バイバルス伝 3.放浪の時節、シリア

以下詳細
 
■フレグ西征
 少々遠回りになるが、バイバルスを書くにあたってモンゴルのフレグ西征とアッバース朝の滅亡に触れないわけにはいかない。
 モンゴル帝国において、先に触れたグユク没後の後継者争いを制したのは、諸ウルス中最有力であったジョチウルスのバトゥ・カンとその盟友であったモンケであった。
 モンケ・カアン(位1251-1259)は、バトゥの支援によって即位すると同時に二人の弟に二方面での大遠征作戦を命じる。東方、南宋に対してはクビライを、西方、イラン方面にはフレグを差し向けたのである。
 イラン方面では、ホラズム・シャー朝がチンギス・カンの攻撃によって崩壊した後、インドに逃れていた最後のホラズム・シャー、ジャラール=アッディーンはインドから脱出しその政権を奪還した。しかし、モンゴルの二代オゴデイ・カアンはチョルマグン・ノヤンを司令官とする特殊部隊「タマ軍」を差し向け、この豪傑を滅ぼしていた。
 ジャラール=アッディーン滅亡後の当時の中東はモザイク状に分裂しており、イラクを抑えるアッバース朝、イランのアラムート城を始め要塞のネットワーク網を保持していた過激ニザール派(いわゆる暗殺教団。シーア派中のイスマーイール派のさらに派内分派である)、またシリアのマシャフを中心に独立していたその分派(ラシードゥッディーン・スィナーンの時にイラン派と別れた)、西遼帝国の遺臣が建てたケルマーンのカラ・キタイ朝(遺臣とは言ってもテュルク系であった)、ホラーサーンのクルト朝(モンゴルに臣従)、それにセルジューク朝によって置かれ、宗主国セルジューク朝が滅びたため独立していた諸アタベク国など、様々な勢力が割拠していた。
 漢人の城攻めの名将であった郭侃、ナイマン出身のキリスト教徒でモンゴルの猛将キトブカ・ノヤンらを引き連れ、フレグはまずイランのニザール派に目標を定めた(ニザール派について詳しくは岩村『暗殺者教国』)。
 硬軟両面の攻撃により、大いに恐れられたニザール派の城塞は次々と陥落し、あっさりとモンゴルの軍門に降った。異端派として大多数のスンナ派から忌み嫌われていたニザール派の壊滅は、スンナ派にとって喜ばしいことであったが、しかし、フレグが次に狙うのは、スンナ派の盟主アッバース朝の首都バグダードだったのである。

■最後のカリフ、ムスタアスィム
 アッバース朝第37代、最後のカリフは、アル=ムスタアスィム(位1242-1258)という人物だ。以前、シャジャル・アル=ドゥッルをサーリフに下賜したのはこのカリフである。
 モンゴル時代の歴史家イブン=アッティクタカー(1262頃-?)によれば、ムスタアスィムは「善人で、信心深くおとなしく、穏やかで言葉遣いも丁寧で、コーランを暗記していた。また能筆家であり、人格もすぐれていたが、抑止力に欠け、思考力が足りず、体力も弱く、国事についても経験が浅いため、野望の的となり、人々の心に恐れられておらず、物事の真相が見えていなかった」。
 マムルーク朝建国の混乱期、アイユーブ朝の残存勢力ダマスカス勢とマムルーク朝エジプト勢の間で紛争があり、それを調停したのはこのムスタアスィムであった。
 要約すると、全くの暗愚ではなく善人であったが、乱世の指導者としては力不足の人物であった、となろう。彼の先代、アル=ムスタンスィル(位1226-1242)は覇気あるカリフであり、モンゴルの侵入に際して自ら前線へ出撃しようとし、諌められて取りやめたほどだった。その弟ファハージーも勇敢な男だったが、ムスタンスィルの死後、強力なカリフによって権力を損なわれることを恐れた権臣たちは、ファハージーではなくムスタアスィムをカリフ位につけたのである。

■バグダード陥落
 当時、アッバース朝はブワイフ朝、セルジューク朝時代からの傀儡状態から脱しアル=ムスタルシド(アッバース朝第29代カリフ:位1118-1135)以降、再軍備を行なっていた。この当時、アッバース朝の軍隊は六万騎(ドーソン)と言われており、タマ軍のチョルマグン・ノヤンの部隊を二度も退けたことがあった。
 しかし、史家ワッサーフによれば、アッバース朝の宰相アブー=ターリブ・ムハンマド・イブン=アル=アルカミーは軍隊の維持には資金が必要であり、総てのイスラム教徒諸王侯はその藩王であって、彼らは名誉にかけてその生命財産をカリフに捧げるであろうから、膨大な費用を軍備に費やすことは無意味である、と進言した。この結果、フレグがバグダードへ進軍している時、カリフ軍は霧散していたのである。
 ワッサーフは以下のように記す。この宰相はシーア派の人間であった。ある時、カリフの長子アフマドがバグダードのシーア派街区を劫掠して回ったにも関わらず、カリフは宰相の抗議を受けても「シーア派は撲滅すべし」ということ以外何ら返答しなかった。
 このことでカリフに怨みを抱いた宰相は、フレグに書簡を送り、バグダードの征服を勧めたという。
 一方、イブン=アッティクタカーは、このような陰謀は存在しなかった、と書く。モンゴルは例え自らに利益をもたらしたとしても、陰険な裏切り者よりも、最後まで果敢に抵抗した者を惜しむ傾向があるのは周知の通りである。例えば、チンギス・カンは宿敵ジャムカを売り渡したジャムカの部下を処刑し、クビライは南宋で五年間襄陽を支え続けた呂文煥を降服させ将軍に任命した。金国の完顔陳和尚や、南宋の文天祥は、仕官を進められたが命を絶った者たちである。
 この宰相は、後にフレグからバグダード統治を任されており、信頼するに足る人物であった。と、すれば、フレグが信頼する以上、この宰相は陰険な陰謀など行なっていなかったのだ。そうイブン=アッティクタカーは主張する。
 事実はどうあれ、フレグはカリフが出撃させたなけなしの軍を蹴散らし、バグダードを包囲した。ムスタアスィムは虚勢を張るが、フレグは意にも介さずバグダードを力攻めにする。
 数週間の抵抗の後、バグダードは陥落した。1258年2月10日のことである。モンゴル軍は略奪をほしいままにし、一説に八十万人が虐殺され、大図書館ほか数多くあった公共の図書館も燃え落ち、貴重な資料が失われた。ティグリス河に投げ込まれた書物のインクで、川の水が黒く染まった。――以上のように伝えられるのだが、これはほとんどがイスラーム側の資料による。実際にどうであったかはモンゴル史の研究者からも異論が出ている。この点については、補論で扱う予定である。
 ムスタアスィムは捕らえられ、絨毯にくるまれて馬蹄に踏みしだかれ殺された。これはモンゴルにとっては大地に血を流さない、「貴人の処刑法」であった。チンギス・カンは、義兄弟にして宿敵であったジャムカを同じ方法で殺している。
 バグダードが陥落した。次はシリアである。

■スルタン・アイバク
 モンゴル軍のシリア侵攻とバイバルスらとの決戦を見る前に、1250年に時間を巻き戻し、エジプトの情勢と、バイバルスがどうしていたかを書かねばならない。
 エジプトの女スルタン、シャジャル・アル=ドゥッルはそれなりの政治的手腕を見せていた。しかし、アレッポにいたアイユーブ家の君主アル=ナースィル・ユースフ(サラディンの曾孫に当たる)は反シャジャルの姿勢を見せ、同じく反シャジャルのダマスカスを併合し、シリアの中北部に独自の支配権を確立した。さらに、まだモンゴルの脅威に晒されていなかったカリフのムスタアスィムは「もし汝らのところに男子がおらぬのなら、申すがよい。そうすれば男子をひとり送って進ぜよう」という手紙をスルタン承認の許可状の変わりに送ってよこしてきた。
 さらにナースィルはカリフからスルタンの称号を授かり、完全に独立した勢力となる。
 ここに、シリアのアイユーブ朝とエジプトのマムルーク朝の対立の構図が出来上がった。
 この情勢を鑑み、シャジャルはイッズ=アッディーン・アイバク・アル=トルコマーニーと結婚し、彼にスルタン位を譲る。1250年7月のことであった。エジプト初の女性スルタンの在位はわずか80日であったが、彼女はこの後もある程度実権を握っていたと思われる。
 さて、即位したスルタン・アイバク(位1250-1257)である。先にも書いた通り、彼はサーリフのマムルークではあったが、バフリーヤの武将ではない。トルコマーニーというからにはトルクメン系のマムルークだったのだろう。肥満体の温厚な人物であった、と伝えられているが、時代柄か統治には陰険・苛烈なところもある。彼はアクターイやバイバルスらとともにトゥーラーンシャーの殺害に加担し、トゥーラーンシャー殺害後は自ら軍の総司令官(アターベク・アルアサーキル)の任に就いていた。
 しかし、アイバクの即位まもなく、シリアのナースィルがエジプト侵攻を試みる。さらに上エジプト(ナイル上流方面を指す)のアラブ遊牧民(ウルバーン)が叛乱を起こした。加えて、バフリーヤの一部はバフリーヤ出身でないアイバクが即位したことに不満を持ち始める。こうして、アイバクの能力が試されるところとなったのである。

■シリアのナースィルとの戦い、聖王ルイ再び
 まずは、シリアのナースィルとの戦いを見ていくことにしよう。
 アイバクはアイユーブ朝系のアミールたちを懐柔するため、わずかに6歳のアイユーブ家の王子、アシュラフ・ムーサーを共同スルタンにつけた。むろん、建前にすぎず、実権は彼の手の中にある。
 さらに、1250年9月、アイバクの即位に不満を持っていた一部のバフリーヤの武将がカラク太守のムギース・オマル(アーディル2世の子)をエジプトのスルタンに推挙した。
 この機を見て、ナースィルはエジプトへ軍を進めようとする。
 これに対してアイバクは抗戦を決意し、アイユーブ朝支持派の武将を捕らえた。さらに、司令官アクターイ率いるバフリーヤを対ナースィルに差し向ける。おそらくバイバルスもここに参加していたものと思われる。
 アクターイはガザでナースィル軍と会敵し、これを叩きのめした。
 ところで当時、大シリア沿岸部の十字軍国家には解放されたフランスのルイ王がまだ滞在しており、ガザの戦いと前後して、ナースィルはルイに同盟を持ちかけた。条件は例によってイェルサレムの割譲である。ルイはこれに慎重に対応する。エジプトとは一応休戦を結んでいるので、この休戦がエジプト側から破られるようなことになればナースィルに加勢しよう、と申し出たのである。
 アイバクはこれを知り、ナースィルとルイの同盟を防ぐため、エジプトにいたフランスの十字軍捕虜の一部を釈放し、さらにダミエッタの城塞を徹底的に破壊、十字軍が再び基地として使用できないようにした。
 1252年始め、今度はアイバクがルイに同盟を持ちかけた。今回もイェルサレム割譲が条件となる。よほどルイを動かすにはイェルサレムが重要だと思っていたのだろう。今回、ルイはこの話に乗る。
 どちらもルイを引き入れようとしたことから分かるのは、両陣営とも自らと相手の実力が伯仲していると考えていたのだろうということである。
 ルイはヤッファへ指定の期日に赴き、エジプト側はガザに武将を責任者として使わせ、イェルサレムを返還するという手はずであった。しかし、指定の期日にエジプト側の責任者は現れなかった。というのも、ナースィルがガザに四千の兵力を差し向け、アイバクとルイの同盟を阻むべくここを固めてしまったからである。一応アイバクは条件であったキリスト教徒の遺体の引渡しを行い、(というのもルイは彼らを埋葬したがっていたからだが、)ルイをつなぎとめた。
 ナースィルは1252年の後半、軍を再度エジプト方面に進めるが、サーリヒーヤでアイバクに再び敗れる。ジョワンヴィルによると、ナースィル軍はエジプト軍の本隊を打ち破ったが、アイバクが分けた別働隊によって後背部の部隊を襲われ敗れたという。ジョワンヴィルの伝えるところが正しければ、これはモンゴルの戦闘を参考にし、バフリーヤが得意としていた誘い込みと伏兵の戦術だろう。
 ナースィルは傷を負い、なんとかガザまで退いたが、同行していたアイユーブ家の王族の多くが捕虜となった。
 アイバクはナースィル側を殲滅すべくシリアへの侵攻を望んだが、折しもバグダードがモンゴルの脅威にさらされており、カリフのムスタアスィムはシリアとエジプトの間をとりもち、和解させようとした。結果的に1253年4月に講和条約が締結され、イェルサレムを含むヨルダン河以西、ナブルス以南の地をアイバクの領土とし、前記以外のシリアをナースィルが領有することとなった。
 ことのついでか否か、この帰還路で、ナースィルはシリアの十字軍国家の領土を掠めている。
 結局、ルイに対する約束は反故にされ、残念ながら彼はイェルサレムを手にすることができなくなってしまった。この後、ルイは母の死を知り、中東の地を去ってフランスへ戻ることとなる。

■ウルバーンの叛乱
 1253年というからナースィルとの講和と前後して、今度は上エジプトのウルバーンがハラージュ(地租)の徴収を拒否して叛乱を起こした。
 叛乱の首魁はバヌー=サアラブ族の族長で、第四代正統カリフ、アリーの末裔を自称するヒスン=アッディーン・タラブ・アル=ジャアファリーであった。彼らはナースィルに反マムルーク朝同盟を申し入れ、下エジプト各地のウルバーンにも決起を促す。
 彼らの言い分はこうだ。「我らこそがこの国の所有者である」「我らにはマムルークたちより支配の正当性がある。我らはアイユーブ家に仕えるのはよしとしてきた。しかるにマムルークは、外から来たよそ者である」「マムルークなどよそ者の奴隷(アビード)である」。
 ヒスン=アッディーンは上エジプトの王を称し、反乱軍は騎兵だけで1万3000騎に達したと伝えられる。
 これに対し、アイバクはアクターイに5000騎を率いさせ、上エジプトに派遣し、叛乱を鎮圧した。
 また、同行したアミールの中にイッズ=アッディーン・アル=アフラムという男がいたが、彼は上エジプトにそのまま駐屯し、この地の安定した支配に寄与することとなる。
 アイバクは叛乱の鎮圧のみに満足せず、ヒスン=アッディーンに安全保障(アマーン)を与えてエジプトに呼び寄せ、彼と彼の配下の者にイクターを与える約束をし、彼をビルバイスに招いた。これを計略とは知らず、彼は騎兵2000騎と歩兵600人を引き連れ到着した。しかし彼らは全て捕らえられ、カイロとビルバイスを結ぶ道路に設置された木につるされ処刑された。
 さらにアイバクは、ウルバーンたちへの税負担を釣り上げる。後に、これに反発したウルバーンたちは、上エジプトのクースで再び叛乱を起こすが、これは既にバイバルス統治の時代に入ってのことである。
 この叛乱は、「外から来た奴隷」であるマムルーク朝にとって、支配の正当性を投げかける大きな問題を提起した。その正当性を担保する答えは、後にバイバルスが出すこととなる。

■アクターイ、殺害
 シリアのナースィルや、ウルバーンとの戦闘においてアイバクがアクターイを用いたことは、アイユーブ朝王族の娘を妻とし、あえてほしいままに振る舞うなど彼の増長を招く結果となる。アイバクは、それを警戒して自分独自のマムルークの育成に力を入れていた。
 ここに記すサイフ=アッディーン・クトゥズは、そうしたアイバクのマムルークのうちの一人である。おそらくホラズムの遺民であった彼は、マクリーズィーによれば、モンゴルに抵抗した英雄ジャラール=アッディーンの甥であった。モンゴル侵攻の際に何らかのきっかけで奴隷となり、シリアに売られたのだろう。
 アイバクに買われた正確な時期は分からないが、ホラズム・シャー朝の崩壊した時期から鑑みるに、アイバクがスルタンに即位する以前、かなり早い段階であるのはまず間違いない。彼はアイバクによって奴隷身分から解放されたので、アイバクのラカブを取ってアル=ムイッズィーと名乗っていた。陰険ではあるが、アイバクには尽くし、そしてバフリーヤを除くエジプト軍においては随一の勇将でもあった。
 1254年、そのクトゥズが、アイバクの意を受けてアクターイを殺害し、彼の首が城塞の上から配下のバフリーヤの居住区に向かって投げ捨てられたのである。この直前、アイバクはバフリーヤの「家」とも言える、ローダ島の兵舎を取り壊した。想像するに、アクターイはこれに抗議するためアイバクの所へ向かう途中で殺されたのではないか。さらにアイバクは、これより前、名目ばかりとなっていたとは言え、共同スルタンにつけていたアイユーブ朝のアシュラフ・ムーサーを廃し、ここに名実ともにエジプトのアイユーブ朝は滅びていた。
 バイバルスらは激怒した。思い出深い彼らの家を取り潰され、いかに専横が過ぎたとは言え、苦楽を共にした彼らの上司を殺されたのである。しかし、この時、彼らにアイバクやクトゥズに対抗する力は無かった。
 バイバルスは同僚のカラーウーンやサンカルと密かに会合してシリアのナースィルのもとへの脱出を決意した。アイバクはこれを察知し、カイロの諸城門を閉鎖するが、彼らはこれを突破することに成功する。結局、アイバクの得たものは彼らの財産だけであった。
 ここから、7年に渡るバイバルスの放浪生活が始まるのである。

■シリアのナースィルのもとへ
 アクターイが死去したのでバイバルスが率いることとなったバフリーヤの武将たちは、シリアのアイユーブ朝の君主、ナースィルのもとへ亡命した。ナースィルは彼らにその宮廷に入朝する許可を与え、金銭、礼服、イクターを与えた。
 バイバルスはナースィルにエジプトへ進行するよう進言する。しかし、ナースィルはバフリーヤを完全に信用していたわけではなく、彼は慎重であった。
 ナースィルはアイバクに、バフリーヤは現在自分に仕えているのだから、バフリーヤが保持していたイクターはやはり自分のものであるべきである、として、以前アイバクに割譲した領土の返還を迫った。バフリーヤの軍事力を当てにして強く出たのだろう。アイバクはこれに同意し、領土を返還したので、ナースィルはバフリーヤを懐柔するため、この返還された領土のイクターをバフリーヤの武将たちに与えた
 また、バフリーヤの軍事的能力を知っているアイバクは対シリアの防衛線を固めにかかる。
 しかしこの間、モンゴルのフレグのイラン侵攻が始まっており、ナースィルはその噂を聞いて震え上がった。彼は幼少の息子アズィーズを人質としてフレグに差し出し、あろうことかモンゴルの力を借りてエジプトのマムルーク朝を打倒する計画を立てた。
 シリアのみならずエジプトをもモンゴルに売り渡すようなこのナースィルの計画は、バイバルスの耳に入り、その怒りを買うところとなる。ナースィルの怯懦にあきれ果てたバイバルスは、バフリーヤを率いてナースィルのもとを離脱し、カラク城主ムギース・ウマルのもとへ身を寄せる。

■カラク城主ムギース・ウマル
 ムギース・ウマルは、アイユーブ朝のサーリフからすると甥に当たる。彼はトゥーラーンシャーによってシャウバク城に幽閉されていたが、トゥーラーンシャーが暗殺された後、シャウバクの宿将によって解放され、1251年にはカラクとシャウバクの君主となっていた。
 ナースィルはシリアの首邑ダマスカスと、第二の都市アレッポを抑えてはいたが、ウマルのように独自の勢力を築いている者もいたのである。カラク城は十字軍が築いた拠点であり、サラディンもこの攻略にはかなり手を焼いた難攻の要塞であった。
 バイバルスは、ウマルにもイスラーム世界団結の必要性とエジプト侵攻を説く。ウマルはこれに乗り、エジプト侵攻を企てた。折しも、エジプトは後に記す一連の動乱とスルタンの交代によって混乱していたからである。
 1257年12月、エジプトの勇将にしてバイバルスの仇敵であるクトゥズは、エジプト軍を率いてウマルを迎撃するため出撃した。バイバルスはクトゥズと戦ったが、これに敗れ、ウマルともども辛うじてカラクまで撤退することとなった。
 1258年になり、フレグはバグダードを陥落させる。モンゴル軍はその勢いのままにユーフラテス河流域に侵入する。この時、フレグ軍からクルド人が大部分であると思われる3000騎の脱走兵がカラクのウマルのもとへ投降してきた。
 1259年、ウマルはこの軍勢とバフリーヤを率いて、シリアのナースィルが治めるダマスカスを占領できると考え、進軍する。ナースィルはこれを迎撃するため、ズィーザ湖畔で彼を迎え撃った。
 結局ウマルとナースィルの間には妥協が成立し、バイバルスらバフリーヤはナースィルに再び仕えることとなり、ウマルに投降してきた脱走兵は解散となった。
 この後、モンゴル軍はシリアへ進軍し、バイバルスはアイン・ジャールートでこれを迎え撃つこととなるのである。
プロフィール

鉄勒京二

Author:鉄勒京二
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