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サラディン伝 第三回エジプト遠征

サラディン伝英訳P43-44
「彼らのエジプトへの三度目の遠征とその征服、および564年に起こったその他の出来事に関する記事」

括弧内は管理人の注
管理人は翻訳に責任を持たない

以下訳文
 今回は、フランク―神よ彼らを除き給え―が、その国に対する彼らの熱望から、彼らの歩兵と騎士を集め、エジプトへ進軍し、エジプト人とアサド=アッディーンの間で結ばれた和平の約定を破りったことによる。ヌール=アッディーンとアサド=アッディーンはこれを聞き、これを見過ごすことは出来ず、しかし遠征を急いだ。
 彼(ヌール=アッディーン)はフランクが彼の領地を攻撃することを恐れ、またザイヌ=アッディーン・アリー・イブン=バクタキーン[原注:イルビルのアミール]―神よ彼に慈悲を―、彼は563年のダフール・ヒージャ月[原注:1168年7-8月]に亡くなり、彼が保持していたイルビル以外の全ての城をクトゥブ=アッディーン・アタベクに遺し、彼はそれをアタベク・ザンギーから引き継いだのだが、その死去により彼(ヌール=アッディーン)の関心がモスルの方へ向けられていたため、ヌール=アッディーンは資金と兵士を用意したが、彼自身は(エジプトへ)行くことはしなかった。このため、ヌール=アッディーンは兵士を送る方向に野心を燃やした。アサド=アッディーンはしかし、彼自身が行き、資金と一族と兵力を提供した。スルタンは一度私に以下のように言ったことがある「私はこの機会に、兵達の中で一番[原注:エジプトへ]行くのをいやがっていた。あれは私の選択ではなくて、叔父が無理矢理渡しを連れて行ったのだ」。神の言葉は全能である「汝らが自分では厭だと思うことでも案外身のためになることかも知れない[原注:コーラン、2、216節]」(井筒俊彦訳に依った)という神の言葉をここに並べておく。シャーワルは、エジプトに向かってフランクが進軍しているのを知り、アサド=アッディーンに支援と援助を頼む旨を書き送った。その手紙は564年ラビー1月[原注:1168年12月]に大急ぎでカイロを発った。
 この年は、それは564年であるが、ムハッラム月[原注:1168年8月]にヌール=アッディーンがジャアバルの城塞を手に入れ、その奪取の後、サルージュ、バーブ・ブザーアとアル=マルーハの代わりにそこに彼はイブン=マーリクを城主として任命した。これはヤールーキーヤにその名をとどめるヤールークの死んだ月と同じであった。[原注:ジャアバルの城はラッカの北、ユーフラテス河の左岸にある。そこはセルジューク朝のマリクシャーの時代まではウカイル家のアミールが保持していた。サルージュは現在のトルコのシュリュジュである。バーブ・ブザーアは古代ブザーアの西の部分で、アレッポから40km東にある今のバーブである。アル=ヤールーキーヤはアレッポの公害で、以前はアル=ハーディルと呼ばれ、ザンギー朝時代にヤールークに率いられたトルクメンが住んでいた。]
 フランクたちが、アサド=アッディーンと現地人の約定に基づいてアサド=アッディーンがエジプトに到着したことに気づいた後、彼らは撤退した。アサド=アッディーンは、シャーワルがたびたび彼を訪ねるため、そこの邸宅を接収した。シャーワルは彼らに相当な額の資金を彼らが費やしたものに対する対価として約束したが、彼は彼らに対し、何も運んでこなかった。彼(シールクーフ)らは、この国の支配者たちは悪名高く間違った信仰をもち(当時エジプトを支配したファーティマ朝はシーア派)、シャーワルが彼らとフランクの間で交互に動き、フランクが機会をもし見つければ、彼らがそこを獲り、お互い何も出来ないまま帰っていかざるを得ないことを知っていたので、アサド=アッディーンはその地での統御を確固たるものとすべく動いていた。シャーワルが生き残る限り、彼らはこの地を支配する方法がないことを知った。そこで、彼らは、彼(シャーワル)が彼らを訪れた時に彼を捕らえる計画を練った。彼らはたびたびアサド=アッディーンを除いた人々で彼を訪問し、その間シャーワルは、アサド=アッディーンに合う機会があった。
 シャーワルはよく、太鼓隊、トランペット隊、旗手とともに宰相の服装で騎乗しており、スルタン自身のみが彼を、随行員たちの中から捕らえるのに十分な勇敢さを持っていた。事実、シャーワルが彼らのところへ騎乗してやってきた時、サラディンは彼に馬の背に乗ったまま会い、彼の側にいった。彼(サラディン)は彼(シャーワル)の襟をつかみ、彼(サラディン)の部隊に、彼(シャーワル)の従者たちを捕らえるよう命じた。後者は散り散りになり、兵士たちに強奪された。シャーワルは逮捕され、分け隔てられたテントに入れられた。ただちに、宮殿の宦官の手によるエジプト人からの令状が届き、それには「我々は彼の首を必要とする」とあり、彼らの習慣によれば宰相の問題は何人であれ彼のライバルより優位に立った者がその地位につく。シャーワルの首は切断され、彼の首は彼らのところへ送られた。
 宰相の衣はアサド=アッディーンのところへ送られ、彼はそれを着用し、そして宮殿へ向かい、彼はそこで宰相として任命された。これは564年のラビー1月17日[原注:1169年1月18日]のことであった。その年の残りのジュマーダ2月[原注:1169年5月22日]まで、彼の知識と公正な裁断による能力の高さによって、命令と禁止の責任が彼に任せられたため、彼は命じたり禁じたりするにあたって最高の権威を手にし、その間スルタンは日々の業務を解決し、処理していた。
プロフィール

鉄勒京二

Author:鉄勒京二
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