536年 記事番1 カトワーンの戦い

イスラム歴536[西暦1141-1142]年 完史英訳1巻P359-363
「スルタン・サンジャルのカラキタイによる敗北と、彼らによるトランスオクシアナの征服」

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以下訳文と要約
 この出来事に関して歴史家達は様々な記録を遺しているが、我々はその全てに関して責任を持って言及しなければならない。
 この年のマハッラーン月[1141年8月]スルタン・サンジャルは、不信心者のトルコ人(カラキタイはモンゴル系なのでその下にいたテュルク系民族のこと?)の手で敗北を経験していた。この理由は、我々が以前記したように、サンジャルがホラズムシャーのアトスズ・イブン=ムハンマドの息子を殺してしまったことによる。ホラズムシャーは彼らがトランスオクシアナにいる時にカラキタイに使いを送り、彼らに[サンジャルの]領地を攻撃するよう勧め、彼らにそこへの興味を持たせた。彼はまた、彼らと結婚によって同盟を結び、彼らがスルタン・サンジャルの国土を侵略するよう仕向けた。彼らは最終的に30万の騎兵を集めた。サンジャルは彼らに対抗するため軍勢とともに進軍しトランスオクシアナで激烈な戦闘に入った。サンジャルと彼の全ての軍隊は打ち負かされ、1万1千のターバンを巻いた人と4千人の女性を含む10万人が殺された。サンジャルの妻は捕虜になったが、サンジャルはテルメズを解放し、そこからバルフへ向かった。
 サンジャルの敗北の後、ホラズムシャーはメルヴの街を襲い、彼はスルタン・サンジャルに屈辱を与えるためそこへ入った。彼はいくつかの死刑を執行し、ハナフィー派法学者のアブール=ファドル・アル=キルマーニーと幾人かの著名な法学者を捕らえた。
 この時までに、スルタン・サンジャルは常に幸運に祝福されていた:彼の旗は決して敗れなかった。全てこの敗北のため起こったことだが、この逆転の後、彼はスルタン・マスウード(イラクのサンジャルの甥)に手紙を送り、レイで独立して動くことと、彼の父のムハンマド(先々代のセルジューク朝スルタン)の領域に基づいてそこに領地とすることを認め、彼(サンジャル)は彼(マスウード)にそこに彼の軍勢とともに駐屯するよう命じ、そして、もし必要があれば彼(マスウード)は彼(サンジャル)を呼び出すことができるようにした。レイの統治者のアッバースはバグダードへ彼の兵士と共に来てスルタン・マスウードに豪華な贈り物とともに敬意を払った。スルタンは彼の叔父のサンジャルの命令に従うためレイへ出発した。
 続く記事も既に書かれている。トルキスタンの土地、すなわちカシュガル、バランガサン、ホータン、ティラーズ他のトランスオクシアナのこれらの地の近辺はカラハン朝のトルコ人の統治者によって確保され、彼らはアフラーシャーブのトルコの血筋からムスリムであった。しかし、彼らは彼らの中にそれをみとめたがらなかった。名をサトゥク・カラハン(カラハン朝のサトク・ボグラ・ハン)と言った彼らの祖先のこの改宗の理由は、彼が、ある男が天上から降りたち、トルコ人達に「イスラムを受け入れれば、現世と来世で幸福になるであろう」と言い、彼が夢の中で改宗したことによる。朝起きて、彼はイスラムを信仰すると正当な手続に則って宣言した。彼の死後、彼の土地は彼の息子のムーサー・イブン=サトゥクによって受け継がれ、彼の子孫はこれらの土地をアルスラーン=ハーン・ムハンマド・イブン=スライマーン・イブン=ダーウード・ブグラ=ハーン・イブン=イブラーヒーム(号してタムガーチュ・ハーン)・イブン=イーリク(ナスル・アルスラーンとして知られる)・イブン=アリー・イブン=ムーサー・イブン=サトゥクの代まで統治した。カディル=ハーンが彼に対して反乱を起こし、彼から権力を奪った。しかし、サンジャルはカディル=ハーンを、我々が既に述べたように、495[1101-2]年に彼の遅参(の罪)によって殺し、アルスラーン=ハーンに統治権を戻した。彼は認められ、権力を保持した。反乱が起こった時、彼はスルタン・サンジャルに援助を求め、サンジャルは再びかれを助け権力の座に戻した。
 彼の軍隊はカルルク及びオグズと呼ばれる二つのトルコ人のグループからなっている。神が望みたもうならば、我々はのちにそのことを述べるが、後者はホラーサンを略奪した。彼らは二つのグループを作り、一つはウチ=オクと呼ばれ、指導者はトゥーティー・イブン=ダード=ベクであり、いま一つはボズクと呼ばれ、指導者はクルグフーツ・イブン=アブドゥル=ハミードであった。シャリーフのアル=アシュラフ・イブン=ムハンマド・イブン=アビー=シュジャー・アル=アラウィー・アル=サマルカンディーはナスル・ハーンとして知られるアルスラン・ハーンの息子を説得し、彼の父から王権を奪取し、野望を満足させるよう仕向けた。ムハンマド・[アルスラーン・]ハーンはこれに気づき、息子とシャリーフ・アル=アシュラフの両方を殺してしまった。
 アルスラーン・ハーンと彼の軍のカルルクの理解の欠如が大きくなり、彼らの彼に対する反乱を引き起こし、彼を王としての地位から引きずり下ろした。彼は再びスルタン・サンジャルに援助を請願し、サンジャルは524[1129-30]年オクサス河を軍勢とともに渡った。双方は姻戚関係を結んでいた。サンジャルはサマルカンドに至り、カルルクは彼から逃げ出した。
 スルタン・サンジャルが狩りに行き、騎兵の一隊を見付けたのは機会であった。彼は彼らをとらえ、彼らはアルスラーン・ハーンが彼を殺すよう彼らに指示したと打ち明けた。そこで彼はサマルカンドを戻り、城にいたアルスラーン・ハーンを包囲した。彼(サンジャル)はそこを奪取し、彼を囚人とし、ブハラへ送り、彼(アルスラーン)はそこで死んだ。サンジャルが彼を裏切り者と見て扱い、彼を客人として呼び、彼は街を包囲し、この彼に関する報告を流布したと言われている。
 彼がサマルカンドを奪取した後、彼はハサン・タキーンとして知られ、カラハン朝の名士であるキリジ・タンガーチ・アブール=マアリー・アル=ハサン・イブン=アリー・イブン=アブドゥル=ムウミーンを、アルスラーン・ハーンが彼を罷免していたにもかかわらず、統治者として任命した。彼のサマルカンドでの統治は長くは続かなかった。彼はすぐに死去し、サンジャルは彼の後釜に、サンジャルがサマルカンドで捕らえた男の息子である王子のマフムード・イブン=アルスラーン=ハーン・ムハンマド・イブン=スライマーン・イブン=ダーウード・ブグラ=ハーンをつけた。このマフムードはサンジャルの甥であった。
 これ以前の522[1128]年、アル=アワール・アル=スィーニー[隻眼の中国人の意]がカシュガルとの国境に、ただ神のみが把握したもうであろう膨大な数の人を連れてあらわれた。カシュガルの統治者であった[アルスラーン=]ハーン・アフマド・イブン=アル=ハサンは彼に備え、軍隊を招集し、彼と接触すべく進軍した。彼らは戦いアル=アワール・アル=スィーニーは敗れ、彼の部下の多くが殺された。彼はこれ以前に死去し、グル=ハーン・アル=スィーニーに引き継がれた。中国の言葉でグルとは王族のなかで最も偉大な者を示し、ハーンとはトルコ人達の王号であり、これもまた「最も偉大な王族」を表す。彼は彼らの統治者の衣を着て、それはミクナとヒマールであった。彼はマニ教徒であった。彼が中国からトルキスタンに現われた時、キタイ=テュルクが彼に加わった。彼らは以前に中国から脱出しており、トルキスタンの支配者であるカラハン朝の世話になっていた。
 アルスラーン・ハーン・ムハンマド・イブン=スライマーンは王族の誰もが彼の領土を攻撃しないように、1万のテントを毎年あてがい、中国と彼の間の道に建てた。これにより、彼らは割り当てと配給を受けた。ある年、彼は彼らに怒り、彼らを彼らの配偶者との結婚を阻害するため引き離した。これは彼らを騒乱させたが、彼らは彼に近付く方法を知らなかった。彼らは途方に暮れた。たまたま大きな隊商が多くの資金と貴重品を積んで通りかかった。彼らはそれを拿捕し、商人を彼らの前に引き立て「もしあなたがあなたの財産を全うしたいのであれば、我々にと家畜に充分なだけの広大な牧草地のある場所を教えろ」と言った。商人はバランガサンがそこであるとうけおい、それを説明した。彼らはそこで商人の財産を解放し、彼らを彼らの女性と分け隔て見張っていた男たちを捕まえ、彼らの女性を集め、バランガサンへ向かった。アルスラーン・ハーンは彼らをしばしば襲い、戦いをしかけたので、彼らは彼をひどく恐れた。
 グル=ハーン・アル=スィーニーが現われてしばらくたったころ、彼らは彼と同盟を結んだ。彼らは数倍の大きな勢力となり、トルキスタンを制圧するまでになった。いつであれ彼らが街を取ると、彼らは住民に対して何もしなかった(=危害を加えなかった)。どの街、あるいは村の家でも、彼らは夕食の世話になることができた。穀物とその他のものは、住民のために遺された。彼らに屈服した全ての王族たちには、彼らがひとそろいの銀の板を与え、それが彼らに恭順している証となった。
 彼らは次にトランスオクシアナへ進軍し、531年のラマダーン月[1137年5月23日-6月21日]にそこでカガーン・マフムード・イブン=ムハンマドがホージャンドの境界で彼らと会敵した。戦闘が勃発し、カガーン・マフムード・イブン=ムハンマドは敗れ、サマルカンドへ撤退した。巨大な災難が住民の上に襲いかかり、恐怖と不安が大きくなり、昼夜を問わず彼らは試練の時を待った。それはブハラや他のトランスオクシアナの住民も同じであった。カガーン・マフムードはスルタン・サンジャルに、ムスリムたちにどんな災難がふりかかり、彼らが彼の助けを待っていることを伝え、援助を願った。サンジャルは彼の軍勢を集め、シジスタンとゴールのあるじや、ガズナのあるじ、マザンデランのあるじ他のホラーサンの王族と合流した。10万を超える騎兵隊が編成され閲兵は6ヶ月続いた。
 サンジャルはトルコ人達と戦うため進軍し535年のダフール=ヒージャ月[1141年7月8日-8月5日]にオクサス河を渡った。マフムード・イブン=ムハンマド・ハーンは彼にカルルク=トルコに関しての不満を言ったので、サンジャルは彼らに対して動いたが、彼らはグル=ハーン・アル=スィーニーと彼についてきた不信心者に保護を求めた。サンジャルはサマルカンドに留まった。グル=ハーンは彼に、カルルク=トルコの側に立って仲裁し、彼に彼らを許すよう求める手紙を書いたが、彼の、彼らのための請願は、受け入れられなかった。サンジャルは彼に脅迫とともにムスリムになるよう誘い、彼を攻撃する軍隊の様子を書いて脅した。彼はあらゆる種の武器による彼の戦闘力を大げさに表現した。彼はこうも言った「連中は髪を矢で射ることが出来る」。彼の宰相のターヒル・イブン=ファクル=アル=ムルク・イブン=ニザーム=アル=ムルクはこの手紙(を送ること)に賛成しなかったが、サンジャルは彼を無視してその手紙を送った。グル=ハーンは手紙を読み、使者の髭を抜くよう命じ、彼に針を与え、髭を割いてみるよういいつけた。彼がそれをできなかったため、グル=ハーンは言った。「貴様が針で出来ないのに、誰が髪を矢で射ることができようか!」
 グル=ハーンはトルコ人、キタイ(契丹)人、中国人他からなる彼の軍隊をもって戦の準備を始めた。彼はスルタン・サンジャルに対するため進軍し、両軍は巨大な二つの波のように、カトワーンと呼ばれる地でぶつかった。グル=ハーンは彼の敵の周囲を回り、ついにダルガームの谷で攻撃を仕掛けた。サンジャルの右翼はアミール・クマージュであり、左翼はシジスタンの統治者であり、輜重隊が彼らの後ろにあった。戦いは536年のサッファール月の5日[1141年9月9日]に行われた。
 サンジャルのもとから逃れたカルルク=トルコは最も獰猛な戦士だった。その日、サンジャルの軍でシジスタンの統治者ほど良い戦士は他にいなかったが、その戦いの結果はムスリムの敗退に終わり、ムスリムの死者は多くを数えた。ダルガームの谷では1万人の死者とけが人で埋まった。スルタン・サンジャルは戦場から離脱し、シジスタンの統治者とアミール・クマージュとアルスラーン・ハーンの娘であるスルタン・サンジャルの妻は捕らえられたが、後に不信心者たちによって解放された。殺された人に関して言えば、祝福されしハナフィー派の法学者、フサーム=アッディーン・ウマル・イブン=アブドルアジーズ・イブン=マーザ・アル=ブハーリー(が殺された)。イスラムの歴史の中で、これほど大きな戦いは無く、ホラーサンでこれ以上多くが殺された戦いもなかった。
 キタイと不信心者のトルコ人の国はトランスオクシアナに佳く建設された。グル=ハーンは537年のラジャブ月[1143年1月20日-2月18日]まで生き、そして死んだ。彼は男らしく、中国の絹だけを纏った美丈夫であった。彼の軍隊は彼に畏敬の念を持っていた。彼はいかなる将軍にも領地での権力をあたえなかったが、彼自身の財源から給与を支払った。彼はしばしば「彼らが領地を持てば、彼らは苛政を敷くだろう」と言っていた。いかなる将軍も百騎以上の指揮権を与えられず、ために、彼らは彼に反乱を起こすことは不可能だった。彼は彼の軍による不正な行為を禁止し、泥酔するほど呑むことも禁じ、罰せられるべきものとした。しかし、彼は不貞や密通を金糸しなかった。
 彼の娘の一人が彼のを後を継いだが、彼女は短い統治の後に死んでしまった。グル=ハーンの妻である彼女の母と従兄弟が、彼女の後、統治をした。トランスオクシアナは、アラーウッディーン・ムハンマド・ホラズムシャーが612年に彼らからそこを奪取するまでキタイの手に留まることになるが、神が望み給うならば、我々は後にそれを記すだろう。

■要約

この時までに、サンジャルがカラハン朝の後継者争いにつけ込んでカラハン朝を傀儡化。
「隻眼の中国人」が大勢の中国人を率いてトルキスタンに現われ、カラハン朝のアルスラーン・ハーンは彼らを攻撃し、「隻眼の中国人」は死亡。生き残りの中国人たちはカラキタイのグル=ハーンの傘下に。
アルスラーン・ハーンはカラキタイを保護していたが、どんなきっかけからか、アルスラーンが彼らを敵視し始め、その敵対政策に反発したカラキタイはトルキスタンを制圧しはじめる。
サンジャルがホラズムのアトスズの息子を殺してしまったため、アトスズが婚姻同盟を結びカラキタイを呼びこむ。
カラハン朝のカルルク族がアルスラーン・ハーンから離反し、カラキタイ陣営に加わる。
同時期、カラハン朝のアルスラーン・ハーンによるサンジャルの暗殺計画が発覚し、サンジャルはアルスラーンを捕らえる(後、彼は獄死)。カラハン朝の後釜にはサンジャルの甥が納まる。
サンジャルの甥がカルルクに対する不満をサンジャルに漏らす。
カルルクを保護していたグル=ハーンは仲裁を申し出るがサンジャルはこれを拒否し宣戦。
カトワーンの戦いに至り、サンジャルは敗走、右翼を率いていたアミール・クマージュと、左翼を率いていたシジスタンの統治者(姓名不詳)、サンジャルの妻が捕虜になる(後、解放される)
この敗北によってホラズムが勢いづき、メルヴを襲い、後輩にかかわっていられなくなったサンジャルは甥のイラク=セルジューク朝の独立を認める。
プロフィール

鉄勒京二

Author:鉄勒京二
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