バイバルス伝 2.聖王十字軍、マンスーラ

以下詳細
 
■風雲危急
 1248年夏、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の密使ベルトーがエジプトを訪れた。フリードリヒ2世はヨーロッパの大国の君主としては例外的に親イスラームの立場を取っており、サーリフの父、カーミルとも友人と呼べる仲であった。サーリフはそれほど父カーミルとの関係が良かったわけではないようだが、現実主義者のフリードリヒはサーリフとも書状をよく交換していたのである。
 マクリーズィーによれば当時、肺の病(結核ないし肺癌?)に侵されていたというサーリフは、病床でその親書を受け取った。内容はよりによってフランス王ルイ9世が聖地イェルサレムを奪回するため、十字軍を率いて出発したとの報せである。
 ルイが集めた兵力は騎士二千五百人、歩卒一万人。非戦闘要員も相当数いただろうから、連れ立っていったのはこれ以上の数ということになる。三人の弟、ロベール・ド=アルトワ、シャルル・ド=アンジュー、アルフォンス・ド=ポワティエも引き従えての大遠征であった。
 彼らはイェルサレムではなくエジプトを狙う。これは1218年の十字軍で先例のあることで、大穀倉地帯のエジプトを抑えることによってイェルサレムを自然に落とせると考えたのだ。

■聖王ルイ、モンゴル
 先にも書いた通り、フランスはヨーロッパの強国としての地歩を固めつつあった。ルイ9世は内政に明るく、各地の不満を抑え、フランス国王の地位を確固たるものとしていた。しかし、どうしたわけか彼はいささか信仰に突っ走りすぎるところがあり、後に「聖王」と諡される。その彼が、神によって病が快癒したという経験から、教皇やフリードリヒの制止も聞かず、今回の十字軍遠征を強行する意志を固めてしまった。
 ルイは一度キプロスへ寄港し、休養を取る。この時、モンゴルの将官エルジギデイからの使者がルイのもとを訪れたという。エジプトの頭越しで、西欧とモンゴルという東西の強敵の接触が行われていたのである。
 二人のネストリウス派キリスト教徒の使者によってルイに手渡された書簡は、ペルシア語で記されており、キリスト教徒に好意を持っているような内容だった。当時のモンゴル皇帝グユクがネストリウス派のキリスト教に好意を寄せていたのは事実である。
 ルイはイスラーム勢力を東西挟撃するという希望を持ち、正式に使者を送ることにした。この使者は、二年後、の1251年、ルイがエジプト攻撃に失敗しシリアに滞在している頃に帰ってくるのだが、既に皇帝グユクは死去しており、モンゴル帝国では後継者争いが紛糾していたため、キリスト教国との連携どころではなかった。こうしてイスラーム世界にとっては幸運なことに、東西からの挟撃はならなかったのである。

■宣戦布告
 時間を戻し、1249年6月4日、ルイは十字軍を率いてエジプトの海港都市ダミエッタ近郊へ上陸した。
 双方の君主は――とは言ってもサーリフは瀕死と言って差し支えない状態だったのだが――宣戦布告を行う。
 まず高圧的な態度に出るルイ。
「余は既に幾度か警告を発したが、汝は真面目に受け取ってはいない。よって、我が覚悟は決まった。余は汝の国土を攻めるだろう。汝が十字架への忠誠を誓おうとも、我が意は変わらぬ。わが軍は数多きこと海辺の砂のごとく山野を多い、運命の剣をかざして進む」「我らは立ち向かう汝らを家畜のごとく追い払い、男どもは殺し、女どもは後家とし、娘子どもは引っ捉えた。このことから、汝は何も学ばぬのか」
 対してサーリフも病身ながら負けてはいない。
「物を知らぬものだ。汝らが占領した土地を、我らがすでに、また先日も回復したことを忘れたか。汝らにもたらした損失を忘れたか」「汝の敗北は眼前にあろうぞ。無謀な戦に入り込み、いずれほぞを噛むことになろう」
 ルイが述べているのは一年前、当時スペインにあったイスラーム王朝、ナスル朝に対するキリスト教国の軍事的成功のことであると考えられる。で、あればサーリフが「者を知らぬ」と評したのももっともである。何故ならばナスル朝とアイユーブ朝は利害関係のほとんどない全く別の勢力であるためだ。イスラーム圏を十把一絡げに考えているルイに、現地の事情も知らぬ奴、と思っても無理は無いのである。むろん、イスラーム世界全体を見渡すならその後退は痛手であるに違いないが、梟雄たるサーリフにしてみれば他所の国のことなど知った事ではないだろう。それにサーリフ自身が述べている通り、彼はキリスト教徒からやはり領土を奪っているのである。

■ダミエッタ陥落、占領
 しかし、緒戦では十字軍は圧勝した。6月5日、ルイはダミエッタ攻撃を敢行する。ダミエッタはカーミル時代からの古参のアミール、キリスト教側のジョワンヴィルも「異教徒の世界ではもっとも誇り高き人物」と伝えるファクル=アッディーン・イブン=アル=シャイフが宿将として緊急的に赴任していた。彼はカーミル時代にイェルサレム譲渡の交渉をフリードリヒ2世との間で成功させたことからも分かるにように、卓出した外交官ではあったが、残念なことに武将としてはそれほどの能力は無かった。
 ファクル=アッディーンはその夜、街を放棄した。ルイに従って十字軍に参加していたジョワンヴィルは、ファクル=アッディーンは十字軍の到来を告げるため三度伝書鳩を送ったが、スルタンが病身であるため一度も返信が届かず、スルタンが死去したと勘違いした彼はダミエッタを放棄したのだ、と伝える。
 これが事実か否かはともかく、人選ミスは否めない。しかし少なくとも、ダミエッタの守備隊はこの街を明け渡すに当たって、糧秣に火をかけることだけは忘れなかった。
 ダミエッタを占領したルイは、これからナイルが増水期に入り足を取られる危険性があることを知っており、六ヶ月ほどダミエッタに滞在する。その間、モスクを教会に改装するなど、この街を拠点として使用する構えを見せている。
 ダミエッタ占領のわずかの後、スルタン配下の騎兵団が陸側から十字軍を包囲したという出来事をジョワンヴィルは伝えている。この戦でオートシェルのゴーシェが戦死したが、この騎兵団が、街を放棄した後カイロへ撤退する前のファクル=アッディーンの部隊であったかは分からない。

■マンスーラ、梟雄死す
 サーリフは既に足も動かなくなった病身を押してマンスーラに陣を構えるべく動いた。ダミエッタ陥落からわずかに4日後のことである。マンスーラはカーミルが建設した都市で、ここを抜かれればカイロまでは僅か30キロの距離しかない。ナイルの増水期、サーリフはこのマンスーラの防備を固めることに専念した。
 また一方、十字軍にイェルサレムの割譲と休戦を持ちかけてもいる。サーリフの父カーミルの時もそうであったように、このイェルサレム割譲という条件が提示されるたびに歴史家は「彼らは本当にイェルサレムを割譲する意志があったのか?」と問うが、この場合、その問いは無意味である。何故ならば、ルイはこの後、エジプトから叩き出されるからだ。
 さらに彼は、ダミエッタ守備に責任のあった武将50人を一気に処刑している。いささか過激な処置だが、士気の低下を鑑みての行為だっただろう。ただ、理由は不明だがファクル=アッディーンは刑を免れている。
 半年の後、ナイルの増水が引いてゆくのを確認したルイは、カイロへ向け、ナイルの右岸に沿っての進撃を開始した。1249年11月20日のことである。
 二日後、22日の未明、エジプトのスルタン、サーリフは逝去する。波乱に満ちた人生は、まさに波乱のさ中で終わることとなった。

■王妃シャジャル・アル=ドゥッル
 サーリフの正妃はシャジャル・アル=ドゥッル(?-1257)という女性である。彼女が、サーリフ没後のエジプトの総指揮を執ることとなる。出自はテュルク系、アルメニア系など諸説あるが、後にテュルク系の多いマムルーク達の支持を取り付けたことを考えるとテュルク系の可能性が高い、との見解を支持したい。
 彼女はもとはアッバース朝最後のカリフ、ムスタアスィムの宮廷にいた女奴隷だった。彼女の名は「真珠の木」を意味するが、おそらくは本名ではなくカリフから賜った名だろう。いつ頃かは不明だが、カイファ城時代のサーリフにカリフからの下賜品として与えられたのがサーリフとの出会いだった。
 彼女はサーリフとの間に一子ハリールをもうけているが、この男子は幼くして死去してしまっている。
 伝記作家のサファディー(?-1363)によれば、類まれなる美貌を持ち、聡明で、サーリフの全幅の信頼を受けていたとのことである。
 さて、サーリフの死後、シャジャルは軍の士気の低下を恐れてスルタンの死を隠し、夫の筆跡をまねて命令書のサインを続けた。さらに老侯ファクル=アッディーン、バフリーヤの司令官アクターイら数人の重臣を呼び寄せ夫の死を告げた。
 ファクル=アッディーンは臨時で全軍の指揮をとることとなり、アクターイはサーリフの長子、次のスルタンとなるべきトゥーラーンシャー(母はシャジャルではない)を呼び寄せるべくカイファ城に走る。

■ファクル=アッディーン死去、バイバルス出撃
 ルイはどうやら巧妙に隠されたサーリフの死を見抜いていたらしいことが史書から伺われる。前衛に勇猛で恐れられたテンプル騎士団を置き、一路勇躍、ナイルに沿って進撃する。幾度かの戦闘が行われたが、ルイはマンスーラまで到着することに成功した。
 流石にここを抜かれれば後がないこともあって、エジプト軍も必死であり、マンスーラをめぐる戦線は膠着した。河のそれぞれの岸に、十字軍とエジプト軍が陣張り、動くに動けぬ状況になったのである。
 制「河」権を握っていないルイは堰を築いて道を確保しようとするが、エジプト軍は堰の先の川岸を崩して川幅を広げ、それを妨害する。さらにエジプト軍の一部はファクル=アッディーンの命により、後方から迂回して十字軍陣営に奇襲をかけた。これに業を煮やしたルイは、陣営の後方に塹壕を掘って防備を固める。
 この時、バイバルスはバフリーヤ全軍の指揮を執っていた。司令官アクターイがトゥーラーンシャーを呼び寄せるべくカイファに向かっているところであり、不在だったためである。当時、バイバルスはまだ20代であった。手練の多いバフリーヤの中で、緊急的な代理であるとは言え異例の抜擢と言えよう。
 ともかく、六週間の間戦線は動かなかった。これが動くのは一人の土着キリスト教徒(コプト教徒)の密通によるためである。1250年2月8日早朝、王弟ロベールはこの内通者によってもたらされた情報をもとに、地元民しか知らぬ浅瀬を騎馬で駆け抜け、奇襲か強襲か、城外の敵陣営へ突撃をかけた。
 前線に出ていた総司令官ファクル=アッディーンは耳を疑う。ともかくも状況を把握することが彼の義務である。入浴中であったが鎧兜もつけず、馬に飛び乗ったところで十字軍兵士に殺された。しばしば皇帝フリードリヒ2世の宮廷を訪れ、フリードリヒから騎士叙任を受けたという噂があるほどの西洋通であった彼にしてみれば、無念の最期であったに違いない。
 しつこいようだがマンスーラはカイロ防衛にとって最期の砦である。絶体絶命の危機に至りバフリーヤ、就中バイバルスは文字通り獅子奮迅の活躍を見せる。
 奇襲をかけたロベールはテンプル騎士団と先陣争いをするような形で、兄王ルイが到着するのも待たず、撤収する兵を収容するために開かれていた城門から街へとなだれ込む。本来、先陣を切るのはテンプル騎士団だったはずなのだが、猪武者のロベールはそれを無視したのだ。
 突っ込むは街の隘路、バイバルスらバフリーヤはロベールを待ち受け、すぐさま矢の雨をあびせかけた。ロベールも司令官としては無能であれ一人の騎士としては勇猛無比な男であった。しかし奮戦虚しくロベールはバフリーヤのマムルークに討ち取られることとなる。
 ルイも弟の後を追って急ぎ対岸へと渡っていたが、エジプト軍に阻まれ進退窮まる。
 戦線はまたも膠着するが、今回は明らかに十字軍側に不利な状況となっていた。

■ルイ、捕縛される
 この時になってようやくバフリーヤの長アクターイが新スルタン、トゥーラーンシャーを引き連れて帰還する。既に2月、カイロですれば良いものを、形式を整えるためにダマスカスで即位を済ませ、さらに断食明けの祭りまでしてからの到着であった。カイファ城を出て既に一月半が過ぎている。実はこれには背景があるのだが、それは後述しよう。
 トゥーラーンシャーは一般的に無能の烙印を押されがちな実質上最後のアイユーブ朝スルタンであるが、戦術的センスはやはりサラディンの一族であるだけあって、平均以上のものは持っていたようだ。
 折りしも、十字軍陣営ではマンスーラ戦で戦死した十字軍兵士の死体が腐り、疫病が流行し始めていた。
 トゥーラーンシャーはこの機に乗じ、ガレー船を陸路で運び、ダミエッタとマンスーラの間に浮かべた。十字軍の本営と後方のダミエッタの間の連絡と兵站を断つためである。
 兵糧攻めに加え、バフリーヤを始めとするエジプト軍の精鋭の攻撃に疲れ果てた十字軍は、3月初め、ようやく和議をエジプト方に提案する。条件は、ルイが占領しているダミエッタと、エジプト側が占領しているイェルサレムの交換。すなわちサーリフが示した条件と同じであった。しかし、既にそのサーリフは死去しており、状況は圧倒的にエジプト側に有利になっている。和議はならず、十字軍は苦しい撤退戦を開始する。
 しかしエジプト側のガレーは十字軍側の船団の多くを沈め、撤退をほぼ不可能とする。4月6日、ファリスクールにおいて、ルイは最後に封鎖を突破しようと攻撃をかけるが、バフリーヤを含むマムルーク部隊の攻撃の前に敗れ、とうとう捕虜となった。
 イブン・ワーシルは「サーリフ王のバフリー・マムルークは、この戦闘においてその勇気と豪胆さをいかんなく示した。フランク(十字軍のこと)側に甚大な被害を与え、勝利に重要な役割を演じたのは、バイバルス率いる彼らであった。まさに戦士の鑑と言う他ない」と書いている。
 余談だがこの時、後に聖王ルイ伝を著すジョワンヴィルも捕虜となり、フリードリヒ2世の親戚(実際はまたいとこ同士の子であるが、母親が本いとこであると言った。少し近くして助かる確立をあげようとしたのだろうか)である、と言って助けてもらっている。

■バイバルスらのクーデター
 ルイはマンスーラの有力者イブン・ロクマーンの邸宅に軟禁されたが、この邸宅は21世紀の現在でも残っており、見学することができる。
 トゥーラーンシャーはルイに身代金として80万ビザンツ貨うち半額を前払いとして、その支払いを要求した(リーヴルで40万)。
 しかし、この直後にエジプトで動乱が発生する。
 トゥーラーンシャーは、亡父と同じく政権の基盤をエジプトに持っていなかった。ダマスカスで一見のんべんだらりんとしてたのもこの状況を克服する下準備のためだった。新しく基盤を築くためにカイファ城時代からの廷臣を高位につけ、バフリーヤの将士を次々と投獄する。一夜、酒席で酔ったトゥーラーンシャーは刀を抜いてろうそくを次々と切り落とし、「バフリーヤの武将達なぞこのろうそくのように処分してくれる」と口走ったとも伝えられる。
 時ここに至り、マムルークは蜂起する。バフリーヤの長アクターイを筆頭に、バイバルス、カラーウーン、そしてこの男が曲者なのだが、アイバク・アル=トルコマーニー(バフリーヤではないが、サーリフのマムルークだった)らおよそ180騎が徒党を組み、トゥーラーンシャーを襲撃したのである。裏では、継子トゥーラーンシャーから国庫の財産を渡せと脅されるなど悪しざまに扱われたシャジャルの意図もあった。
 ファリスクールで会食の後、バイバルス本人がトゥーラーンシャーに斬りつけた。トゥーラーンシャーは逃げ、塔に立てこもった。バフリーヤの兵士が降りてくるよう催促するが、トゥーラーンシャーは聞き入れない。そこで彼らは塔にギリシア火(一種の原始的なナパーム弾)で火を付けた。トゥーラーンシャーは慌てて飛び降り、河へと逃れ、「スルタンの座は好きにして良い! カイファへ帰らせてくれ!」と叫ぶが、結局河の中で止めを刺されて死亡した。止めを刺したのは、一説にはバイバルス、また別の一説ではアクターイであった。
 アクターイはトゥーラーンシャーの心臓を抉り出し、ルイに向かって「この男は生きておれば間違いなく王よ、あなたを殺しただろう。我々がその敵を葬った。さあ、なにを頂けるのか!」と言ったと伝えられる。

■小考、トゥーラーンシャーは無能か
 ここで殺されたトゥーラーンシャーは、先にも書いたように無能な王であったとの考えが一般的である。果たして、本当にそうか。
 まず、政権の奪取に際して先代のマムルークを解体することはサーリフも行なっており、必要不可欠のことであった。
 これはマムルークの制度上致し方ないのだが、マムルークはあくまで「主君」に忠誠を誓い、「主筋」に忠誠を誓うのではないという嫌いがある。これは、王族に継承権を持つ子供が多く相続争いが起きやすいこと、親子で争うことも少なくなかったこと、また有能な奴隷は主人の家督を相続する例があり、それが拡大解釈されて彼らの野望を炊きつけたこと(言い換えると、マムルークは義理の子としての性格を持つので、実子の潜在的な後継者争いの対象になる)、などが理由として考えられよう。つまり、あくまでバフリーヤが忠誠を誓っていたのがサーリフである以上、このマムルーク部隊を残しておくことは、トゥーラーンシャーにとって必ず後顧の憂いとなるのである。例えバフリーヤの反発が予想されようとも解体を強行する他ない。
 では、トゥーラーンシャーがサーリフのようにうまく先代のマムルーク部隊を解体できなかったのは、トゥーラーンシャーが無能であったからだろうか。これも異なると筆者は考える。
 まず、サーリフの時とトゥーラーンシャーの時とで異なる条件として、バフリーヤがあまりに結束したマムルーク達であったということが挙げられる。サーリフはマムルークを徹底して組織化し、強固な連帯意識を持つ集団に育て上げた。その解体は容易ではない。
 さらに、バフリーヤにはエジプトを守ったという明らかな戦績、それもほぼ現在進行形の戦績があった。勲功者を処分すれば、当然本人ら以外からの反発も想定される。
 このように、トゥーラーンシャーのバフリーヤ解体は困難を極めた。加えて言えば継母シャジャルはもともとカリフの宮廷にいた奴隷であり、カリフ宮廷からの干渉も予想されよう。
 この状況下で、トゥーラーンシャーが取れる選択肢はそう多くはなかっただろう。史書は、新王朝の簒奪を正統化するためにしばしば前王朝の末代の支配者を悪く書くものである。先に書いた通り、トゥーラーンシャーは学問には興味を示さないにも関わらず戦術的にはそれなりのものを持っていた。ダマスカスに長期滞在したのも、決定的タイミングを見計らって出撃するつもりだったのかもしれない。ただ、計算違いであったのはバフリーヤが強すぎたことだ。
 それらを鑑みれば、トゥーラーンシャーは必ずしも無能ではなかったと言えないだろうか。
 この後、野ざらしとなったトゥーラーンシャーの遺体を埋葬するよう、カリフからの言伝が届いている。

■スルタナ(女スルタン)
 一連の動乱の後、アクターイ、バイバルスらの推挙を受けて、スルタンの座には驚くべきことにシャジャル・アル=ドゥッルが即位する。これをもって、マムルーク朝(1250-1517)の始まりと見るのが一般的である。イスラーム世界において、数少ない女王の一人であった(他はインド奴隷王朝のラズィーヤ、モルディブのファーティマ、アチェの女王四人、パタニの女王四人など)。
 彼女は夭逝したハリールの母(ウンム=ハリール)の資格において統治した。また、フトバ(礼拝の時に唱えられる)では「サーリフ王の配偶者」とも呼ばれている。また、彼女は即位してまもなくサーリフの開いたサーリヒーヤ学院の隣にサーリフ廟を設けている。アイユーブ家との縁を重視する立場を強調したのである。
 しかし、この継承はアイユーブ朝の正統を損なうものとして各地からの反発を招いた。それについては後述する。
 囚われていたルイは、このスルタナ、シャジャルと交渉を再開する。大筋ではトゥーラーンシャーと合意した通りであり、実際に彼は解放され、シリアの十字軍国家の地を踏むこととなる。彼はそこで持ち前の内政センスを発揮し、城塞の修復や内紛の調停など十字軍国家の延命措置を的確に行うのであるが、ここでは深く立ち入らない。
 ところで、イブン・ワーシルはフサーム=アッディーンという男とルイの会話を記録している。「陛下のような良識と知恵と教養の持ち主が、なにゆえこのように船出してムスリムと戦士の満ちた地にやってきて、そこを征服し王になれるなどと考えたのですか?」。ルイは笑うのみで何も答えない。「我々の国では」と、フサーム=アッディーンは続ける。「自らと財産を大変な危険にさらして海路を往く者の証言は、機知があっても法廷では証拠として受け入れられないのです」。「それはまたどうして」と王は尋ねる。「そのような行動は、頭が少し足りない、と思われるからです」。ルイは笑ってきっぱりと言う。「神に誓って言うが、そう言った者は誰であれ正しかったのであり、そのように支持した者は誰であれ間違っていなかったのだ」
 ルイの十字軍は失敗に終わったが、ルイはイェルサレムへ向かうことを諦めてはいなかった。それは後に彼の行動と言葉が証明することとなる。
プロフィール

鉄勒京二

Author:鉄勒京二
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