487年 アクソンコルの死

イスラム歴487[西暦1094-1095]年 
完史英訳、セルジューク朝分抄訳P273-274
「カースィム=アッダウラ・アクソンコルの死、トゥトゥシュのアレッポ、ジャズィーラ、ディヤルバクル、アゼルバイジャンとハマダーンの征服、バグダードでの彼のフトバに関する記事」

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以下訳文
 この年のジュマーダ1月[原注:1094年5月19日-6月17日]、我々の今のモスルの統治者の祖先であるカースィム=アッダウラ・アクソンコルが殺された。彼の死の理由は、タジ=アッダウラ・トゥトゥシュが、彼がアゼルバイジャンで負けて帰還した後、軍を集めて巨大にし、広く動員をかけたことによる。この日、彼はダマスカスからアレッポへ王座を求めて進軍した。カースィム=アッダウラ・アクソンコルとブザンは軍を合わせ、ルカン=アッダウラ・バルキヤールクはアミール・カルブガーとともに、後者はモスルの統治者となったのだが、彼らを強化した。軍を合わせた後、彼らは彼を阻止するため進軍し、アレッポから6リーグのところにあるスルタンの丘の近くのサビン川で会敵した。戦いは激しく、アクソンコルに加わっていた兵士たちのいくらかは裏切りも同然の唐宋を行い、残りに追いかけられた。総崩れが大勢だったが、アクソンコルは確固として立っており、捕らえられた。トゥトゥシュは、彼が目の前に引っ立てられた時、言うことには「もしお前が私に勝っていれば、お前は私をどうした?」。彼が答えて曰く「私はお前を殺していただろう」。トゥトゥシュは「私のお前に対する評決は、お前が私にしようとしたことだ(=殺す)」と言い、彼は彼を良心の呵責無く殺した。
 彼はアレッポへ向かったが、そこにはカルブガーとブザンが既に入っており、今や彼に抵抗していた。トゥトゥシュは街を包囲し、彼がそこを取るまで頑固に攻撃した。シャリーフの城塞の住人はそこを彼に明け渡し、そこを通って彼は街へ入った。彼は二人を捕虜にし、彼らを降伏させるため二箇所ともブザンの所領であったハッラーンとエデッサへ送ったが、それは去卑され、ためにブザンは殺され、彼の首は彼らに送り届けられた。そこでトゥトゥシュは二つの街を乗っ取りった。カルブガーは彼がヒムスへ送り、父のトゥトゥシュの死後王子のリドワーンによって解放されるまでそこに捕らえられた。
 彼の領民の統治者、守護者としてカースィム=アッダウラはアミールの中で最良の一人だった。彼の領地は安い物価、全てにおける正義、広い治安の良さを謳歌していた。彼は彼の領地の全ての村の住民にいつであれ彼らの近くで商隊が奪取されたり、人が捕らえられたりした場合、住民は額の多寡に関わらず、盗られたものの全額を補償しなければならないことを定めた。このことによってどんな隊商も村についた時、荷を下ろして眠り、出発まで村の住民に見てもらうことになった。すべての道は安全になった。彼の忠誠と忠実さについて言えば、誇りにするに足るだけのもので、主君と恩人の家を守って彼は殺された。
 ハッラーンとエデッサを手に入れたので、トゥトゥシュはジャズィーラへ向かい、その全てを奪取し、ディヤルバクルとキラートを手に入れた。彼はアゼルバイジャンへ移り、その地を全て征服し、ハマダーンへ向かい、そこも奪取した。彼はニザーム=アル=ムルクの息子のファクル=アル=ムルクにそこで合った。彼はスルタン・バルキヤールクに仕えるため以前いたホラーサンを離れていた。スルタン・マリクシャーの息子のマフムードの軍の一部であったアミール・クマジはしかし、イスファハーンでファクル=アル=ムルクをとどめ、彼の財産を没収した。命からがら逃げ出し、ファクル=アル=ムルクはハマダーンへ来て、そこでトゥトゥシュに出会い、彼を殺してくれるよう願ったが、ヤギ・シヤーンが仲裁に入り、人々の彼の家への敬愛から、宰相にすべきだと助言した。彼はそこで彼を任命し、バグダードへ送り、フトバをムスタズヒル・ビッラーに頼んだ。彼のバグダード駐屯軍の司令官はアイテギン・ジュブであったが彼は定期的にディーワーンへしつこい要求とともに出席し、後に我々が記すように、バルキヤールクが彼の叔父のトゥトゥシュの軍に敗れるまで、結局は彼らはそれを認めていた。
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Author:鉄勒京二
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