バイバルス伝 補論

以下詳細
 

 ここから先は、バイバルスと直接の関係がない、もしくは関係がうすいために本文で扱いきれなかった事柄を簡単にまとめておく。


■ルイ9世のチュニジア遠征
 いわゆる第8回十字軍、ルイ9世のチュニジア遠征について見ておこう。
 先のエジプト遠征が失敗に終わった後、ルイは1267年頃から再度の十字軍遠征を望んでおり、準備を進めていた。1270年3月には巡礼杖とズタ袋を授かり、7月には三人の息子を従えて、エーギュ・モルトから地中海に船を出した。サルデーニャを出た時点で、軍勢に告げられた目的地がチュニスであった。
 実は、この十字軍の主役はルイと言うよりその弟のシャルル・ド=アンジューであった。彼はシチリアにおいてフリードリヒ2世のシュタウフェン朝を断絶させ、シチリアの王位を強引にもぎ取っていた。
 チュニジアはシュタウフェン朝時代のシチリア王国に毎年年貢を支払っており、親シュタウフェンの姿勢を取っていた。シャルルとしては、この勢力がシチリアの近くに存在していることは危険であり、これを兄の十字軍遠征を以って攻撃する計画を立てた、という説が有力である。スタンリー・レーンプールなどはルイがハフス朝のムスタンスィルをキリスト教に改宗させるために遠征したのだ、と書くがこれはお題目を真正面から受け取りすぎだろう。ただ、当面の敵であるマムルーク朝と関係が悪化していたハフス朝に好意を寄せた可能性はある。
 7月18日、ルイはチュニスへ上陸し、陣営を張る。シャルルは後から到着するはずであったが、彼がチュニジアに到着する前に折しも疫病が流行り、ルイ自身もこれに感染してしまう。ルイが亡くなったのは8月25日のことであった。
 ルイの最後の言葉は「イェルサレムへ……」であった。
 同日に到着したシャルルは撤収を手早く決め、賠償金を取り、チュニジアに毎年の朝貢を行わせ、シュタウフェンの残党をかくまうことを禁止した。
 ルイは敬虔な王であり、その面ではムスリムに尊敬されることもあったのだろう。面白い事に、チュニジアの伝説ではルイがイスラームに改宗し、聖者(マラブー)となって人々を導き、その地で没したという。
 バイバルスが援軍派遣を検討していたが、ルイの死去によって取りやめになったのは本文中で見た通りである。


■モンゴルはバグダードを破壊したか
 1250年、フレグがバグダードを陥落させたのは本文で書いた通りである。
 その犠牲者数、及びバグダードがモンゴルによって荒廃したか否かにはいくつかの疑問点があり、論争となっている。
 主な論点は以下のとおり。
1.バグダード陥落により殺害された市民の数
2.モンゴルの襲来以前にバグダードが既に荒廃していた可能性
3.そもそもバグダード最盛期の人口はどれほどであったか

 1については、まず当時の史家の間でも異同がある。
ラシード=アッディーン:80万人
イブン=ハルドゥーン:200万人中160万人
アル=ザハビー:180万人
マクリーズィー:200万人
(前嶋信次「中世バグダードの文化とその滅亡」『東西文化交流の諸相 民族・戦争』による)
 概説などではラシード=アッディーンの80万人が「一説では」という形で紹介されることが多いようだが、これはイスラーム圏の史家の示した数字であり、誇張が含まれている可能性が高い。
 また、フレグ自身は仏王ルイ9世に宛てた書簡の中で、自ら20万人以上を殺したと述べている。
 これもまた、モンゴルが誇張した恐怖を言いふらす情報戦の一つであったと考えれば、誇張されているとも考えられる(杉山2008)。となれば、最小限に見積もる時は20万人以下となる。

 次に2であるが、ティグリス河の両岸に発達したバグダードは、12世紀後半にここを訪れたイブン=ジュバイルによれば(『イブン・ジュバイルの旅行記』藤本勝次・池田修訳)、西岸部は廃墟となっていたという。ただ、その直後に彼は西岸の人々の様子と街区の説明を述べている。
 イブン=ジュバイルは、メッカ巡礼の帰路でこの街に立ち寄ったのであり、少なくとも巡礼者が経路として通ることは多かったのだろう。しかし、果たしてどの程度商人が立ち寄っていたのかは不明である。
 ただ、バグダードの建設当時に中心となっていた円城は、ムウタティドの時代に既に崩れ去っていたようである(前嶋信次『イスラムの蔭に』)。
 ハールーン・アル=ラシードの没後のアミーンとマアムーンの兄弟間紛争、サーマッラーからバグダードへの再遷都の時期など、バグダードは何度か戦火に見舞われており、その時点で荒廃していたことも考えられる。

 3についてはそもそも決定的な史料は無い。
 イスラーム史家は百万に近い、とする場合が多い(前嶋「中世バグダードの文化とその滅亡」、佐藤『イスラーム世界の興隆』)。しかし、これも論者によって様々である。
 イラクの歴史家アブド・アル=アズィーズ・アル=ドゥリーはモスクや公衆浴場の数をもとに150万と推定し、いっぽうヤコブ・ラスナーは居住区の面積をもとに30万と見積もっている(佐藤『イスラーム世界の興隆』)。定説がない、というのが現状であろう。当時の農業生産力なども鑑みて、他の大都市、コンスタンティノープルや長安などと比較することも必要か。
 しかしどちらにせよ、200万人がモンゴル侵攻で殺されたなどということは考えられない。

 モンゴル侵入でバグダードが荒廃したか否かには様々な不明な点があり、はっきりしたことは言えない。しかし、ムスリム史家による誇張は鵜呑みにはできまい。
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鉄勒京二

Author:鉄勒京二
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