622年 記事番3 アル=アフダルその他の諸侯の死

イスラム歴622[西暦1225-1226]年 完史英訳3巻P253-254
「アル=アフダル及びその他の諸侯の死に関する記事」

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以下訳文
 この年のサッファーフ月[原注:1225年2月12日-3月12日]、サラディンの息子であるアル=アフダルが突然スマイサートの砦で死去した。彼はおよそ57歳だった。我々は既に589[原注:1193]年の彼の父――神は彼に慈悲を与え給え――の死の後、彼がいかにダマスカス、イェルサレム及びシリアの他の地域の統治者となったかを記した。592[原注:1195-6]年(の記事)に我々は(それら)全てがいかに彼から奪われ、595年(の記事)に我々はいかに彼がエジプトの統治者となり、最終的に596[1199-1200]年にそれ(エジプトの統治権)が彼から奪われたかを述べた。彼はスマイサートへ移り、そこに住居を定め、彼はつい最近死ぬまでそこに留まった。
 彼――神は彼に慈悲を与え給え――はこの時代の栄誉ある人の一人であった。彼のような王族は他にはなかった。彼は魅力的であり、公正であり、よく学び、穏和で気前が良かった。失敗を罰することは希で、申し立てを決して無視することはなかった。彼は素晴らしい字、素晴らしい散文を書いた。端的に言えば、彼の中で、長所と美術への造詣が結びつき、それは多くの王族達からかけ離れていた。彼が統治権と世俗的な成功を奪われ、運命に敵意を持たれたのは不思議でない。彼の死によって全ての財産は譲渡された。神は彼に慈悲を与え、彼を誼み給え。
 私は末に彼によって書かれた素晴らしいものを見た。これらの中で、私の記憶に残っているものは、ダマスカスが彼から奪取された時に、彼の友人の一人に送られた手紙で、その一節はこう記している;
私のダマスカスの友人について言えば、私は彼らについていかなる消息も知らない。これは、
私の全ての友、元気かと尋ねた友は家の薄暗い場所、不名誉の内に置かれ
私の全ての敵、威厳を尋ねた敵は私が聞きたくないものをもたらした
ゆえに私は彼らについて尋ねることを諦めたのだ

 これは友の消息を尋ねないことを謝罪するのに非常に素晴らしい方法だった。彼の死の後、彼の子供達と彼らの叔父のクトゥブッディーン・ムーサーは紛争に入ったが、彼らの内誰一人として彼自身のために残りを包囲するだけの力を持っていなかった。
 (話は変わって)この年、エルズルムの君主、つまりムギースッディーン・トゥグリル・イブン=キリジアルスランが死去した。彼は息子をグルジアへ送りキリスト教徒となしグルジアの女王と結婚させようとした一人だった。彼が死んだ時、彼の息子が統治者として彼の後を継いだ。
 エルズィンジャンの領主もこの年に亡くなった。
 カルトビルトの君主、イッズッディーン・アル=ヒドル・イブン=イブラーヒム・イブン=アブー=バクル・イブン=カラアルスラン・イブン=ダーヴード・イブン=ソクマンがこの年に亡くなった。彼は彼の息子のヌールッディーン・アルトゥクシャーが後を継いだ。彼と彼の父の王座の後見人は元々バグダーディーであり、子供時代はモスリーのムイーヌッディーン・バドル・イブン=アブドゥルラフマーンだった。
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鉄勒京二

Author:鉄勒京二
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