バイバルス伝 1.モンゴル襲来、キプチャク草原

以下詳細
■隻眼の英雄王
 中世イスラーム圏の英雄と言えば真っ先に思い浮かべられるのはやはりサラディン(サラーフ=アッディーン:1137/8-1193)だろう。エジプトとシリアを統合し、十字軍に対し反撃に出てイェルサレムを奪回した騎士道精神に富んだアイユーブ朝のスルタンである。彼はヨーロッパでも人気が高く、日本でも比較的よく知られている(詳しくは、佐藤1996)。
 一方、ザーヒル・バイバルスはどうか。一昔前に比べればよく名前を見かけるようになったが、日本での知名度はサラディンに比べれば低い。しかし奴隷出身でありながらモンゴル軍を破り、十字軍と戦い、エジプトのスルタンにまで上り詰めた。やはり彼は英雄と呼ばれるに相応しい武人だった。
 外見の特徴としては、長身で肌は黒ずみ、目は青かったという。稀代の軍事指導者であると同時に、非凡な政治家でもあった。歴史を好み「歴史を聞くことは経験に勝る」との言葉を残している。同時代の年代記は彼をサラディンに勝るとも劣らない英雄として書いていた。
 イブン=アブドゥルザーヒル(?-1292)は『バイバルス伝』でこのように書く。「バイバルスは七年間異郷の地にあったが、少なきに耐え、決して仲間を見捨てることはなかった」。
 ただ、前半生は苦難の連続でもあった。モンゴルに襲撃され捕虜となり、奴隷商人に売られ、先天的に患っていた片目の白内障のため奴隷時代に買い手がつかなかったと伝えられている。ようやく彼を買ってくれたのは、アイユーブ朝に仕えるアミール、ハマーのアイダキンことアイダキン・アル=ブンドゥクダーリーであった。

■動乱前夜
 バイバルスの経歴をたどる前に、その時代の状況を見ておこう。バイバルスの生年は諸説あるが、いずれにしろ1220年代と考えられる。当時のユーラシア世界はいかなる状況にあったか。
 まず、モンゴル高原から中央アジアにかけては、チンギス・カン(?-1227)がその勢力を拡大し、既に世界帝国イェケ・モンゴル・ウルスの征服活動は始まっていた。
 中東においては、アッバース朝がセルジューク朝の傀儡から脱し再軍備化を進め、イラク一州ではあるものの、英明なるカリフ、ナースィル・リ=ディニッラー(位1180-1225)のもとで世俗的支配権を再確立し、わずかながら往年の栄光を取り戻しつつあった。
 また、この時期セルジューク朝に代わって中東の覇権を握ったホラズム・シャー朝はチンギス・カンの攻撃により事実上崩壊し、最後のスルタン、ジャラール=アッディーン・メングベルディー(位1220-1231)はインドへ逃れ再起を図ろうとしていた。ジャラール=アッディーンは、チンギス・カンの西征において、パルワーンで唯一モンゴル軍に敗北を味あわせた男でもある。彼の甥が後のマムルーク朝の第四代スルタン、クトゥズだ。
 少し時代は下るが、ヨーロッパにおいてはフリードリヒ2世(位1215-1250)の没後、神聖ローマ帝国では大空位時代が現出し、代わって浮上したのはフランス王国であった。フィリップ2世(位1180-1223)のもとで中央集権化を進めたフランスは、ヨーロッパの一大強国となりつつあったのである。
  バイバルスの桧舞台となるエジプトは、英雄サラディンの建てたアイユーブ朝のもとで、やや不安定ながらも繁栄を享受していた。スルタン、アル=カーミル(位1218-1238)はカーリミー商人を保護し、また勧農策も積極的に推進した。彼の子が、バイバルスの上司となるアル=サーリフ(位1240-1249)であった。また、シリアの沿岸には第一回十字軍によって建てられた十字軍国家が、アイユーブ朝の圧力に耐えながらかろうじてへばりついていた。
 
■バトゥ西征
 バイバルスは現在のウクライナ、キプチャク草原に遊牧していたテュルク(トルコ)系遊牧民、クマンの出身であると言われる。この時代のバイバルスは具体的なエピソードが欠けるため、少々退屈かもしれないが時代背景を追っていくことにしよう。
 当時、モンゴルは第二代オゴデイ・カアン(「カアン」は一人しか名乗れない皇帝号、「カン」は地方君主や太守で一段劣る)のもとで膨張を続けていた。1236年、チンギス・カンの長子ジョチの子、バトゥ(ジョチウルスのカン:位1225-1256)率いる西征軍はウラル河を越えてキプチャク草原に入った。史上名高い「バトゥ西征」である。ルーシを駆け抜け、ハンガリーのパンノニア平原に侵入、ブダを陥れ、またバイダル率いる別働隊はポーランドを席巻した。
 この西征軍は、オゴデイの死によって取って返さざるを得なくなり、東欧の占領地を放棄することとなるが、オゴデイの死さえなければモンゴルの馬蹄は大西洋に届いただろう。
 この過程で少年バイバルスはモンゴルに捕らえられ、奴隷商人に売られたと考えられる。クマンは首長コチャン・カンのもとで果敢に抵抗するものの、及ばなかったのだ。
 バトゥにはベルケという名の弟がおり、彼は対クマン作戦で大量の捕虜を取ったことが記録に残っている。後にバイバルスと浅からぬ因縁を持つことになるベルケだが、想像をたくましくすれば、既にこの時バイバルスと顔を合わせていたかもしれない。
 ともかくも、バイバルスはアナトリア(現トルコ)のシヴァスで奴隷商人に売り渡され、シリアへと連れて行かれることとなる。

■イスラーム世界の軍事奴隷
 先にバイバルスが奴隷商人に売られた、と書いた。では、イスラーム世界での奴隷とはどのような存在だったのだろうか。奴隷にも「アブド」「ラキーク」「マムルーク」など複数の呼び方がある。詳しくは佐藤次高『マムルーク』を参照してもらいたいが、バイバルスが該当するのはやはり「マムルーク」と呼ばれた軍事奴隷であった。
 マムルーク制度の起源は、最近の研究では中国の仮子・義児制と同じく、ソグドの従士(チャカル)制に求められるという。要は家の子郎党であり、義理の親と子の関係に近い。子が親に尽くすように、マムルークは主君に忠誠を尽くすのである。
 マムルークに関しては通常、奴隷という語から想像されるよりも社会的地位・自由はあったといってよい。もちろん奴隷であるので売り買いされるのだが、主人の許可があれば結婚もでき、また出世して地方太守となる例もあった。11世紀頃、現在のアフガニスタン周辺を支配したガズナ朝や、10世紀にエジプトを支配したトゥールーン朝はマムルーク出身者が建てた王朝である。
 イスラームでは奴隷を積極的に解放した者は天国へ近づけるという考えがあることもあり、彼らは奴隷身分から解放されることも多かった。その場合、主人との主従(ワラー)関係は維持され、この主従関係と忠誠が、マムルーク軍団を編成するにあたって役立ったと考えられている。
 「マムルーク」とは何か、という問いには、ひとまず軍事奴隷と観念されるが、実態は武士として主君に忠誠を誓う郎党であると考えればよい。

■エジプトのスルタン、梟雄アル=サーリフとバフリーヤ軍団
 バイバルスがマムルークとして売られた先は中東イスラーム圏、英雄サラディンが建てたアイユーブ朝支配下の地域であった。
 この時のアイユーブ朝のスルタンはアル=サーリフ。先代アル=カーミルがスーダン出身の女奴隷に産ませた子である。父の存命中はアイユーブ朝版図の北限に近い北イラクのカイファ城に赴任していたが、兄弟の無能なアル=アーディル2世が即位すると、権謀を尽くしこれに取って代わった。
 サーリフは冷酷かつ学問嫌いであり、治世は過酷であったと伝えられ、著名なマクリーズィーを筆頭として史家にはあまり評判がよくない。しかし、有能な人物であったことには間違いがなく、記憶力は抜群であり、家臣の不正な蓄財を許さず、また旧世代のマムルーク軍団をその豪腕で解体している。約束は必ず守り、軍議に際しては必ず諸将の意見を聞いた後にしか裁断を下さなかったともいう。梟雄めいたところのある人物だったと言えよう。
 彼はバフリー・マムルーク(バフリーヤ)というマムルーク軍団を新たに創設した。バフルとはアラビア語で海のことであり、転じて海のように巨大であったナイル河を指す。バフリー・マムルークの兵舎がナイルのローダ島にあったことからこう呼ばれる。
 一説に、彼はある危機に際して、他のアミール達が彼を見捨てて逃げたにも関わらずテュルク系マムルークは彼を最後まで守ろうとしたという経験から、マムルーク軍団を優遇するに至ったという。確かにマムルークの忠誠心は日和見がちな各地の太守よりも確固としたものであり、このような経験があってマムルークを重用したという理由も考えられなくはない。
 しかし、彼の父カーミルは一万二千騎のマムルークを保有しており、既にマムルーク軍団の編成はスルタンの習慣となっていた面もある。
 さて、サーリフは、騎馬遊牧民、特にテュルク系のキプチャク人のマムルークを大量に購入して訓練していた。彼らは騎射に長け、軍事力として特に有用だったからである。当時の奴隷市場はモンゴルの侵入によって敗者の奴隷で唸っていたこともあり、奴隷の値崩れが起きていた。軍事力を欲する君主としては、マムルークを購入しやすい環境にあったと言えるだろう。
 ところでこれは余談だが、歴史家イブン・ワースィルは年代記『悲しみの除去』の中で、「サーリフはトルコ人や契丹人のマムルークを購入し、軍隊に採用すると、彼らに上等のフブス(パン)、つまりイクター(特定の領地の徴税権)を与えた」と書いている。この「契丹人」が文字通りの契丹人なのか漢人なのかは定かではないが、金や西遼に対する攻撃によって捕虜となった契丹人・漢人たちはエジプトまで売られていたのかもしれない。となると、バイバルスの同僚に契丹人あるいは漢人がいた可能性もある。
 契丹は耶律氏によって遼朝を建て、北中国一帯を支配し、金朝によって遼朝が滅ぼされた後は中央アジアに西遼を建てたモンゴル系の遊牧民族だが、当時のユーラシア世界が一体化して動いていたことがよくわかるエピソードである。
 話を戻そう。マムルークたちはイクターを与えられる時に奴隷身分から解放され、有能な者は軍団を指揮するアミール(司令官)に抜擢された。
 バイバルスもやはり、このようなマムルークの一員となるのである。

■ハマーのアイダキン
 バイバルスは奴隷商人によってシリアのハマーに連れていかれ、一度そこでこの街の太守マンスールに売却される。しかし肌が褐色との理由で返却されてしまう。今度はシリアの大都市ダマスカスへ向かうが、ここで金銀細工師に買い取られるものの、片目の白内障を理由にふたたび返却される。
 再度ハマーに来たバイバルスは、そこでようやく買い手を見つけることとなる。ハマーのアイダキン、すなわちアラー=アッディーン・アイダキン・アル=ブンドゥクダーリーであった。彼の手でバイバルスは奴隷身分から解放され、また彼の名を賜りバイバルス・アル=ブンドゥクダーリーと名乗る。「ブンドゥクダーリー」とは弓兵のことであり、恐らくアイダキンは強弓ないし狙撃で知られたアミールだったのだろう。
 しばらくの後、1246年、バイバルスは主人アイダキンに従い、アイユーブ朝の首都カイロへと赴く。しかし、突然アル=サーリフはアイダキンの全財産を没収してしまう。軍事費の調達、兵員の確保、スルタンの直轄地の増加のためなど理由はいくつか考えられるが、アル=サーリフの性格を考えるとそう珍しいことでもなかったのではないだろうか。
 財産と一緒に郎党も没収されたため、バイバルスはスルタン、サーリフに仕えることとなる。ここでサーリフは彼をバフリーヤに編入し、スルタンの衣装係(ジャムダール)に抜擢したのである。衣装係ということはつまりスルタンの側仕えであり、何かしらの相談を持ちかけられることもあっただろうし、いざというときには護衛の役割も果たしただろう。こうして、バイバルスの出世街道が開かれた。
 ちなみにアイダキンはその後、不遇ではあったが特に処刑されるなどはしなかったようである。

■同僚たち
 バイバルスはバフリーヤに編入されたが、このバフリーヤで彼と協力して事に当たるようになる仲間たちを得ることが出来た。そのうち、重要な二人を紹介しよう。

○ファーリス=アッディーン・アクターイ
 バフリーヤ全軍の司令官であり、バイバルスの上司にあたる。
 第二代アイバク時代にアラブ遊牧民の叛乱鎮圧などに活躍したが、専横が過ぎてアイバクの命を受けたクトゥズに暗殺された。殺害されるまではバフリーヤの実権は彼が握っていただろう。
 そのラカブから察するに、騎士として名の知れた人物だったのだろう。

○サイフ=アッディーン・カラーウーン・アル=アルフィー
 バイバルスの同僚であり、後に腹心となる。バイバルスより少し年上であったと考えられる。
 彼は1000(アルフ)ディナールで購入されたため、アルフィーとあだ名されたと伝えられている。ちなみに通常のマムルークの値段は50-70ディナールであった。
 後にマムルーク朝の第七代スルタンとなるが、エジプトに来た時に既に成人していたため、あまりアラビア語を話すことができなかったという。
 バイバルスのもとでモンゴル軍やキリキア・アルメニア王国との戦いに従軍し、戦績を上げた。

 また、バフリーヤのマムルークの武将には他にもアミール・バイサリー(バイバルスと一緒に売られた)や、シャムス=アッディーン・サンカル・アル=アシュカル(後に即位したカラーウーンと対立し、ダマスカスで自立する)らの名前が記録されている。
プロフィール

鉄勒京二

Author:鉄勒京二
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