8章 ダーダネルス攻防第一部 part1

オットー・リーマン・フォン=ザンデルス
「Fünf Jahre Türkei」英訳 P.57-58

括弧内は管理人の注
管理人は翻訳に責任を持たない

以下訳文
 
 3月24日の午後遅く、エンヴェルは私に執務室で待つよう言いつけた。彼はすぐに執務室に訪れ、もし私に意志があるなら、ダーダネルスを守備すべく編成される第五軍団の指揮を執ってほしいと頼んだ。私はすぐに同意し、今、そこにいる兵力はすぐに強化されねばならず、残された時間は少ない旨を伝えた。
 翌25日の夜、私は新しい目的地に向かうべくコンスタンティノープルを船で離れた。この時から、私は首都を10ヶ月の間離れることになる。時間が少なく、私は第一軍団からわずかばかりの人員を連れて行くことしかできなかった。これらの中で、将校は、キアジム・ベイと私の二人のドイツ人支援者、プリッジとムフルマンの両大尉であるが、人員の指揮者となった。他の人員は、その指揮下に入った。例外として本部の司令官であったフォン・フレッセ大尉の場合、士官は全てトルコ人だった。
 軍事作戦に関連する幕僚たちはコンスタンティノープルに残っていた。元帥フォン・デア・ゴルツ男爵は、私から第一軍団の指揮権を引き継いだ。
 3月26日の朝、第三師団の司令部が置かれていたガリポリの港に我々は上陸し、一時的な司令部をそこに置いた。
 私自身、そして私の側近のユンカーたちは、その後フランスの領事館のものだったと言われている家を四等分した。私に割り当てられた二つの部屋に置いてあった家具と言えば、円卓と壁かけ鏡くらいのものだった。他のもろもろの品は盗まれたに違いない。カイマカン(侍従長)は必要なベッドとその他不可欠な家具を町の中から借りだしてくれた。およそ四週間後にその家を私が辞した時、私のリネンの大部分はどこかへ消えていた。私がもっと驚いたのは、後にギリシャ人達に、窃盗と家を荒らしたことで訴えられた時だった。円卓と壁かけ鏡を持ち去るよりも、私にはすべきことがあったというのに。
 ガリポリは相当繁栄している町だが、にもかかわらずいくつかのギリシャ人の家が前もってトルコ人の権力者たちによって排除されていた。ダーダネルス会戦の終結後には、敵国の砲撃によって多くの瓦礫の山が築かれていた。
 仕事に追われる日々が、兵士の編成と、海岸の重要な区域の防備の変更が完全に完了するまで続いた。
 第一軍団は、しかし五個師団を数えるだけであり、それはヨーロッパ側とアジア側に、海岸防御のため割り当てられた。一個師団は9-12の大隊からなり、一個大隊は800-1000人でなっていた。イギリス人たちは、大上陸までの間に、私にまるまる四週間を与えてくれた。彼らは彼らの兵士たちの一部をエジプトに送り、また恐らくキプロスにも送っていた。欠かすべからざる配置を行い、及びニコライ大佐指揮下の第3師団をコンスタンティノープルから呼び寄せることを完了するために、それは十分な時間だった。
 ダーダネルス海峡の両岸、外側の沿岸部は、最初の上陸地点となることが予想された。
 アジア側の海岸区域は、起伏に富んだ丘と、多くのメンデレ河の支流が走る牧草地の広がる大きな平原からなっている。海に面する低地は、円状になっている低い海岸の隆起によって仕切られている。この高台に上陸された場合、自然、砲兵の陣となり、敵は軍艦の長距離砲と銃を組み合わせて東へ開けた土地を制圧するだろう。メンデレ河と湿地の広がりは、春から夏にかけては近代的な装備を持つ軍に対して、それほど進軍を深刻に遅らせはしないだろう。
 ヨーロッパ側の北部へ直線的に続くこの細いガリポリ半島は、切り立った絶壁をもつ山の多い地勢であり、その斜面は深い谷と高い峰によって切り刻まれている。
 山の尾根と、小川の土手、渓谷にわずかな低い松のしげみだけが、漠とした風景を自然に覆っている。
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鉄勒京二

Author:鉄勒京二
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