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備忘録1

セルジューク家成立について簡単なメモ
 テュルク系「セルジューク(セルチュク)」集団について、その起源は曖昧で分からないことが多い。十一世紀頃、グッズ、オグズ、あるいはトゥルクマーンと呼ばれる集団がイスラーム史料に目立つようになるが、そのうちの一派であることは確かだ。漢文史料に見える九姓回鶻と、突厥碑文のトクズ=オグズの関係には諸説あるが、ここでは深く立ち入らない。セルジューク部の祖先は、おそらくは突厥可汗国・ウイグル可汗国の支配下にあった集団だろう。
 彼らは元来中央アジアで遊牧を行なってきた人々であるが、内紛や人口増加の圧力により西走し、イスラーム世界と境界を接するに至ったと考えられる。
 以下、イブン・アル=アシールが『完史』により伝えるセルジューク集団の成立の概略を見てみよう。

 名祖セルジュークの父は名をドゥカークといい、イスラームの地を襲撃しようとしたヤブグ(漢文史料では葉護と表記される。王号の一種で、要は族長と言えよう)に対してそれをとどめようとし、議論の末ヤブグの頭を唐竹割りにした男である。
 このように方針の違う相手に妥協を見せず、長く指導者であったドゥカークであるが、ある時子を授かった。この男子はセルジュークと名付けられた。セルジュークが長じるにつれ、彼に高貴さのしるしが現れ、人々は彼をしたって集まり、またドゥカークも彼に目をかけシャバーシー(軍司令官)の称号を与えた。
 ところが、ドゥカークには王妃がおり、この王妃がセルジュークが人心を集めるのを快く思っていなかった(態度から見てセルジュークの実母ではないのだろう)。その王妃が、セルジュークを警戒し、ドゥカークに対してセルジュークを殺すよう勧めたのである。ドゥカークの返答は曖昧であったが、事を素早く察知したセルジュークは彼に従う者たちや同盟者を引き連れ、ドゥカークの集団から離脱し、イスラームに改宗し、イスラームの地へと入ったという。
 セルジュークは非ムスリムである他のテュルク集団を略奪して暮らし107歳で没した。

 チンギス・カンを筆頭に遊牧民集団の勃興期の伝承にはよくあることで、イブン・アル=アシールが伝えるこの成り行きも、やはり事実であるかどうかは分からない。他の史料との突き合わせで裏が取れないのである。もっとも、何かしら元になる出来事があったと考えることもできる。
 さて、セルジュークにはアルスラーン・イスラーイール、ミーカーイール、ムーサーという息子たちがいた。彼らの頃から、具体的な活動が分かるようになる。

http://homepage2.nifty.com/i-love-turk/reference/kyusei-kaikotsu.htm
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鉄勒京二

Author:鉄勒京二
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