後漢末期から三国時代の南匈奴単于の動き

・主要人物

於夫羅単于
羌渠単于の子。

呼厨泉単于
於夫羅の弟。

去卑
北史によれば羌渠単于の弟。前二人の叔父。

劉豹
於夫羅単于の子。左賢王。前趙の劉淵の父。
 
184年、黄巾の乱が起こり、当時右賢王であった於夫羅は父の羌渠単于によって、漢朝の援軍として派遣される

188年、後漢の霊帝の詔に応じた羌渠単于が前中山太守張純及び烏丸・鮮卑の叛乱鎮圧のため幽州牧の劉虞に従い出兵、これに怒った匈奴部民が羌渠を攻殺。(反乱の参加者は十余万に及び大規模なものだったが、反乱の主力は隷属諸部族であり、従来の支配氏族内の権力闘争とは質を異にする)
単于側は羌渠の子の於夫羅(在位188~195)を単于に立てた。一方、反乱諸部は須卜氏の骨都侯(在位189~190)を単于に立て対抗。
於夫羅は洛陽(当時の後漢の首都)郊外まで来て自身の正統性を漢朝に認めて貰うべく訴えるが霊帝が崩御した混乱期にあたり、相手にされなかった。
於夫羅は白波賊とともに河内諸郡を略奪するが、そこの自警団に阻まれこれも成果なく、本国に帰ろうとしたが受け入れてもらえず、河東郡にとどまった。

須卜骨都侯の死後も匈奴部民が於夫羅の単于即位を認めず老王を立て国事を代行させたので、南匈奴には単于空位時代が現出した。

190年、反董卓連合軍結成の際、於夫羅は張楊とともに袁紹に属す。漳水に駐屯。
同年、7月以降、張楊を人質にとって袁紹に対し反逆するが、袁紹軍の麹義に追撃され、黎陽に逃れた後に度遼将軍の耿祉の軍勢を奪って勢力を盛り返す。

192年、曹操と内黄で戦い破れる。

193年、袁術が陳留に進出。これを援助。袁術が破れたためか、最終的に曹操に帰順。

195年、於夫羅が死去。弟の呼厨泉が単于に即位(在位195~216)。去卑が右賢王、於夫羅の長男劉豹は左賢王に。呼厨泉は部民に単于即位を拒否されたのでやむを得ず平陽に留まった。
同年11月、献帝が長安を脱出するにあたって右賢王去卑が護衛。李傕・郭・張済らを撃退して、首級数千を挙げる。
同年12月、ふたたび李傕らに追撃され、辛うじて安邑まで逃れる。(このころの混乱に乗じて蔡文姫を奪い、劉豹の側室とする)

196年、1月、献帝は安邑にて天下に大赦し、建安と改元。
同年7月、洛陽へ
去卑らは献帝を擁立した曹操の許昌への遷都にも随行した後、平陽に戻る。

202年、曹操に対し反乱。郭援・高幹と共に鍾繇・馬超の軍と戦ったが敗れ、再度曹操の下に投降。

207年、207年に曹操により身代金が支払われ、蔡文姫が引き取られる。(劉豹との間に2子があったが、名は伝わっていない)

216年7月、入朝し、官位を授けられる。呼廚泉自身は鄴に留め置かれ、曹操によって五部に分割された匈奴の故地は右賢王去卑がまとめることとなった。(この頃から左賢王が実質的な指導者になったと思われる。左賢王劉豹は匈奴左部を統括)。曹操は彼らを護匈奴中郎将を兼ねた幷州刺史に管轄させた。

220年、曹丕が魏の皇帝となると、あらためて呼厨泉に璽綬を受けた。
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鉄勒京二

Author:鉄勒京二
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