8章 ダーダネルス攻防第一部 part2

オットー・リーマン・フォン=ザンデルス
「Fünf Jahre Türkei」英訳 P.59-60

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管理人は翻訳に責任を持たない

以下訳文
 
 (承前)
 耕作地は水の供給に頼らねばならず、いくつかの村の周辺のみに限られており、それらは全て低地にある。マイドスの小さな街の周囲にあるのは谷だけで、街は直接海峡に面しており、高知の耕作地が見える。ここではオリーブと桑の実の栽培が行われている。
 サロス湾の奥にむかって、半島の内陸部は開けておりさらに肥沃な平野を有している。
 重要な問題は、敵国の上陸がどこに予想されるかということだった。それによって、広大な海岸に比べて非常に少ない兵員の振り分けが決まる。
 大量の兵員を上陸させることができる場所は海岸のいたるところにある。全てを占拠しておくのは不可能だった。自然、この決定は戦術的見地からなされることになる。
 最も重要なダーダネルス海峡を抑える堡塁と砲兵隊は南、アジア側に配した。敵によって占領されたテネドス島はこの海岸の正面右側にあり、大小のベシカ湾は特に上陸に適した場所だった。ここでは、トルコの海岸に大軍を配置することが出来た。堡塁と要塞の重砲隊は、水上を保持するためだけに並べられたため、アジア側に上陸した後、敵が我々の背後に前進し攻撃をしかければ、それは敵にとって大きなチャンスとなる。ここは道の連絡が非常によい。したがって、これは最も危険な場所だった。
 ガリポリ半島には重要かつ危険と考えられる三つの場所があった。
 最初は、半島の南端セド・エル・バールとテケ・ブルヌであり、この地域は敵の艦砲射程内だからだ。その南端での成功裏な上陸の後、敵のひどくわかりやすい次の目的地は剥げたアルティ・テペの丘であり、そこへ登るゆるやかな斜面には障害物が何もない。アルティ・テペの頂上から尾根に沿うトルコの要塞と堡塁の一部は砲兵の砲火に直接晒されえた。
 次にすぐ定まったのはガバ・テペの両側の海岸線だった。ここから広がる、ゆるい傾斜のみによって遮られた大きな平野は、海峡のマイドスの街に直接続いている。マイドスの両側の丘から、要塞の堡塁は間違いなく無力化されうる。ガバ・テペの北では、よく守られた予想上陸地点とともにアリ・ブルヌの険しい丘が海岸線近くまで出ている。もし敵がその主力攻撃をガバ・テペを進路としてマイドスの街に向けたとすれば、先に述べた平野の側面からの攻撃を除くため、アリ・ブルヌの丘を確保することが不可欠となる。
 ヨーロッパ側で三つ目の上陸のために特に重要な場所は、サロス湾の奥、ブライルの近くで、そこでは半島の幅は5~7kmしかない。この場所は砲兵が要塞に対抗するための射程距離外であり、この地点に上陸するのが戦略上有効かという問題があった。堡塁が分断されコンスタンティノープルとスレイスの連絡が絶たれる可能性があった。もし敵がサロス湾とマルマラ海の間の狭い尾根を占領してしまえば、第五軍団は全ての陸上連絡から隔離され、海上の連絡は、このサロス湾の狭い部分を占領し、夜間のサーチライトによって補助された英国の長距離砲の危険にすぐさま曝されることになる。12月が始まるまでに敵国の潜水艦がこちらの戦場に注意を向け、マルマラ海に入ればこの分断を完璧なものとする助けになっただろう。危険度に応じて私は三つの集団を編成した。第五・第七師団はサロス湾の奥に配置し、第九師団と新たに編成された第十九師団は半島の南側に、第十一師団を船ですぐに到着した第三師団とともにアジア側に配した。
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鉄勒京二

Author:鉄勒京二
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