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541年 記事番1 ザンギー死後

イスラム歴541[西暦1146-1147]年 完史英訳2巻P7-8
「ザンギーの二人の息子、サイフ=アッディーン・ガーズィーとヌール=アッディーン・マフムードの権力掌握に関する記事」

括弧内は管理人の注
管理人は翻訳・要約に責任を持たない

以下訳文と要約
 アタベク・ザンギーの殺害後、彼の息子のヌール=アッディーン・マフムードは、彼のところに居合わせたため、玉璽の指輪を彼の手から取り、彼が領有していたアレッポへ向かった。その時、ザンギーの治世は続いており、ターバンを巻いた人々の一人、政府を掌握してたジャマール=アッディーン・ムハンマド・イブン=アリーによって、彼の地位においての権威が行使されていた。彼の僚友には侍従長・武将のサラーフ=アッディーン・ムハンマド・アル=ヤギシャーニーがいた。彼らは王朝を存続させることに合意した。救世主のアタベクの宮廷には(セルジューク朝の)王子のアルプアルスラン・イブン=スルタンムハンマドがいた。彼は軍を率い、彼の周りに兵士を集めた。ジャマール=アッディーンとサラーフ=アッディーンは彼のところへ来て、酒と歌手と奴隷の女たちに彼自身を占有するよう働きかけた。彼らは彼をラッカに入れ、彼はそこに数日間とどまり、公の場には姿を現さなかった。彼はそこで彼が入ったマクスィーンに移動した。彼はそこでしばらく滞在し、その間ジャマール=アッディーンはアタベク・ザンギーの息子であるサイフ=アッディーン・ガーズィーのためにアミール達からの服従の誓いを集め、それをモスルへ送った。
 サイフ=アッディーンがモスルに着いた後、アルプアルスランはマクスィーンからスィンジャールへ向かった。スィンジャールに到着した後、ジャマール=アッディーンは城代に以下のメッセージをスルタンの息子に送るよう命じる手紙を書き送った、すなわち「私はあなたのしもべですが、私の統治する場所はモスルです。あなたがそれを取った時、私はスィンジャールを届けましょう」。彼はそこでモスルへ向かったが、ジャマール=アッディーンは彼を捕らえ、バラドの街に放り込んだ。兵士達のうちわずかが彼と共に留まった。彼は彼にティグリスを渡るよう勧めた。彼は西へ向け小さな一隊を組んで(ティグリスを)渡った。
 サイフ=アッディーン・ガーズィーはシャフラズールの街におり、そこは彼の領地だった。彼の父のモスルの代官は、ザイヌ=アッディーン・アリー・クジャークで、彼が王子(アルプアルスラン)より早く到着した時に、彼をモスルに呼び寄せる手紙を送った。ジャマール=アッディーンが、サイフ=アッディーンモスルにいることを伝え、彼は王子とともにいる人間がいかに少ないかを彼に伝えたため、彼は彼の部隊のうちいくらかを派遣し、彼らは彼を捕縛した。彼はモスルの城塞に閉じこめられた。サイフ=アッディーンは領地をよく治め、彼の兄弟のヌール=アッディーンはアレッポに留まっており、彼はそこを保持していた。サラーフ=アッディーン・アル=ヤギシャーニーは、彼の業務を行い彼の統治を保ち支えるため、彼に加わった。我々は、これらの出来事の完全な解説を我々の「アタベク王朝の歴史(al-Ta'rikh al-bahir)」の中で述べている。
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鉄勒京二

Author:鉄勒京二
当ブログは一介の歴史好きが読んだ本を紹介したり、書いた文章を公開したりするための場です。執筆記事は西アジア史関係が多いですが、読書は西アジアにこだわらず地域・時代を広く浅く扱っています。
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