世界史の中の遣唐使

 奈良から平安時代にかけて、日本が遣唐使を送って中国の文物を取り入れたのはまあ周知の事実ですが、当然当時の唐朝に朝貢したり冊封を受けたりしてたのは日本だけではありません。
 753年、当時の皇帝は開元の治の時期も終わって若干ダメ君主になりつつあった玄宗。その玄宗臨御の朝賀で、遣唐副使の大伴古麻呂は、日本の席次が新羅より下であったことに抗議してゴネて日本の席次を繰り上げさせます。大人気ないなあと思う一方、日本にとっては外交上の立場を向上させる機会ですからまあ必死な面もあったのかもしれません。
 さて、その出来事を記した『続日本紀』の記述をまとめると、変更後の席次は以下のようになります。

  皇帝(玄宗)
西の席    東の席
1.吐蕃   1.日本
2.新羅   2.大食

 吐蕃というのは当時ティデ・ツクツェン王と将軍タラルコンのもとで勢力を広げつつあったチベットの王朝、大食はご存知アッバース朝で、この当時のカリフは初代のサッファーフことアブルアッバース。
 よくアッバース朝の使者が承知したなあという気もするのですが、アッバース朝くらいの大国になると逆に中国での席次なんてどうでもよかったのでしょうか。
 唐はそろそろ落ち目かという時期ですが、吐蕃はこの後ティソン・デツィン王のもとで長安を占領するほどの拡大を見せますし、アッバース朝は建国されたばかりで尚武の気風があり精強です。このメンツの中でよく席次変えろなんて言えたな、日本、という気がしてしまうのは果たして管理人だけか。この時は結果的にこれで収まったものの、外交音痴は昔からなのかもしれません。

 ついでに言っておきますと、当時中国で玄宗に取り立てられていた阿倍仲麻呂さん。日本人でありながら科挙に合格した逸材ですが、750年のタラス河畔の戦いで唐軍を率いてカルルクの裏切りによってアッバース朝のズィヤードに負けて帰ってきた高仙芝と知り合いだった可能性があるそうで。
 で、仲麻呂さん、古麻呂らが来たこの遣唐使について帰ろうとするのですが、船が難破。安南(ベトナム)に流されてそのまま安南都護府の長官になります。
 元朝時代に亡命ベトナム人の黎崱によって編纂された『安南志略』の九巻に出てくる朝衡ってのはこの阿倍仲麻呂です。

 こうしてみてみると、やはり極東の島国といえども世界史とまったくの無縁ではないわけで、日本史やってる時に、前近代の対外関係は半島と渤海と中国だけ見てりゃいいんだよという話ではないわなあと思うのでした。


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鉄勒京二

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