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バイバルス伝 4.決戦、アイン・ジャールート

以下詳細
 
■エジプト内幕
 バイバルスがシリアで放浪の日々を送っていたころ、エジプトでは一種異様な一連の事件が起きていた。その全容は必ずしも詳らかではないが、まとめると以下のようになる。
 アイバクは、バフリーヤがシリアのナースィルに囲い込まれ、その脅威が日増しに大きくなっていることを鑑みて、いくつかの手を打っていた。一つは、アッバース朝カリフへ従属を表明するためバグダードへ使節を送ること。今一つは、十字軍との休戦協定を改定すること。さらに一つは、モスル領主バドル=アッディーン・ルウルウの娘を后に迎えて姻戚同盟を結ぶこと。
 この最後の婚姻が、アイバクの后シャジャル・アル=ドゥッルの嫉妬を掻き立てた、と伝えられる。
 1257年4月、彼女は密かに五人の屈強な奴隷に命じ、アイバクを浴室で刺殺せしめた。
 この陰謀は早くも洩れ、彼女は犯行を否定したが、アイバク配下のマムルークに捕らえられ、アイバクの前妻に引き渡された。このアイバクの前妻という女性は、アイバクがシャジャル・アル=ドゥッルと結婚するに当たって無理やり離婚させられた過去があった(イスラームはカトリックと異なり、「結婚は契約である」という観念があるのでそれを解消することができる)。彼女はその怨みを忘れておらず、女奴隷に銘じてシャジャルを木靴で叩き殺し、遺骸を下着のままモカッタムの城塞の櫓から投棄せしめた。
 イラク戦争後、マリキ首相と共同で記者会見に望んだアメリカのブッシュ大統領が、イラクの記者に靴を投げつけられるという一幕があったが、靴で叩かれるというのはイスラーム世界では相当の屈辱だと考えられている。
 シャジャルが凶行に及んだ理由は、各自各説でまとまっていない。嫉妬だけが原因ではないだろう。一時女性スルタンとして権力を握った栄光が忘れられなかったのかもしれず、また協力関係にあったバフリーヤを慮ったのかもしれない。
 動機はどうあれ、結局アイバクとシャジャルは刺し違えの形で死ぬこととなった。問題は、次のスルタンは誰か、である。

■クトゥズの即位
 アイバクの後のマムルーク朝第三代スルタンには、アイバクと前妻の子、アリーがつくこととなった。当時十五歳であり、母が彼を甘えさせすぎたこともあり、あまり英明とは言えない君主であった。アイバクのマムルークで最古参のクトゥズは、執権と総司令官兼ね、実権を掌握する。
 1257年12月、先に書いた通り、カラクのムギース・ウマルはバフリーヤを伴い、エジプト侵攻を企てた。クトゥズはこれを破る。
 1259年11月、クトゥズは君主の幼いことに危機感を抱き、これを廃する決心をした。彼はアリーとその弟、母をダミエッタへ送還し、自らスルタンとして即位した。これが第四代スルタン、アル=ムザッファル・クトゥズ(位1259-1260)である。一部の武将はこれに反対を唱えたが彼は「私はモンゴル軍を撃退するために兵力結集を目的とするにすぎない。これは強権の王でなければできはすまい。我々がこの強敵を撃退した後に、諸将諮り合わせの上、望むスルタンをせ選出して立てればよいだろう」と言い張る。
 即位と同時に八人の将軍を勾留するなど、彼は陰険ではあったが、一方で精力的な君主でもあり、英明な面も持ち合わせていた。迫り来る危機に対し何をすべきかは心得ている。それは、シリアを彷徨うバイバルスとの和解であった。

■バイバルス、宰相を殴り飛ばす
 この間、フレグは猛将キトブカを先頭に、中東各地の要塞を抜いていた。
 ムギース・ウマルと和解した後、バイバルスらバフリーヤを再度引き入れダマスカスに戻っていたナースィルは、フレグのハッラーン来襲を知った。諸将が協議し、モンゴル軍と戦うことが決定される。
 彼らはダマスカスのすぐ北、バルザー村に軍営を張ったが、ナースィルの宰相ザイヌ=アッディーンはナースィルの不安げな様子を察し、フレグの勢力盛んなことを吹聴しはじめ、降伏を勧めた。
 これを聞いてバイバルスは激昂する。この宰相に飛び掛って渾身の力で殴り飛ばし、「貴様のような男がムスリムを破滅に追い込むのだ!」と怒鳴ったと伝えられる。
 宰相はこのことをナースィルに訴えたので、翌日の夜、バフリーヤは惰弱なナースィルを殺して別の君主を建てようと決心し、ナースィルを襲う。彼は命からがら逃げ出し、弟とともになんとかダマスカスに避難することが出来た。
 バイバルスは陣営を引き払い、ガザへ赴き、そこから武将ターイバルスをエジプトへ派遣し、和解を申し出た。
 ほぼ同時に、ナースィルもフレグ接近の報に恐慌を来たし、エジプトへ受け入れを打診する。クトゥズはこれを承知した。

■フレグ侵攻、アレッポの一幕
 フレグは猛将キトブカを先頭に立て、マラタヤ、マンビジ、ディヤルバクル等を経てシリアの大都市アレッポへ進軍する。アレッポは本来、ナースィルが守らねばならぬ領地である。しかし彼は前述のとおり、逃亡してしまっていた。
 アレッポを守備するのはアル=ムアッザム・トゥーラーンシャー。バフリーヤに殺されたスルタンと同名のこの老将は、ナースィルのおじに当たる人物である。先遣隊との戦闘で破られたアレッポ軍(多くの義勇軍を含んでいた)は、アレッポへ立てこもる。フレグは数日のうちにアレッポ城下へ到着し、彼に降伏を勧める書簡を送る。しかし、果敢にもトゥーラーンシャーはこれを跳ねつけた。
 一週間の激しい攻防のあと、市壁は破られるが、トゥーラーンシャーはさらに内城に篭ってなお一ヶ月応戦する。矢尽き剣折れて、降伏したのは1260年2月25日のことであった。
 フレグは彼の勇敢さを称え、助命することにするが、この老将は数日後に精根尽き果てて亡くなった。果たして、それはトゥーラーンシャーにとって幸であったか不幸であったか。
 ところで、この時モンゴル軍は牢獄でバフリーヤの九人の武将を発見した。彼らはムギース・ウマルからナースィルに引き渡されていたものだが、その中にはサンカル・アル=アシュカルも含まれていたという。
 フレグはさらにハマーへ向かったが、この都市は戦わずして降服した。
 ここに至り、ダマスカスにいたナースィルは、予てからエジプトとの合意を取り付けていたこともあり、ダマスカスを放棄してエジプトへ逃亡した。
 結局、ナースィルが見捨てたダマスカス市も内城を除き無血で開城することとなる。内城がキトブカによって陥落したのは4月8日のことであった。

■フレグ東帰、猛将キトブカ
 この後、ハリームも開城したが、突然の報せがフラグの足を止めた。南宋を攻めるため、四川を進んでいたモンケ・カアンが亡くなったというのである。当然後継者争いが予想される。フレグの立場は遠征軍の司令官であり、この土地の正式な支配者というわけではない。状況が予断を許さない以上、できるだけモンゴル本土の近くにいるにしくはない。ここにおいてフレグは東帰を決意する。
 後に残されたのはキトブカであった。
 彼はナイマン出身の猛将である。ナイマンは西方寄りのためにややトルコ化したモンゴル系部族の一派で、比較的文化的であり、またネストリウス派キリスト教も広がっていた。キトブカ自身もキリスト教徒であったらしい。彼は料理番(バウルチ)であったと伝えられる。おそらく、モンケかフレグのケシク(近衛軍団)の一人だったのだろう。要は側近である。彼はニザール派暗殺教団を攻めた時以来、常にフレグ軍の先鋒を預かってきていた。彼はモンゴル帝国への忠誠厚い武将であった。
 キトブカはフレグが帰った後も、軍を進め、ナブルス、ガザを占領し、バニヤースを略奪した。この間、クトゥズの方針が変わったためエジプトへ逃げ損なったシリアのナースィルが捕らえられている。

■アイン・ジャールート
 バイバルスはガザへ出向いたあと、ようやくクトゥズとの和解が成立し、1260年3月7日、やっとエジプトへ帰ることが出来た。なんと七年ぶりのカイロである。クトゥズはバイバルスにとっては上司アクターイを殺した仇敵であるが、モンゴルの危機が迫っている今、過去の怨みはひとまず水に流すべきであった。
 フレグないしキトブカからの使者がカイロを訪れ、クトゥズにこれを提出した。「イスラーム諸国がいかなる運命に陥ったかは周知の通りである。……後悔する前に、諸国に習って降伏せよ」。
 クトゥズとバイバルスはこの脅しに屈さず、決戦を決意した。モンゴルの使者四名を斬首し、それらの首をさらした。直ちに軍を率いてサーリヒーヤに出陣する。一部の武将が同行を拒否したが、クトゥズは以下のように言う。「ムスリムの諸将よ、貴様らは長年エジプトの禄を食んでおきながら、この国家存亡の秋に出陣を拒否するとは何事だ! ジハードに参加を望む者は私とともに行動せよ! 参加を望まない者は自宅へ引きこもっておれ! しかし神はかかる者をお見逃しにはなるまい!」。総兵力はおよそ一万二千と見積もられる。バイバルスは、迎え撃つのではなくシリアへ進軍することを強く主張した。確かに、彼は長年の放浪でシリアを知り尽くしていたのである。
 バイバルスは先陣を切り、先遣隊としてガザへ進軍した。
 ガザに駐屯していたモンゴル軍の武将バイダルはすぐさまキトブカへ援軍を要請し、自らはバイバルスのバフリーヤとの戦闘に入るが、バールベクに本陣を置いていたキトブカが到着する前に潰走してしまう。
 ここから、バイバルスの先遣隊とクトゥズの本隊は驚くべきことにイェルサレム王国の領土を通過する。これは、クトゥズが前もって用意していた十字軍国家との同盟工作の結果であった。イェルサレム王国にもメンツがあるため、表立っての協力はできないが、領土の通過と食料・馬匹補給、宿舎提供の便宜は図る、という返事が帰ってきていた。「モンゴルの馬はいい馬だから戦利品にしたら俺たちにも売ってくれ」と、十字軍兵士がマムルークに声をかけたという話も残る。
 一方、モンゴル軍を率いるキトブカはバイダルの残存兵を回収し、およそ一万五千程度の軍勢を率いて南下しヨルダン河を渡る。十字軍国家とマムルーク朝の同盟はキトブカにとっては計算外のことであった。実際、ドイツ騎士団の総長などはマムルーク朝と結ぶのは後々危険である、と主張しており、同じキリスト教徒のキトブカに協力したほうが良い、という意見もあるにはあったのだ。しかし、モンゴルの快進撃が、逆に十字軍国家を恐れさせる結果となっていた。
 両軍は、アイン・ジャールートで会敵することとなる。1260年9月3日のことであった。この地名は「巨人ゴリアテの泉」を意味する。ここは、ダヴィデが巨人ゴリアテを倒したと伝えられる渓谷であった。
 まずはバイバルスの先鋒隊がキトブカ軍に襲いかかる。ある程度揉みあった後、バイバルスは撤退に見せかけて軍を返した。キトブカはこれを追撃にかかる。しかし、バイバルスは巧みに渓谷を利用して追撃をかわす。
 突然、バイバルスは部隊を取って返し、キトブカ軍の背後を取った。前方には、クトゥズの本隊が迫っている。
 これは、モンゴルがもっとも得意としていたはずの誘い込みであった。1252年のアクターイとナースィルの戦いでも見られたように、この戦術は、バフリーヤが研究し尽くしていたのである。
 だが、包囲されたキトブカはさらに奮戦する。彼は部隊に敵の側面を突くよう命じる。包囲の一角を破られたマムルーク軍は、優位を失う。この時、クトゥズは兜を投げ捨て、「くたばれ!」ないし「おお、イスラームよ!」と大声を上げて自ら敵陣の乗り込み、敵兵を打ちのめしたと伝えられる。
 バイバルスも奮戦し、徐々にモンゴル軍の劣勢が再び明らかとなる。
 モンゴル軍は敗北し、キトブカは包囲され、投降を勧告されるも拒否、しかし落馬しついに捕らえられ、クトゥズの前に引き出された。

■キトブカ死す
 クトゥズは言う。「数多の敵を滅ぼし、ついに我が罠にかかったな」。
 猛将にして忠臣キトブカは応える。「行ってフレグ・カンに申し上げろ。キトブカは決して降伏しなかったと。生命など惜しくはない。モンゴルにとって、一隊を失うことなどいかほどのことでもない。フレグ・カンは気にもとめないだろう。兵士に妻があり、厩舎に馬がある限り、若い男、若い馬が生まれてくるのだ。カンのしもべである我らの死なぞ問題ではない」「クトゥズよ、つかの間の勝利に酔うなかれ。このキトブカが死ぬのは蒼天の意志であって貴様のためではない。我が死がフレグ・カンの耳に達せば、我が君の怒りは嵐の海のごとく渦巻くだろう。アゼルバイジャンからエジプトの入り口までの土地は、ことごとくモンゴルの馬蹄のもとに蹂躙されるだろう。カンはこのキトブカ程度の戦士など三十万人も従えている。おれはそのうちのただ一人にすぎないのだ。早く殺せ」「……生を受けて以来、俺はカンのしもべだった。貴様らのように、主君を殺す輩とは人が違うのだ」
 クトゥズは処刑を命じた。彼の首は、地に落ちた。
 バイバルスは掃討部隊を率い、モンゴルの残存部隊を狩る。この際、バイバルスの腹心であったカラーウーンが見つけたのが若きモンゴル人武将キトブガー(キトブカとは別人)であった。カラーウーンは彼をマムルークとして育てることとなるが、彼は後にマムルーク朝唯一のモンゴル人スルタンとなるのである。
 ともあれ、こうしてイスラーム世界はモンゴルの脅威から救われた。しかし、歴史の常として、両雄は並び立たぬものである。ここから、バイバルスの時代が始まるのだ。
プロフィール

鉄勒京二

Author:鉄勒京二
当ブログは一介の歴史好きが読んだ本を紹介したり、書いた文章を公開したりするための場です。執筆記事は西アジア史関係が多いですが、読書は西アジアにこだわらず地域・時代を広く浅く扱っています。
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