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サラディン伝 サラディンの信仰深さ

サラディン伝英訳P18-22
「我々が目撃した彼の信仰深さと、聖法に従うさまについての記事―神よ彼に慈悲を垂れ給え―」

括弧内は管理人の注
管理人は翻訳に責任を持たない

以下訳文
 預言者―神よ彼を祝福し平安のうちに置きたまえ―による真のハディースの中で、彼(ムハンマド)は言っている「イスラームは五つの事柄からなる。すなわち『神(god)』ではなく『神(God:唯一神)』のみがあると証言すること、祈りの実行、施しを与えること、ラマダン中の断食、そして神の聖なる家への巡礼である」(いわゆる五行。信仰告白シャハーダ、礼拝サラー、喜捨ザカート、断食サウム、巡礼ハッジのこと)。
 彼(サラディン)の信条はすばらしく、彼は神を常に思っていた。宗教指導者たちや著名な法学者たちに学ぶことによって、彼は彼の信条を試した。彼は何が理解される必要のあることを理解しており、たとえば、議論が彼の前で行われた時、例え彼らが専門的な言葉を学んでいなかったとしても、彼は具体的で素晴らしい評言をなした。必然的に、彼は冒涜的な新神人同型説から自由な信条を持ち、彼の研究はしかし、聖なる事の属性や不正確さを否定する限界まで行くほど深すぎることはなかった。彼の信条は一貫しており、真実の明確な法規に則っていると、最も偉大なウラマーによって認められる。
 先立つシャイフ・クトゥブッディーン・アル=ナイサブーリー―神よ彼に慈悲を―は、彼のために、この地で必要な全ての信条を集めた。彼の強烈なイスラームへの忠誠は彼の幼い子供達の幼少の心を成長させた。彼らが彼の前にいた時の記憶から詳細に話すのを聞き、私は彼が行ったことを理解したのである。

礼拝
 彼は特に共同で祈りを行うことに勤勉であった。実は、彼はある日、自分は他人と一緒に祈ったことしかないと述べた。もし彼が病であれば、彼はイマームたちをひとりで集め、自分で立ち上がり、一緒に礼拝を行った。何年も信仰への忠実さを習慣としていたのである。
 彼がいつであれ夜中に起きると、彼は祈りを一回行い、もしくは夜明けの礼拝の前に一通り祈りを行ってしまう。彼の領地にいる時は彼の祈りを決して行わないことはなかった。私は、彼―神よ彼の魂を清め給え―が致命的な病で心がさまよっている時に三日間、礼拝を行わなかったのを知っている。彼の移動中に礼拝の時間が訪れると彼は馬から折り、礼拝した。

喜捨
 彼が亡くなった時、彼は喜捨すべきものを何も残していなかった。余分の施しものについて言えば、彼の財産は彼が全て空にしてしまっていたのだ。彼は律すべきは律したが、死んだ時に残っていた金と銀の財産はたった40枚のナースィリー・ディルハムと、ティールの金のひとかけらだけであった。彼は家も、土地も、果樹も、村も、農場も、あらゆる種類においてどんなもの一つ、何の資産も残さなかった。

ラマダンの断食
 多くのラマダン月の間に引き続いて病に侵されていたため、彼は断食においては少し尊重を欠いた。カーディー・アルファーディル[原注:アブー=アリー・アブドゥルラヒーム・イブン=アリー・アル=バイサーニー。サラディンの行政長官で、素晴らしい文章家だった(1135年生/1200没)。「博学なるカーディー」として知られる]は、これらの日々を記録し続けることを請け負い、彼―神よ彼に慈悲を―はこの義務を彼が死んだ年に、イェルサレムで埋め合わせした。彼は厳格に、病気やジハードの遂行によって(断食を)なしえなかったラマダンのために、一月以上断食を行った。断食は彼の体調によくはなかったが、神は彼がなしえなかったものを埋め合わせするため彼を鼓舞した。彼が断食をしたように私は彼と一緒の日数、断食をした。なぜならカーディーが居合わせなかったからだ。彼の医者は彼を諫めたが、彼は聞く耳を持たず、言った「私は未来が何をもたらすかを知らない」。これは、彼がまるで彼の義務を行うことを鼓舞され―神よ彼に慈悲を―、彼が義務を果たすまで続けているようだった。

巡礼
 彼は特に晩年、しばしばそれを意図し計画していた。彼はそれを行う決意を固め、準備をするように命じた。用意が調い、後は出発するだけになった。しかし、彼はなしえなかった。なぜなら、時間の不足と、人材不足のため手がふさがっていたからである。彼はそこでそれを翌年に延期した。しかし神は彼が命じたことを命じた。地位の高い人も低い人も、皆がこのことについて知っていた。

 彼は栄誉あるコーランを読んだり聞いたりするのを楽しみにしていた。実際に、彼は自身、イマームを選び、コーラン学を修め、確固とした知識を持った人でなければならないとした。彼は「棟」[原注:スルタンのテントにある木製の防護私室]にいる時、夜に彼の近くにいた人には誰にでも(コーランの)節を2,3,ないし4節、彼が聞いている間読んでくれるよう頼んだ。公的な場では彼はこのような人たちに同じように、20かそれ以上を読んでくれるよう頼んだ。一度、彼は父の前でコーランを詠んでいた少年のところを通りかかかった。彼は彼の暗唱に感心し、彼に好意を持ち、個人的にテーブルについて、彼と彼の父に援助をし、農耕地の一部を与えた。彼―神よ彼に慈悲を―は、感情に素直で、よく泣いた。いつであれ彼はコーランを聞くと、心に触れ、大概の場合涙した。
 彼はハディースを聞くことにも熱心だった。いつであれ彼が高い権威と素晴らしい知識を持ったシャイフの言うことを聞く時、彼がもし彼の法廷に出席しているうちの一人であれば、彼は彼を呼んでハディースについてのことを彼から聞き、そして彼と一緒にその場にいる人彼の子供やマムルークたちもそれを聞くのであった。彼はかれがハディースを聞いている時は、それに敬意を表すため座るよう命じた。もし疑わしいシャイフが続けてスルタンの法廷におり、彼らの会議に出席したために嘲笑されるようなら、彼は、彼のところへ行って共に勉強した。彼はアレクサンドリア―神よ彼の地に加護を―のアル=ハーフィズ・アル=イスファハーニーを訪ね、彼は、彼の典拠する多くのハディースを彼に伝えた。道徳の教訓に関わるあるハディースに彼が言及したとき、彼の心はやすらぎ、涙がこぼれるのだった。
 彼は宗教儀式への尊敬に厚く、心から聖法に含まれる規則を受け入れ、肉体の復活と、正義が天国で、悪行が業火を以て報いられることを信じており、唯物主義者の、頑固に聖法を拒否し神の属性を否定するような哲学者を嫌っていた。彼は一度彼の息子のアレッポ太守アル=マリク・アル=ザーヒルに、聖法を拒否し、それを薄弱なものだとしたというアル=スフラワルディー[原注:著名なスーフィーのシハーブッディーン・ヤフヤー・アル=スフラワルディーは、1191年に38歳で処刑された]と呼ばれた若者を処刑するよう命じた。彼の息子は彼を、彼が聞いた噂のため逮捕した。彼はスルタンにこのことを告げ、彼は彼の処刑と死体を何日か公の場に晒すことを命じた。これは行われた。
 彼の神への信仰は正しくふさわしいもので―神よ彼の魂を清め給え―、彼の信仰はすばらしく、彼は悔恨の魂のようであった。この結果として起きたことで私が記憶していることを記そう。フランク(十字軍士)たち―神よ彼らを去らせ給え―が、高潔なるイェルサレム―神よ常にそこを守り給え―の一日行程より近い場所のバイト・ヌーバーで野営していた。スルタンはイェルサレムにおり、スパイを放ち情報を集めるため、偵察隊を送った。一連の報告はイェルサレムへ進撃し、包囲攻撃する決意が(彼らに)あることを示していた。ムスリムはこれにおののき、そこで彼はアミールを招集し、彼らにムスリムを脅かす災悪について知らせ、イェルサレムに留まるべきかどうか彼らに諮った。彼らはもっともらしい返事を寄越した。主張されていたのはつまりそこに(サラディンが)自ら居残る利点はないということだった。これはイスラームを危機に晒すことだ。彼らは、アッカで行ったように、彼(サラディン)が敵を囲むことが出来る程度の軍を連れてそこを去る間、そこに留まると言った。彼は、彼らが街の守備と防護に従事している間、彼自身、部隊を引き連れ、敵の補給を絶ち敵に圧力をかける(という作戦である)。会議はスルタンが自ら残るか否かの点で紛糾した。彼(サラディン)は、彼が行わなければだれもそれをしないことを知っていたからだ。アミールたちが彼らの館を出発した時、数人の人々が彼らのところから、彼(サラディン)の兄弟のマリク・アル=アーディルか、彼の子らが権威を持って残るか、彼らが命令を聞くことが出来る人が残るなら、彼らはここに残ると主張しに来た。彼はこれは誰も留まることはない、という指示だとした。彼は焦り、彼の考えは混乱し、彼はたいへん心を煩わせていた。
 その夜―それは金曜日の夜であったが―、私は彼の随行として、夜通し彼の近くに座っていた。それは冬の季節で、我々二人は神から離れ二人きりだった。我々は作戦計画を練り、お互い、求められるべき作戦のために修正を加えた。結局、私は「乾燥」が彼の気分を支配してしまっていたため、彼を心配し健康を案じた。私は彼に、しばらくの間横になるよう嘆願した。彼は「眠いのは君じゃないか」と言った。そして、彼は丸一日起き続けていた。私もほとんど寝ず、ムアッズィンが信者を起こす夜明けがくるまで、私の仕事をいくつかこなしていた。大抵の場合、私は夜明けの礼拝を彼と一緒にすることにしていたので、私は彼のところへ再び赴いたところ、彼は手と足を清めているところだった。彼は「私は全然眠れなかったよ」と言った。私は「知っています」と答え、彼は「何故?」と訪ねた。「私も眠れず、寝るための時間が残っていなかったからです」。そして我々常々しているように一緒に座り、礼拝を行った。私は彼に「神の思し召しでひらめいたことがあり、役立つ気がします」と言った。「それは何だい?」彼は訪ねた。「この心配事を取り除くため、神への完全な信頼と、悔い改め、そして彼を信じることです」。「我々はどう振る舞うべきかな?」彼は訪ねた。私は「今日は金曜日です。我が君が、去ったときに彼自身を洗って預言者―神よ彼を祝福し平安のうちに置き給え―の夜の旅の場所、アクサーモスクで普段どおり祈りましょう。そしていくつかの喜捨を内密に誰か信用できる人に与えるよう命じて、彼に2ルクアを礼拝の呼びかけとその始めの間に行わせて、身を伏せ神を信頼しましょう。これに関しては真のハディースにあり、心の中で言って下さい。『我が神よ! 私の地上の財産はあなたの宗教のために捧げました。あなたへの信仰の他は何も残っておらず、あなたの助けを待ち、あなたの善さを信頼します。あなたは私の資産であり、私の財産の管理人でもあります!』。神はあなたの寄付の決意を許すことに寛大でしょう」と私は述べた。
 彼はその全てを行い、私は彼の側でいつものように祈った。彼は祈りの呼びかけの間と、その始めに2ルクアの祈りを行い、私は、かれがひれ伏すようにし彼の髭と礼拝用の絨毯に涙が落ちるのを見たが、しかし彼が何を言ったのか私は聞き取れなかった。その日が暮れる前に、補給遮断の分隊を率いていたイッズッディーン・ジュールディークから言付けが届き、彼はその中でフランクが移動を始めた旨を報せていた。その日、彼らの軍の全ては領地の外へと去っていった。彼らは正午までそこに留まり、彼らの幕営へと帰っていった。土曜日の朝、同じ事を知らせる報告が届いた。その日のうちに、スパイが彼らが内輪で揉めている知らせを持ってきた。フランス人たちの意見はイェルサレムを包囲せねばならぬというものだったが、イングランド王と彼の従者たちはキリスト教徒を危険に晒すべきではなく、スルタンがイェルサレムの周りの井戸に毒を投げ入れ、彼らが水を得ることが出来なくなったため、彼らを高地に上がらせるべきだとした。彼らは会議を開き、戦の問題について彼らの習慣通り、馬上で話し合った。彼らは10人の人を任命し、彼らに判断を任せた。彼らが何と言ったにしろ、彼らは反対されなかった。月曜の朝に使者が、彼らが撤退しラムラに向かっているという良い知らせを携えてやってきた。これは私が目撃した彼の全能の神への信頼と、彼の中の信心の効果の一つであった。


 訳の日本語が怪しいところがありますが勘弁してください……。
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鉄勒京二

Author:鉄勒京二
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