588年 記事番10 キリジ・アルスラーンの死

イスラム歴588[西暦1192-1193]年 完史英訳2巻P403-405
「キリジ・アルスラーンの死に関する記事」

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以下訳文と要約
 この年、シャアバーン月の半ば[原注:1192年8月27日]、セルジューク家の王族であった(イッズ・アッディーン=)キリジ・アルスラーン・イブン=マスウード・イブン=キリジ・アルスラーン・イブン=スライマーン・イブン=クトゥルムシュ・イブン=セルジュークが、コンヤの街で亡くなった。彼が保持していた領地は、コンヤとその従属領、アクサライ、シヴァス、マラトヤ、そしてその他であった。彼の在位はおよそ29年間だった。彼は素晴らしい統治者であり、大きな威光とあまねき正義の人であり、またビザンツの地へ多くの遠征を行った。彼は晩年になって、その領土を息子たちに分割した。彼らは彼が弱っていると見て、彼に注意を払わなかった。彼の息子のクトゥブ・アッディーンは彼の行動を制限した。
 キリジ・アルスラーンはイフティヤール・アッディーンとして知られている男に王国の管理を代理させることにしていたが、彼をクトゥブ・アッディーンは、事態を掌握して処刑してしまった。彼はさらに彼の父を捕らえ、彼の兄弟が父から与えられていたカイセリを、彼の兄弟から奪取すべくカイセリへ向かい、彼の父を連れて行った。彼はしばらくの間そこを包囲したが、彼の父のキリジ・アルスラーンが逃げる機会を見計らってカイセリに一人で入ってしまった。これを知り、クトゥブ・アッディーンはコンヤとアクサライへ帰り、両方の実権を掌握した。最終的に彼の息子でブルグルー[原注:しばしばブルルーないしウルブルルと表記される。イブン=バットゥータによれば、現在のサフランボルとクラウルスキーと考えられる]のあるじであるギヤース・アッディーン・カイホスローの所に落ち着くまで、息子たちは彼をお荷物だと思っておりキリジ・アルスラーンは息子たちの間をたらい回しにされていた。彼が彼を見た時、彼は喜び、尊敬のうちに彼を受けれ、兵を集め彼と共にコンヤへ進軍し、そこを奪取した。彼は次にアクサライへ向かい、再び彼の父のキリジ・アルスラーンに同行し、そこを包囲した。しかし、彼の父は病となり、そこで彼はコンヤへ引き返し、彼はそこで亡くなり埋葬された。彼の息子のギヤース・アッディーンは、彼の兄弟のルクン・アッディーン・スライマーンがそこを彼から奪取するまで、コンヤに統治者として留まったが、その事件については、神が望み給うならば後に記すだろう。
 信頼できる情報源によれば、彼は彼が何を言っていたか知っていて、これらの地方を訪れたのであるが、私に異なった説明をしてくれた。これを今から記そう。
 キリジ・アルスラーンは彼の王国を生前、彼の息子たちに分割した。彼はトゥカットを彼の息子のルカン・アッディーン・スライマーンに、コンヤを彼の息子のギヤース・アッディーン・カイホスローに、アンカシューリーヤと呼ばれていたアンカラを、彼の息子ムフィー・アッディーンに、マラトヤを彼の息子のムイッズ・アッディーン・カイサルシャーに、アルビスタンを彼の息子のムギース・アッディーンに、カイセリを彼の息子のヌール・アッディーン・マフムードに、そしてシヴァスとアクサライを彼の息子のクトゥブ・アッディーンに与えたという。彼はまた、ニクサールを彼の他の息子に、そしてアマシャーを彼の兄弟の息子に与えいた。これらの王国の大都市は、それぞれ周辺の小さな街を従えていた。後者は前者とは比較にならない。
 キリジ・アルスラーンは後にこれを後悔し、全てを年長の息子のクトゥブ・アッディーンに与えたいと思った。彼のために、彼はシリアとエジプトの統治者であるサラディンの娘を、強い同盟としての結婚のため、求めた。残りの息子たちはこれを危機、これを拒否し反乱を起こした。彼は彼らの上にあった権威を失い、彼らの間を訪問者として行ったり来たりし、しばらく一人のところに留まり、そして次に移っていった。彼はこの繰り返しでコンヤのあるじである息子のカイホスローのところに来たが、彼は彼に会うために出てきて、彼の前で大地に接吻し、コンヤを明け渡し、彼の全件を返上した。彼がカイホスローに言うことには「私は呪わしい息子マフムード[カイセリのあるじ]のもとに行き、奴からカイセリを取り上げるためお前に共に来てもらいたい」。そこで彼は準備をし、彼と共に出発し、カイセリのマフムードを包囲した。しかし、キリジ・アルスラーンは病になり死亡し、そこでカイホスローは帰還し、それぞれの息子たちはそれぞれが掌握した街に留まり続けた。
 アクサライとシヴァスの支配者、クトゥブ・アッディーンがこの二つの街の一方から一方へ移動しようとした時、彼はカイセリを経由したが、そこには彼の兄弟のヌール・アッディーン・マフムードがいた。これは彼の直近の道ではなく、裏切りの心があったにも関わらず、親愛と好意を彼の兄弟に示すためだった。彼の兄弟はしばしば彼の兄弟のところへ寄り道した。ある時、クトゥブ・アッディーンはいつもの主観として町の外で野営しており、彼の兄弟のマフムードが護衛なしで彼の所に来た。クトゥブ・アッディーンは彼を殺し、彼の首を彼の部下たちに掲げてみせた。彼は街を奪いたいと思っていたが、彼の兄弟の部下たちは彼に抵抗した。後に、彼らは彼との同意に応じた。
 マフムードは彼の兄弟クトゥブ・アッディーンに対して警戒し、彼の懸念を呼び起こそうとする有能なアミールがいたが、彼は聞く耳を持たなかった。彼は紳士的で良い人間であり、ヌール・アッディーンの領国で筆頭の位置にいた。クトゥブ・アッディーンが彼の兄弟に殺された時、彼は[この男]ハサンを彼といっしょに殺し、彼を街路に放って犬が死肉を漁るままにしておいた。人々は立ち上がり、言うことには「聞くことも従うことも何もない! この男はムスリムだった。彼はここにマドラサを建て、霊廟を建て、多くの施しをし、すばらしい事業を行った。彼を犬に喰われるままにはしておけない」。そこで彼は彼に銘じて彼をマドラサに埋葬した。キリジ・アルスラーンの息子たちは相変わらず以前のまま争っていた。
 後にクトゥブ・アッディーンが病になり死んだ、彼の兄弟のトゥカットのあるじ、ルカン・アッディーン・スライマーンは、近くのシヴァスへ向かい、その実権を掌握した。そこから彼はカイセリとアクサライに向かった。しばらく留まった後、彼はコンヤに向かい、そこには彼の兄弟のギヤース・アッディーンがいたのだが、奪取してしまった。ギヤース・アッディーンは、シリアへ逃げ、そこからビザンツの地へ向かった。そこで彼に何が起こったか、神が望み給うならば我々は後に記すだろう。後に、ルカン・アッディーンはニクサールとアマシャーへ向かい、そこを奪取した。597年[原注:1200-1201年]彼はマラトヤへ向かい、そこも奪取した。彼の兄弟のムイッズ・アッディーンはその妹と彼が結婚していたアル=アーディル・アブー=バクル・イブン=アイユーブのもとへ向かい、彼の所に留まった。ルカン・アッディーンは彼の下に、難攻で強力だったアンカラを除く彼の兄弟の領地を全て従えた。彼はそうして一軍をそこに配置し夏から冬まで三年間放置し、601年[原注:1204-05年]にその降伏を受け入れた。彼は彼の兄弟たちを暗殺する準備を行い、これは実行に移された。ルカン・アッディーンは彼の兄弟の士を聞くことな死去した。神は彼の血縁関係を無視した行いのゆえに彼の死を早め給うた。
 私はそれぞれの出来事の正確な日付を知らないため、我々はここでは連続した物語形式の出来事としてしか書くことが出来ないのである。
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鉄勒京二

Author:鉄勒京二
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