梟雄と良君


「父は、英雄と呼べただろうか」
 ある日、ふと政務を終えたシリアの王、ヌールッディーンは呟いた。窓の外には既に月が昇っている。
「珍しいですな」
 侍衛親軍の司令官、サラーフッディーン・ムハンマドは白くなった片眉を上げた。軍務関連の報告を終え、部屋を辞しようとした時のことである。
「ふと思ってな。父がモスルに入る前から仕えてくれている将軍はお前を含めて、もう数人ばかりになってしまった」
 ヌールッディーンは手振りでサラーフッディーンに椅子を勧めた。滅多に無いことだが、こうなると主君の話は長くなる。サラーフッディーンは苦笑して椅子に腰を下ろした。
「名君であったかと言えば、答えは否でしょうな。アタベク殿は戦の人でありましたから」
 サラーフッディーンは語る。領民にとって暴君ではなかっただろうが、特に民政を気にかけるということは無かった。モスクに寄進をしても、新たなモスクを建てようとは思わない、ザンギーはそういう男だったのである。
 サラーフッディーンはザンギーのもとで幾多もの戦功を立てた。彼は、ザンギーのためなら最前線に立つことも辞さない猛将であった。
「カリフと戦い、戦に大義を持たず、裏切りも辞さず。私には出来ない」
 ヌールッディーンは首を振る。
「下らない男だった、と申し上げましょう。しかし、我々はその下らない男に魅せられたのです」
 サラーフッディーンはザンギーのことを思い出す。よく笑い、部下と寝食を共にし、馬鹿騒ぎもやった。理不尽な怒りを向けられたことも一度や二度ではないが、それを補って余りある魅力が、あの男にはあったのだ。
「それにしても、どうされましたか」
「ユースフに尋ねられたのだ。父のことを」
「ほう」
 サラーフッディーンは笑った。知将アイユーブの息子、ユースフ。敬虔ではあるが無愛想で偏屈なヌールッディーンに、何故かなついている。今は十代の半ばだったか。叔父のシールクーフはサラーフッディーンの飲み仲間で、当代の猛将でもあり、サラーフッディーンはシールクーフを見込みのある後継者だと思っている。
 父譲りの果断さを以って行動するヌールッディーンも、何故かユースフには弱い。
「ユースフは優しい。そして敏い。だが、だからこそ父のような人物に憧れるところがあるのだろう」
 考えてもみれば、ユースフが行動を常に共にしているのは知将の父、アイユーブではなく、猛将の叔父、シールクーフである。
 サラーフッディーンは、概ねの事情を察した。
「閣下は守成の人でいらっしゃいます。ですが時に、より大きな事業をなそうとするときに、歴史は梟雄を必要とします」
 ヌールッディーンは頷く。
「父が汚れ仕事を引き受けてくれたおかげで今の私がある。それはよく分かっている」
「ユースフに、より大きな仕事を成させたいのであれば、むしろ梟雄たれと、また閣下の後継者たれと思われるのであれば、良君たれと教育なさるのがよろしいでしょう」
「お前は、どちらかと言えば梟雄だな。『胴斬りのサラーフッディーン』」
「お恥ずかしい。昔の話です」
「私は父よりも、父の上司に似てしまったからな」
 ヌールッディーンは笑った。
「梟雄の時代が終わりを告げるか、より大きく歴史が動くか。それは私にもわからない」
「イルガーズィーもダニシュメンドも、『あのカリフ』も世を去り、アタベク殿が亡くなり、ウヌルも死に、サイフッディーン殿も亡くなりました。既に多くの梟雄たちは、この世にいません。……私も、そう先は長くないでしょう」
 サラーフッディーンはむしろ面白げにそう言った。
「ふふふ、弱気なことを言う。お前が言ったように、私は守成の人間だ。だが……歴史が動くのを見てみたい気もする。父の時代は、それは面白い時代だっただろう」
 ヌールッディーンは少し言葉を切った。
「お前の名、預ってもいいか?」
 サラーフッディーンはその意図を察した。
「ご随意に」
 二人はもう二言、三言言葉を交わして別れた。
 ユースフが、ヌールッディーンから「サラーフッディーン」のラカブを賜るのは、この少し後の話である。
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鉄勒京二

Author:鉄勒京二
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