8章 ダーダネルス攻防第一部 part3

オットー・リーマン・フォン=ザンデルス
「Fünf Jahre Türkei」英訳 P.61-62

括弧内は管理人の注
管理人は翻訳に責任を持たない

以下訳文
 
 (承前)
 3月26日までに、現存する五つの軍団の配置を完了させねばならなかった。彼らは異なった行動基準を割り当てられ、海岸の全体に広がったが、いくぶんか古き良き時代の国境警備隊にも似ていた。上陸を試みる敵はどこであれ抵抗を受けるだろうが、強力で力に満ちた前進を受けとめるための予備隊は残っていなかった。
 私は各師団に、兵士たちは固まって行動し彼らの担当する海岸の安全がまったく手に負えない状態になった時のみ報告してこい、という旨を命じた。
 待ち構えているものが何であれ、我々の弱兵を考慮すれば成功の鍵は固守ではなく三つの戦闘集団の機動性にある。
 兵士たちが新しい配置に付いた後――彼らは海岸の防護位置に確固として付いたが――その次に必要な段階は、我々が必要とする果敢な行動のために、行軍と訓練によって機動力を身につけさせることだった。兵員の移動をはかどらせるためには能率を上げ時間の無駄をなくし、船は海峡の適した港に配置し、軍勢はすぐにそれぞれの作戦地区の直接の連絡によって要塞に向かう必要があった。この時点で半島を抜ける道はほぼなかった。荷駄用の動物が一列で通れる道と歩道があるだけだったのだ。
 新しい配置場所へは、敵の航空機の目をごまかすため夜間の行軍によって移動させられた。
 第五軍団は一機も航空機を保持していなかった。チャナッカレの僅かな航空機が要塞に格納されており、かろうじてその目的を達することができた。
 これらの兵員訓練を行なっているある日、いくつかの警告がもたらされた。敵国の船がすべての分遣隊に対して発砲し、可視圏に入ってきたからである。驚くべきことに、その船は狙い定めたそれぞれの騎兵ないし歩兵に対し発砲してきたのである。
 最も危険に晒されている海岸線の防御を改善するため、可能な限りの人員を真夜中に防衛工事に当たらせた。 トルコ側が取れる妨害の手段は物資不足によって限られていたが、我々は最善を尽くした。通常の地雷、庭用の柵とともに魚雷の弾頭がその隣で使われ、戦場では木とワイヤーが取り除かれた。特に上陸に適した場所では有刺鉄線が水面下に広げられた。
 敵の新聞は後にしばしば英国パイロットが上陸前のトルコ兵の配置が正確にわからず報告出来なかったと述べていた。これはたぶん性格ではない。つい数週間前から我々が取った新しい配置が敵に察知されていなかったことを鑑みるに、上陸計画はパイロットの古い報告に基づいていたことがわかった。
 3月の末、第五軍団がクム・カレとセド・エル・バールの砦を破壊し、要塞を奪取した。このため、要塞は海峡の内側だけを防御すればよくなった。
 4月24日、第十一師団が敵の小ベシカ湾上陸にともなって機動戦を行った。午後遅く、私はガリポリの街に戻った。
 4月25日午前五時、広範に渡る上陸が敢行されようとしている、ないし敢行されているという報告が相次いで司令部に届けられた。アジア側の先端である南側からは、第十一師団が敵の軍艦と輸送艦が集中し、大小ベシカ湾に上陸の危険があると知らせてきた。
 その少し北、クム・カレでは多くのフランス軍艦の支援砲火の中で上陸してきたフランス兵と第三師団の前衛の兵が激しく戦っていた。
 ガリポリ半島の南端、セド・エル・バールとテケ・ブルヌではジギン・ドレの入り口、とモルト湾で第九師団の前衛が上陸地点を確保しようとする英国の大軍に対処していた。これらすべての海岸線と背後の田舎には恐ろしい英国の大口径の艦砲の射撃が降り注いでいた。
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鉄勒京二

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