432年 セルジューク朝の始まり(未完)

イスラム暦432[西暦1040-1041]年 
完史英訳、セルジューク朝分抄訳P30-41
「セルジューク朝の始まりと、彼らの歴史に関連する記事」

括弧内は管理人の注
以下訳文
 この年、ミーカーイール・イブン=セルジューク・イブン=ドゥカークの二人の息子、スルタン・トゥグリル・ベク・ムハンマドと、彼の兄弟チャグリー・ベク・ダーウードによる統治が確固として始まった。まず、我々はトゥグリル・ベクの先祖たちについての記事を書き、次に我々は彼がスルタンとなるまでの彼の運命の流転を書こう。わたしは既に年毎に彼らの歴史の多くを書いてきたが、連続的な物語として複合的な記事を書いた方が良いと思われるので、我々はここでそれを繰り返すことにする。
 ドゥカーク、その名前の意味は「鉄の弓」であるが[原注:この誤った説明は、いくつかのアラビア語ソースに書かれている。「鉄の弓」は実際は彼の異名である「ティムール・ヤリグ」の訳である]、彼は勇敢であり、優れた判断力と組織力を持った男であり、オグズ=テュルクの指導者だった。彼らは彼を指導者として仰ぎ、彼の全ての言葉を受け入れ、彼の命令を絶対に無視しなかった。ある日、ヤブグと呼ばれたテュルクの指導者が彼の軍隊を招集し、イスラームの地を襲撃しようと企てた。ドゥカークはそれを禁じ、彼らの間で長い議論が戦わされた。テュルクの指導者は、彼(ヤブグ)を討ち頭を唐竹割にしたドゥカークに対して言葉を荒げた。テュルクの指導者の使用人であった男たちがドゥカークを取り囲み、すなわち包囲したが、彼はそれに抵抗し、戦った。彼自身の部下の幾人かが彼が捕らえられるのを防ぐため集まり、ために他方は退いていき、彼は一人で残された。最終的に、和平が回復した。ドゥカークは指導者の地位に留まり続け、息子のセルジュークを授かった。
 セルジュークが成長したとき、高貴なる者の相が彼にはっきりと現れ、彼は偉大な事業をなしとげるのだと人々は理解した。テュルクの指導者は彼をと個人的な交わりを結び、彼の成功を助けた。彼は彼をスバシと呼んだが、その意味は「軍隊の司令官」である。指導者(ドゥカーク)の妻は、彼の偉大さと人々が彼に忠誠を捧げ服従していることを知っていたため、しばしば彼に対してセルジュークを警戒するように申し出た。彼女は長い間彼に対してセルジュークを殺すようせきたてた。
 セルジュークはこの報せを受け、彼の部下たちと彼に従う者たちともども不信心者の土地からイスラームの家に移住した。彼は真実の運命とムスリム社会の祝福を受け、彼の地位はさらに高くなり、彼の力と人々の忠誠はさらに高まった。彼はジャンド地方に住み、そこを拠点に頻繁に異教徒のテュルクを襲撃した。これらの土地のムスリムたちから指導者はしばしば貢ぎ物を取っていた。セルジュークは彼の官僚を追い出し、その地域は完全にムスリムたちのものとなった。
 ハールーン・イブン=イレク・ハーン[原注:カラハン朝の君主]は、サーマーン朝の周縁部の領地を包囲し、セルジュークは彼から援助の要請を受けた。彼は彼の息子のアルスランをかれの部下の一団とともにサーマーン朝を助けるため送り込んだ。そして後者がハールーンを打ち負かし、彼の失われた領地を回復した。アルスランは彼の父の元へ帰った。
 セルジュークは彼が107歳の時にジャンドで死去し、そこに埋葬された。彼の周囲にいた子供達、アルスラン、ミーカーイール、そしてムーサーはそこに残っていた。ミーカーイールは不信心のテュルクの縄張りをいくつか襲い、ある戦いで個人戦に巻き込まれ、「神の道へと」殉死した。彼は以下の息子たちを遺していた、ペイグ、トゥグリル・ベク・ムハンマド、そしてチャグリー・ベク・ダーウードである。彼らの部民たちは彼らに従い、彼らの命令と禁令に服従した。彼らはブハラの街から20リーグの近くに野営した。ブハラのアミールは彼らを怖れ、彼らが隣人でいる間、悪しざまに扱った。彼は彼らを攻撃し徹底的に叩き潰そうと目論んでいたため、彼らはトルキスタンの支配者、ブグラ・ハーンの保護を仰いだ。彼らは彼の援助と保護のもと、彼の領地に滞在した。トゥグリル・ベクと彼の兄弟のダーウードは彼らのうち、両方がブグラ・ハーンのもとに伺候せず、彼らのうち一人だけが彼の側にいるべきであることに同意していた。他方は、彼らに対抗するいかなる陰謀にも対応するべく彼らの部民たちの所に留まっていたのだ。彼らはこの習慣を維持し続けた。
 ブグラ・ハーンは二人ともを宮廷へ呼び寄せようとしたが、彼らは同意しなかった。彼はそこでトゥグリル・ベクを捉え、幽閉してしまった。ダーウードは彼の部民たち及び部下たちとともに、反乱を起こしブグラ・ハーンに対し打って出た。ブグラ・ハーンは一軍を彼に対して派遣したが、一度の戦闘ののち、その軍は霧散した。彼らのうち多くが殺された。ダーウードは彼の兄弟を束縛から解き放ち、彼らは総員でブハラ近くのジャンドへ向かい、そこに滞在した。
 サーマーン朝が滅びたとき、イレク・ハーンはブハラを治め、ダーウードとトゥグリル・ベクのおじであるアルスラン・イブン=セルジュークはトランスオクシアナで高い地位を得ていた。イレク・ハーンの兄弟であるアリテギンはアルスラン・ハーン[原注:セルジュークの息子のアルスランと混同されている]に捉えられていた。彼は逃亡し、ブハラへ来て街を領地として得た。アルスラン・イブン=セルジュークと彼が同意するにいたり、彼らは二人で街を保持し、極めて強力になった。アルスラン・ハーンの兄弟のイレクは、彼らを攻撃したが、彼らは彼を打ち負かし、ブハラへ留まった。
 アリテギンは、領地が隣り合っているためしばしばヤミン=アッダウラ・マフムード・イブン=サブクテギン(ガズニのマフムード。ガズナ朝の君主)と小競り合いを起こしていた。彼は、テュルクの統治者[原注:すなわちカラハン朝]に対する彼の遠征の行き来をしばしば妨害した。我々がすでに記したように、マフムードがオクサス河を渡ったとき、アリテギンはブハラから逃亡した。アルスラン・イブン=セルジュークと彼の部下は砂漠と荒野へ入り、マフムードの保護を受けた。マフムードはセルジュークの攻撃能力とその膨大な数による力を目の当たりにした。彼はアルスラン・イブン=セルジュークへ手紙を送り公正な約束を彼に対して負ったため、彼は彼の所へ来た。ヤミン=アッダウラはいかなる遅延もなく彼を捕縛し彼を要塞に捉え、彼の天幕を荒らした。彼は彼の一族と部民たちをどう処置すればいいか助言を求めた。マフムードの古参の廷臣で、侍従[原注:al-hajib]のアルスランは彼に、彼らが弓を撃てないように親指を切り取ってしまうか、オクサス河に沈めてしまえと助言した。マフムードが彼に言うことには、「貴様は冷酷な男以外の何者でもないな!」そこで彼は彼らにオクサス河を渡るよう命じ、彼らをホラーサン地方に広く散らばらせた。ある氏族は彼らにつけこみ、徴税官は彼らを搾取した。彼らは、彼らの一軍を捕らえ、彼らの子供たちを引き離した。彼らのうち2000人以上が彼らのもとを離れ、キルマーンへ向かわされ、イスファハーンへ向かった。我々がすでに記した戦いが、彼らとイスファハーンの統治者、アラー=アッダウラ・イブン=カクヤとの間であった。イスファハーンから彼らはアゼルバイジャンへ向かった。これらはアルスランの人々だった。
 アルスランの甥たちについて言えば、ブハラの統治者のアリテギンは彼らを捉えるため多くの策略をめぐらした。彼はトゥグリル・ベク・ムハンマドとチャグリー・ベク・ダーウードの従兄弟のユースフ・イブン=ムーサー・イブン=セルジュークに手紙を送り、良い待遇を約束し、彼の最大限のもてなしを彼に負い、彼の元を訪ねるように頼んだので、彼はそうした。アリテギンは彼が統治している領土にいるすべてのテュルクの指導権を彼に与え、多くの土地の領主に任命し、彼にアミール・イナンジ・ヤブグの称号を与えた。彼がこれを行った動機は彼とその部民、部下の援助を勝ち取り、彼の従兄弟トゥグリル・ベクとダーウードを仲違いさせ、彼らに対抗するためであった。彼(トゥグリル)らは、彼(ユースフ)の強大化と、(彼らに)従わないことに気づき、ユースフは彼の望みを全て失わせた。アリテギンが彼の陰謀がユースフに対して効果がなく、彼の計画が失敗したことに気づいた時、彼は、彼を殺すよう命じた。そこでユースフは殺されたが、その行動(殺害)を実行した男はアルプ・カラという名のアリテギンのアミールだった。彼の殺害はトゥグリル・ベクと彼の兄弟のダーウード、そして彼らの部民全てをいたく追い込ませた。彼らは喪服を着て、復讐のため動員しうる全てのテュルクを糾合した。アリテギンもまた彼の兵士を編成し、セルジュークたちに対して送り込んだが、アリテギンの軍は大敗北を喫した。その戦いの前に、420年のムハッラム月の1日[原注:1029年1月20日]、未来のスルタンであるアルスラン・イブン=ダーウードが生まれた。彼らはこれを祝福と幸運の兆しだと考えた。しかし、彼の生まれた日には異説もある。
 421年[原注:1030年]、トゥグリル・ベクとダーウードは彼らのいとこを殺したアルプ・カラを攻撃し、殺した。彼らはアリテギンの派遣部隊に敗北を与え、1000人の兵士を殺した。アリテギンはそこで全軍をかき集め、彼と彼の息子たち、そして武装したこれらの彼の部下たちは、セルジューク族を攻撃した。膨大な数の地方居住者がその軍隊に加わっていた。彼らは全方向からセルジューク族を攻撃し、彼らに大きな敗北を与え、そこでセルジュークの兵士の多くが殺された。彼らの家畜の群れと子供たちは捕らえられ、婦人と幼子たちは束縛された。彼らは必要性から、ホラーサンへ運ばれた。
 彼らがオクサスを渡った時、ホラズムシャーのハールーン・イブン=アルタンターシュは彼らに、協定を結び、助けあうよう誘う旨を書き送った。トゥグリル・ベクと彼の二人の兄弟、ダーウードとペイグは、426年[原注:1034-35年]彼に加わるためホラズムの外で野営した。彼らは彼との盟約を結び、彼を信用した、しかし、彼は彼らを裏切った。彼はアミール・シャー・マリクを彼らに対して先導し、彼は、ハールーンが彼を助けるために派遣した軍隊とともに、奇襲し、彼らの多くを殺し、略奪品と捕虜を得た。これは彼が犯した恥ずべき背信行為であった。彼らのすべての部民たちとともに、彼らはホラズムを離れ、ナサーの砂漠へ入った。これと同じ年に、彼らはメルヴを攻撃し、彼らの子供たちと婦人たちが捕虜のままである一方、誰もいかなる問題もおこさなかった。
 我々が既に記したように、スルタン・マスウード・イブン=マフムード・イブン=サブクテギンは、この年タバリスタンにおり、そこで彼は支配を確立した。セルジューク族達は手紙を送り、彼に安全を保障することを求めた。彼らは彼の領地で騒乱を起こしている集団を、追い出し戦うため、また、彼に反抗する彼らやその他の勢力に対抗する援助者となるため、攻撃することを請け負った(=信用を得るために、マスウードの敵と戦おうと申し出た)。(しかし)彼は彼らの使者を捕らえ、彼の侍従長のイルトゥグディと、彼の年長のアミールたちが率いる大部隊を彼らに対して派遣した。彼らは彼らに対して進軍し、この年のシャアバーン月[原注:1035年6月11日-7月9日]、ナサーでまみえ、壮大な戦いを展開し、そこでセルジューク族は壊滅し、財産を奪われた。マスウード軍の兵士たちの間で戦利品の確保をめぐって議論が紛糾し、それは完全に戦闘にまで発展した。セルジューク族たちが逃げ去り、それが起こったのと同じ時、ダーウードは彼らに言った、「敵は今野営し、彼らの守りは貧弱だ。彼らは攻撃が無いと思っている。もし我々がアドバンテージを持っているなら、我々の最善の策は、連中を攻撃することだ」。そこで彼らは足音をひそめ、彼らが議論し戦闘しているところに進んでいった。彼らは彼らに襲いかかり、多くを殺し捕虜を取り、失った略奪品を回復し、捕虜を解放した。
[原注:このナサーの戦いの状況は、ダンダナカーンの決戦の状況に酷似している。アル=フサイニーは、ガズナ朝のアミールの名前をバクトゥグディ・アル=ハージブであるとし、以下のように記している。
 彼は彼ら[ガズナ朝の軍隊]をセルジューク族に対抗するために送り込んだ。彼らの接近にともない、セルジューク族の部民の男たちは、彼らの天幕、武器、荷物を放棄し、洞窟や谷へ逃げ込んだ。彼らの財産を、スルタン・マスウードの軍隊が戦利品として獲得した後、部民の男たちは隠れていた場所から現れ、彼らの上に矢を浴びせかけ、彼らと戦うため剣を取った。スルタンの軍隊はニシャープールへ逃げ去った]
 追い散らされた彼の軍隊の残存者たちは、彼がニシャープールにいるとき、スルタン・マスウードのもとへ帰り、彼は彼らの援助の申し出をはねつけたことを後悔した。彼は、彼の兵士の心に、彼らに対する畏怖の念が確固として宿ってしまったことと、この[原注:彼が被った]セルジューク族に対する敗北によって、彼らが大いに恐れていたのにセルジューク族が売られた戦で彼の親衛隊に当たるべく、さらに野心を燃やしていることに気づいた。彼は当代の災害というべき結果になることを恐れた。マスウードからの脅迫と威嚇に満ちた手紙を受け取った後、トゥグリル・ベクは彼の祈祷師に言った「このスルタンに書け。内容はこうだ。『おお、神よ、王国の王なるものよ。汝は御心のままに誰にでも王国を授け、また御心のままに誰からでも王国を取り上げ給う。汝の御手のうちに一切の善はあり、汝はまことに、あらゆることをなす権能を有し給う』[原注:コーラン3章26節]。これで全てだ、他には書くな」。彼は言われた通りに書き、マスウードのもとに手紙がついた時、彼は公平な約束に満ちた手紙を返信するよう命令し、それとともに高価な名誉の衣を送った。彼はセルジューク族にオクサス河沿いのアムル・アル=シャットの街へ移り、問題と混乱を引き起こすことを禁じる旨命令した。彼はディースタンをダーウード、ナサーをトゥグリル・ベク、ファラワをペイグに与えた。それぞれに彼はディフカンの称号を与えた。彼らは使者と、名誉の衣の両方を見下し、使者に言った「スルタンが優勢を保っており、我々を助けるというのなら、我々は彼に従っただろう。しかし、彼が我々を傘下に納めれば、我々の成したこと故に彼は我々を滅ぼそうとするだろうということを、我々は知っている。我々は決して彼には従わないし、彼を信用することもない」。彼らは一連の不穏な言葉を与えたが、その後、それを止めて、「我々がスルタンから正しく力を奪ったかそうでないか、どちらにしろ、我々には全てを破壊し彼らの権威を横領する必要はないな」と言った。順従に振るまい、問題を引き起こすことをやめるふりをして騙し、彼らのおじのアルスラン・イブン=セルジュークを虜囚の身から解放するように、彼らはマスウードに書き送った。彼は彼らの要求を受け入れ、彼がいたバルフにアルスランを呼びつけた。マスウードの命令で、アルスランが彼の甥であるペイグ、トゥグリル・ベク、そしてダーウードに、彼らの道を正し、悪行をやめるよう命じる手紙を書いた。彼はこれらの命令を伝えるための使者を彼らに送り、その使者に錐をもたせ、甥たちに渡すよう命じた。その使者が到着して、命令を伝え、錐を手渡したところ、拒絶と敵意を表し、彼らの本来の行動、すなわち襲撃と動乱を再開した。[原注:これはアラブ又はペルシアの、ある物体が特別のメッセージを伝えるという物語である。]マスウードはアルスランを再び幽閉しガズナへ向かった。我々が既に記したように、セルジューク族たちはバルフ、ニシャープール、トゥース、そしてジュズジャーンを攻撃した。
 ダーウードはメルヴの官邸を接収し、スルタン・マスウードの軍勢は得るジュークたちに時を追うごとに殺されていった。彼の部下たちは、彼が遠くガズナに逃れたのを知って恐怖にかられた。彼の援軍を乞い、苦難を訴え、セルジューク族たちがその土地で何をしたかを全て書き記した手紙が、彼の代官と官僚たちから次々と彼のところへ届いた。彼は一切返信も援助も送らなかった。彼はホラーサンとセルジューク族を無視し、インドの問題の対応に追われていた。
 ホラーサンの状況が深刻なものとなり、セルジューク族たちの力が大きくなると、マスウードの宰相と相談者たちは共同して彼に言った「あなたのホラーサンへの関心の欠如は、セルジューク族たちにとって大きな利益となっています。これは、彼らにかの土地を征服させ、彼らの権力を確立させることを容易にしています。我々が知っているように、そして全ての知恵ある人が知っている通り、このままであれば、彼らはじきに全てのホラーサンを征服するでしょう。ホラーサンから彼らはガズナに進軍し、我々には打つ手がなくなり、自由や楽しみを謳歌すること、歌舞を楽しむこともできなくなるでしょう」。そこで彼は惰眠から覚め、進むべき道を見定めた。彼は膨大な軍隊を、侍従であったスバシと呼ばれる彼の宿将に預け派遣した。以前彼は彼をイラキ=オグズに対抗して送り込んだことがあるが、我々は既にその記事を記した。彼と共に、彼はもう一人の強力なアミール、マルダウジ・イブン=ビシュウを送った。
 スバシは臆病で、ヘラートとニシャープールに留まった。しかし、突然、彼はダーウードのいたメルヴを襲い、さらに強行軍でその街に三日で着いた[原注:これはイブン=アル=アシールが彼のソースを混同した可能性がある。アル=フサイニーは「ダーウードがメルヴの官邸を接収した」とは以前には書いておらず、「そしてチャグリー・ベクは突然メルヴを襲い、その官邸を接収した。スバシは迅速に彼に対して迅速に数日で進軍した」と書いている]。彼の軍隊と軍馬は大変疲労しへとへとになっていた。ダーウードは彼の到着前に撤退したが、軍隊は彼を追いかけ、ジュズザーンの統治者[原注:アル=フサイニーの記述によれば、この人物はアヌシュテギン・ナウバティであると考えられる]が彼を攻撃した。ダーウードは立ち止まり、戦い、ジュズザーンの統治者は殺され、彼の軍隊は霧散した。彼の死はスバシと彼の全ての部下を深く悲しませた。彼らは失望に打ちひしがれ、セルジューク族が意気軒昂となっている一方で、彼らの不安は大きくなっていった。
 ダーウードはメルヴに戻り、住民を慰撫した。彼の名前は428年ラジャブ月の最初の金曜日[原注:1037年4月22日]ぶフトバで読み上げられた。フトバで、彼は「諸王の王」という称号を与えられた。一方、スバシは時間を無駄にしており、軍営から他に移り、セルジューク族に裏をかかれた。彼は臆病で無能なように振舞っていたと言われるが、セルジューク族たちが彼に魅力的な偽の約束を提示していたとも主張される。そこで彼は彼らを許し、いくつかの休息できる場所を与え、怠惰な追撃を行ったのだという。しかし、全てを知るは神のみである。
 まずスバシと彼の兵士たち、そしてセルジューク族がホラーサンに長く留まった後、その土地は荒廃し、多くの血が流れ、特に常備軍に対する必需品と食料は不足した。彼らは少しのもので満足できたため、セルジューク族はそのことについて大して気に止めなかった。スバシは、はぐらかすのを諦め、戦をより直接的にするようにした。彼とダーウードはお互いに対して進軍し、428年のシャアバーン月[原注:1037年5月]にサラクス門で戦闘に入った。ダーウードはサウマーイーと呼ばれる占星術師を抱えており、彼は彼に戦うよう助言し、勝利を保証した。彼は何か失敗を犯せば命を捧げることを誓った。二つの軍が出会った時、スバシの軍は陣を固めることができず、不名誉な潰走をし、恥ずべき状態でヘラートへ来た。ダーウードと彼の兵士たちは、彼らをトゥースまで追い、捕虜をとった。この戦いはホラーサンの覇権をセルジューク族に与え、彼らは大きな街に入るようになった。トゥグリル・ベクはニシャープールに入り、郊外にあるシャイフの邸宅を接収した。シャアバーン月の間に、彼の名前がフトバで「偉大なるスルタン al-sultan al-Mu'azzam shahinshah」として唱えられ、彼は彼の代官を様々な地域に送った。
 429年のラマダン月の初日[原注:1038年6月7日]、マスウードはバルフを人員を含まずに10万を数える騎兵とともに出発した。彼はジュズザーンを通り、セルジューク族が置いたそこの統治者を捕らえ、磔にした。そこかれ彼はマルヴ・アル=シャヒジャーンに至った。ダーウードはサラクスへ向かい、彼は兄弟のトゥグリル・ベクとペイグと合流した。マスウードは彼らに和平の申し入れをする使者を送った。ペイグは返信を行い、マスウードに受け入れられ、名誉の衣を与えられた。その伝言の内容は、「我々は、我々がなしたことにより、あなたを怒らせたため、我々があなたと成したいかなる和平も信用することが出来ず、それぞれの必要はあなたに恥をかかせ破滅させることだ」。彼らは彼に望みを与えず、和平を無視した。そこで彼はメルヴからヘラートへ進軍した。ダーウードはここでマルヴに対して動いたが、住民は彼を入れようとしなかった。そこで七ヵ月間、彼は街を包囲した。彼は彼らを激しく攻め、絶え間なく攻撃し、最終的に街を手に入れた。
 この知らせをマスウードが知り、非常に落胆し、ヘラートを去り、ニシャープールへ向かい、そこからサラクスへ向かった。いつであれ彼がセルジューク族を追うと、彼らは他のセルジューク族のためにそれを中断せざるを得なくなる。このようなことが冬芽で続き、マスウードの部下たちはニシャープールで春までの3ヶ月を過ごした。
 春がきて、マスウードは愉悦と酒に溺れていた。春がきたが、何も変わらなかった。夏のはじめに、彼の宰相と民衆は、彼が敵を無視していることに対して非難したので、彼はニシャープールからセルジューク軍を求めて進軍した。彼らは砂漠に入り、彼は彼らの後ろを二回りほど遅れてついていった。彼とともにいた軍隊は長い進軍・遠征に不満を貯めていた。彼らはスバシとマスウードに従い三年間遠征を続けているため休憩をとりたがった。砂漠に入った時、彼はほとんど水の無い場所で野営した。暑さは激しく、スルタンと彼の近臣にも十分な水はなかった。セルジューク軍の大部分とともにいたダーウードは、他の部民たちが軍の後衛に面している間に、強襲し、彼を妨害した。全能なる神の意志により、マスウードの護衛と親軍は水をめぐって議論になり、対立が起こり、ついに戦いになり、片方が片方の荷物を略奪するという自体になった。ここにいたって軍の結束は蝕まれ、次々とマスウードを見棄て離反していった。ダーウードはこの混乱に気づき、彼らがばらばらになり、互いを略奪している時に、彼らを攻撃した。彼らは背を向け互いに注意をはらうこと無く逃げていった。大量殺戮が行われた。スルタン・マスウードと彼の宰相は彼らに頼み、命令し、戻るように言いつけたが無駄であり、完全に潰走した。マスウードは堅く守っており、彼は尋ねられた「なぜ閣下は待っておられるのですか? 閣下の部下は閣下を見棄て、閣下は敵に囲まれ危険な場所に一人でいらっしゃいます。ここに留まる意味はありません」。そこで彼は戦場を100騎の騎士とともに離脱した。セルジューク族の騎士の一人が彼らを付けたが、マスウードは彼を轢き殺してしまった。そこで彼は何も得ること無く、ガルチスタンへ行った。
 マスウードの軍からセルジューク族は計り切れないほどの戦利品を得た。ダーウードはそれらを部下に分配し、自分の分前は少ししか取らなかった。彼はマスウードの宮殿に入り、彼の王座に座った。王の軍隊が戻ってくることを警戒し、三日間、彼の軍隊は馬を降りることなく、必要にかられて食事をしたり、飲み物を飲んだりするなど以外は、彼らからまったく離れることはなかった。捕虜は彼が自由にし、この年の税を免除した。トゥグリル・ベクはニシャープールへ進軍し、431年の末から432年の頭頃[原注:1040年9月]ににそこを奪取し入城した。彼の部下は住民を略奪した。これは彼がアーモンドケーキを見つけて、食べたところ「これは素晴らしいトゥトマチだが、ニンニクが入っていないな」と言ったことに関係している。オグズもまた、樟脳を見つけてそれを塩だと思った。「こりゃ苦い塩だな」。彼らについて、このような多くのことが述べられている。
 ニシャープールのアイヤール(街のヤクザ者)たちは多くの問題を起こし、非常に強力になっていた。ニシャープールの住民は、財産を奪い、人々を殺し、女性を辱める彼らの行為によって苦難を被っていた。誰も彼らを止めるに十分な力を持っていなかったので、彼らはやりたいことは何でもやった。トゥグリル・ベクが街に入った後、アイヤールたちは彼を恐れ、悪行を改めたので、人々の間に平和と治安がもたらされた。
 セルジューク族によって征服された全ての土地は以下の通りである。ペイグはヘラートへ行き、そこへ入り、ダーウードは侍従のアルトゥンタークがマスウードの代理として統治していたバルフへ行った。ダーウードは彼に、彼の主君はもはや救援に来られないことを知らせ、街を諦めるよううながず手紙を送った。アルトゥンタークは彼の使者を捕らえたため、ダーウードは街を包囲した。アルトゥンタークはガズナにいたマスウードに状況を知らせ深刻な包囲下にあることを告げる使者を送った。マスウードにより大軍が編成され派遣されてきた。彼らのうち一部の分隊がルクカジに来たところ、そこにはセルジューク軍の死体があり、セルジューク族が負けた戦いの跡があった。800人が殺され、多くが捕虜となった。その地方は彼らから解放された。別の分隊はペイグがいたヘラートへ来た。戦闘が行われ、彼らは彼を街から追い出した。
 そこで、マスウードは彼の息子のマウドゥードをこれらの部隊を援護するため大軍の司令官として送ったが、神が望めば我々が後に記すように、マスウードは彼の息子がホラーサンにいる間に殺されてしまった。その軍隊は432年[原注:1040年]にガズナから出発した。彼らがバルフに到着した時、ダーウードは彼の部隊の一部を送り、マウドゥードの前衛に手酷い損害を与え、敗走させた。ダーウードの軍は彼らを追い、マウドゥードの軍がその知らせを聞き撤退し、もはや進軍してくることはなかった。この情報を得て、バルフの支配者のアルトゥンタークは、ダーウードに降伏し、街を彼に明け渡した。彼は彼に謙って服従した。
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鉄勒京二

Author:鉄勒京二
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