517年 記事番4 シチリア王、イフリーキヤ強襲

イスラム歴517[西暦1123-1124]年 完史英訳1巻P245-246 
「イフリーキヤでのフランクとムスリムの戦争に関する記事」

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以下訳文
 イフリーキヤのあるじ、アミール・アリー・イブン=ヤフヤー(ズィール朝君主)がシチリアの支配者ルッジェーロ(オートヴィル朝シチリア王国のルッジェーロ2世)との仲違いの後、保持していた艦隊を一新し、人員と装備を拡充していることを、我々は既に述べた。彼は信徒の長(アミール・アル=ムウミニーン)マラケシュのアリー・イブン=ユースフ・イブン=ターシュフィーン(ムラービト朝君主)に、シチリア島を攻撃する同盟を求めている旨を書送った。ルッジェーロはこれを知り、彼は行なっていたことのいくつかを取りやめた。
 515年[原注:1121年]に、アリー[・イブン=ヤフヤー]が死去し、我々が既に述べた彼の息子のアル=ハサンが後を継いだ。516年[原注:1122年]のはじめに、信徒の長はカラブリアの浜のニコテラに向けて艦隊を派遣した。ルッジェーロはアリーがその背後にいることを疑っていなかったので、ガレー船とその他の船の建造と出来る限り多くの兵員の徴募に並々ならぬ熱意を示した。彼はイフリーキーヤやマグリブの他の地域に向かう船に出航禁止令を出した。この結果、空前の大艦隊、一説には三百隻を彼は編成した。
 イフリーキヤのアミール・アル=ハサン・イブン=アリーとの連絡が絶たれた後、マフディーヤへ敵軍が送られることが予想されたので、彼は戦闘のための物資を準備し、城壁を補修し、兵士を招集するよう命じた。膨大な数の地元民とアラブたちが彼の所へ集まってきた。
 517年ジュマーダ1月[原注:1123年6-7月]、一隻に1000人と1匹の馬を載せたフランクの艦隊300隻[原注:正確な数ではなく、膨大なことの比喩]が出航した。しかし、彼らがマルサー・アリー[原注:「アリーの浜」、別名マルサラ]を出発する前に、突風が彼らを吹き散らし、多くの船が沈んだ。生き残った人々はカウサラの島[原注:現在のパンテレリア]に上陸し、そこを征服して人々を殺し、捕虜を取って略奪を行った。そこから彼らはイフリーキヤに到着し、ジュマーダ1月の末[原注:1123年7月末]までにアル=ディマースとして知られる砦に向かった。そこにいた一群のアラブ兵が戦いを繰り広げた。アル=ディマースは海を望み、二の丸を中心に持つ難攻不落の要塞であった。
 アル=ハサンは彼の持っていた兵力をフランクに対抗するため派遣し、その間彼はマフディーヤ防衛のためそこに分隊とともに残っていた。フランクはアル=ディマースを奪取し、今度はムスリム軍に包囲された。数夜の後、内側の砦のために戦いが激化した。夜間にムスリム軍は大地を揺るがすほど大声で叫び、「アッラーフ・アクバル」を唱えた。恐怖がフランク達の心を打ち、彼らはムスリム軍の攻撃がいまに来るに違いないと考えた。彼らはガレー船に殺到し、自らの手で自分たちの馬を殺した。しかし、ムスリム軍は四百頭の馬を戦利品として手に入れた。一頭の馬だけがフランクから逃れた。ムスリム軍は残されたフランクたちで、船に登ることが出来なかった者を全て殺した。
 フランクたちが船を出発させた後、彼らは8日間留まり、陸に上陸することは出来なかった。彼らはアル=ディマースにいた指揮官の運命に絶望を感じ、出航していったが、その間ムスリム軍は「アッラーフ・アクバル」の声と侮辱で彼らをなじっていた。ムスリムの軍隊がアル=ディマースの砦を数えきれないほどの大軍で包囲し続けたが、彼らは堅固で強力であったため、そこをとることができなかった。フランクの守備隊に水がなくなり、日夜休みなく続く戦いに疲労困憊するに至って、彼らは門を開いて出てきた。彼らは最後の人々を殺した。これはこの年のジュマーダ2月15日の水曜日[原注:1123年8月8日]のことであった。彼らの城塞占領は16日間のことであった。
 フランクが敗れ帰った時、アミール・ハサンは全土に戦勝の知らせを出した。このエピソードについての多くの節の詩が詠まれたが、我々はそれに飽きるだろうことを恐れて、ここには記述しない。
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鉄勒京二

Author:鉄勒京二
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