月[原注:1122年11月]に決行した。
 カリフは準備を行いバグダードを発った。彼は軍隊を招集した。ハディーサ領主のスライマーン・イブン=ムハーリシュはウカイル族(アラブ系)を引き連れ参じた。クィラワーシュ・イブン=ムサリムやその他も参じた。デュバイスは王の運河に人を送りそこを略奪した。彼の軍はありとあらゆる怖ろしい悪事を働き、そこの住人はバグダードへ逃れてきた。カリフは兵士は全て集まり、これらの市民で軍に加わることを望む者は徴兵に応じるよう勅命をバグダードで発した。膨大な人数が前線へ向かい、彼(ムスタルシド)は武器と資金を彼らに分け与えた。
 デュバイスが事態の状況に気付いた時、彼はカリフに和解を求め彼の良い扱いを求めた。(しかし)これに返答はなく、カリフの天幕は516年のダフール・ヒージャ月20日[原注:1123年12月19日]に運び出された。彼はバグダードの市民に訴えた「武器だ、武器を持て!戦だ、戦争である!」。人々の興奮は凄まじく、膨大な数えられないほどの人だかりが街を発った。カリフはダフール・ヒージャ月14日[原注:1123年12月13日]に発ち、ティグリスを渡り、黒衣(アッバース朝の象徴は黒)を纏い、黒のターバンとショールを身につけ、マント[原注a]を肩に羽織り、王錫を持ち、ブロンズの帯[原注b]を腰に巻いていた。彼は天幕の四分の一を建て、彼の宰相ニザーム=アル=ムルク・アフマド・イブン・ニザーム=アル=ムルク[原注c](セルジューク朝の名宰相ニザーム=アル=ムルクの息子?)、アリズの地方長官、地方長官筆頭アリー・イブン=ティラードや貴族の長サドル=アッディーン・イスマイール、その他の名士たちと協力した。
 アル=ブルスキはチャハール・タークの村で軍勢とともに野営した。カリフがバグダードを発ったと彼らが聞いた時、彼らは彼に従うために引き返した。彼らが彼個人を認識できるようになったとき、彼ら全てが彼から一定の距離を保ち地に伏した。この年の始まり、ムハーラム月1日[原注:1123年3月1日]にカリフはハディーサの王の運河に野営した。彼はアル=ブルスキとアミールたちを召還し、この紛争の中で忠誠を誓わせた。彼らはさらにアルーニールへ向かいアル=ムバーラカで野営した。アル=ブルスキは戦いに備え彼の兵士を整列させ、カリフは自身を親衛隊とともに彼ら全ての後ろに置いた。デュバイスは彼の兵士を線状に陣張らせ、右翼、左翼と中央に分け、歩兵を騎兵の後ろに防壁として置いた[原注d]。彼は彼の兵士達にバグダードの略奪と女を約束した。両軍が違いを視界に捕らえた時、まずデュバイスの軍が女奴隷の太鼓や楽器の音によって動いた。カリフの軍だけがコーランを詠唱し、数珠を数え見られるべく祈った。すさまじい戦いが始まった。
 アミール・カルバーウィー・イブン=ホラーサーンはカリフの旗を持ち、後衛はスライマーン・イブン=ムハーリシュだった。ブルスキの右翼は、アミール・アブー=バクル・イブン=イリヤースとバクズィーヤのアミールたちだった。アンタル・イブン=アビール=アスカルとデュバイスの分隊はアル=ブルスキの右翼に突撃をかけ、彼らは後退した。アミール・アブー=バクル・バクズィーの甥の一人が殺された。アンタルは後退し右翼に再度突撃をかけた。退いた道は一度目と同じであった。殉教者[原注e]イマード=アッディーン・ザンギー・イブン=アクソンコルはこれを見て彼らは彼と協力してアンタルと彼の兵士を攻撃した。彼らは背後に回り、背後のイマード=アッディーンとワースィトの軍、そしてバクズィーヤ・アミールの軍にアンタルは挟撃されることになった。アンタルはバリーク・イブン=ザーイダと同じように捕らえられた。誰も逃れることは出来なかった。
 アル=ブルスキは戦場に立っていた。アミール・アークブーリーは500の騎馬と潜んでいた。戦士達が十分に交戦している頃合いに、奇襲隊はデュバイスの軍に雪崩れかかった。彼の全てが走り水の中へ飛び込んだ。彼らの多くが溺れ多くが殺された。
 カリフが戦場の激しさを見た時、彼は剣を掲げ、「神は偉大なり」と叫び、戦闘へと進んだ。デュバイスの軍が(水に)飛び込んだ後、捕虜たちは彼の前に連れてこられ、カリフは首をはねるべき旨を略式で命じた。デュバイスの軍は一万の騎兵と一万二千の歩兵であったと考えられ、アル=ブルスキの軍は八千の騎兵と五千の歩兵であった。カリフに従った者は20人ばかりが死んだのみであった。デュバイスがモスク[原注f]に残していたデュバイスの妻達と彼の側室は、イルガーズィーの娘とアミード=アッダウラ・イブン=ジャヒールの娘を除いて捕らえらた。
 カリフはバグダードへ帰り、彼はこの年のアシュラーの日[原注:1223年3月10日]に(バグダードに)入った。カリフが戻った時、群衆はバグダードで大混乱を起こしておりストロウ門のモスクを略奪して荒らしていた。彼らは扉をもぎ取った。カリフはこれを非難しピルグリメイジのアミールであるナザルに、モスクに乗り入れ犯罪者どもを罰し、略奪者が行った損害を回復するよう命じた。彼は従い、いくつかは取り戻したが残りは隠されたままになってしまった。
 デュバイス・イブン=サダカについて言えば、打ち負かされた時、彼は彼の馬と武器とともに逃げた。騎兵は彼に付いていったが彼は彼らを振りきり、ユーフラテス河を渡った。老女が渡る前の彼を見付け「あなたはまずしそうな格好をしていますね」と言った。彼は「ここに来ない奴の方がみすぼらしい格好をしているだろうよ!」と答えた。その後彼の消息は断たれ、彼は殺されたという噂が流れた。これは 彼がネジドのベドウィン(アラブ系遊牧民)のグザイヤに進路を取ったことは確からしい。彼は彼らに同盟を申し込んだが断られ、彼は「我々はカリフとスルタンをのみ悩ますべきだ」と言った。彼はそこを去りバスラを攻撃し包囲することに同意したマンタフィクへ向かった。彼らは進路をそちらへ向け街へ入り、住民を略奪した[原注h]。地方司令のアミール・サフト・クマーンは殺され、人々は強制退去させられた。
 カリフはアル=ブルスキにデュバイスと取引し、結果的にバスラを荒廃させた彼の失態を叱責する手紙を送った。アル=ブルスキは南下する準備を整え、デュバイスはそれを聞き、バスラを放棄し陸路カラートジャーバルを目指し、そこで彼はフランク(十字軍)と組んだ。彼は彼らとアレッポを包囲しそれをする機会によって彼らを励ましたが、彼らは成功せず退いた。彼は彼らと別れ、スルタン・マフムードの息子、太子トゥグリルの勢力に加わった。彼は彼のもとへ留まり、イラク攻撃をそそのかした。神が望みたもうならば、我々はこれを529年[1134-5年](の記事)に述べることになろう。

a:ブルダ。預言者のマントで、モンゴルによってバグダードが陥落するまで聖なる遺品として歴代カリフが受け継いできており、イスタンブルに現存しているという。
b:底本ではhadid siniとなっており、訳は「中国の鉄」。スズを多く含むブロンズを指すと思われる。
c:底本ではニザーム=アッディーン。
d:底本には「武器とともに」とある。
e:ザンギーは彼の戦場での死を見越され決まって殉教者(アル=シャヒード)と呼ばれた。
f:バグダードから60マイルほど南のカルバラーのイマーム・アリー・イブン=フサインのモスクか、ナジャフよりさらに南のアリー廟においてであると思われる。
h:ラビー1月/1123年5月

要約
■ムスタルシドとデュバイスの間で戦争があった
■原因はムスタルシドが「ブルスキをけしかけるぞ」と言ってカリフを脅したことと、スルタンがカリフの兄弟を失明させたこと
■1122年11月に戦争勃発
■デュバイスが王の運河で略奪、避難民がバグダードへ押し寄せる
■避難民や集まってきたアミールを組織しムスタルシドがバグダードを発つ
■デュバイスは和解の使者を送るが無視される
■ブルスキはカリフが来たと聞いてカリフの元へ向かい、投降
■ブルスキはカリフに忠誠を誓った
■ムバーラカでカリフ軍とデュバイス軍の交戦
■ザンギーの活躍や伏兵によってデュバイス軍が敗退
■重鎮の娘を除きデュバイスの妻たちが囚われる
■デュバイスは逃亡し、ベドウィンに同盟を持ちかけるが拒否される
■デュバイスはバスラを包囲し略奪
■ブルスキがカリフの命を受け南下、それを聞いたデュバイスはバスラを捨てる
■デュバイスはカラートジャーバルを目指し十字軍と組んでアレッポを包囲、しかし失敗
■デュバイスはトゥグリルの勢力に加わりイラク攻撃をそそのかしている

この後、ザンギーはカリフ・ムスタルシドと対立することになる。
いくら南とは言え冬の戦争は金がかかるし士気も落ちやすいが……果たしてカリフは何を思って強行したのか。
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鉄勒京二

Author:鉄勒京二
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