バイバルス伝 5.玉座へ、カイロ

以下詳細
 
■クーデター再び
 文永の役から14年前、イスラーム世界はアイン・ジャールートの一戦で救われた。確かに、フレグにとってみればキトブカの言ったように所詮局地戦で負けたにすぎない。しかし、イスラーム世界にとってはこの一戦はモンゴルの不敗神話を打ち破ることとなり、大きな財産になる。
 さて、アイン・ジャールートの戦いの後、モンゴルに占領されていたダマスカスは数日を待たずして陥落した。1260年9月8日の暮れ、クトゥズ率いるマムルーク軍はダマスカスへ入場し、解放者として狂喜の中を進んだ。
 バイバルス自身はモンゴルの残存部隊を追撃するため、バフリーヤを率いてハマー近郊まで出張っていた。10月の初めにアレッポを解放し、彼もダマスカスへ戻る。ここで問題が起きた。
 予てよりバイバルスはイクターとして自身が解放したシリア第二の都市、アレッポを要求しておりクトゥズもこれに同意していた。確かにこの場所はイラクのモスルからシリアへ至る最前線であり(これより南はレバノン山脈が遮っている)、モンゴルと戦うためにはここにバフリーヤを置く必要性がある。しかし、クトゥズはここに至りこれを拒否した。アレッポのような大規模な都市に、バイバルスのような驍将を置けばどうなるか。自立を図るのは火を見るより明らかだ。
 ともかくも、ダマスカスではこの対立を納め、クトゥズは全軍を率いてエジプトへ凱旋すべく南下する。
 10月23日、事件は起きた。カイロまで既に三日行程のところまで来ている。
 クトゥズは兵士に一日の休息を与えた。自身も諸将を伴って野うさぎ狩りに出る。彼は自分の目の届く所で監視するため、バイバルスも連れてきていた。これが裏目に出る。以下の顛末はドーソンが引用したシャーフィー『バイバルス伝』による。
 バイバルスは時期を見計らい、クトゥズに近づいてある人間についての恩赦をクトゥズに乞うた。バイバルスはその許可を得ると、スルタンの手をとって接吻しようとした。その瞬間、ベクトゥトがクトゥズに斬りかかる。ウンスは彼を馬上から引きずり下ろし、バハードゥルは彼に矢を射込み、バイバルスは彼に止めを刺した。
 7年前、クトゥズはバイバルスの上司アクターイを手ずから殺害している。その仇を、バイバルスはようやくここで取ったこととなる。
 さて、この時、マムルーク朝軍の全軍を預っていた総司令官は、そのアクターイと同名のファーリス=アッディーン・アクターイである。彼は、クトゥズを殺したのは誰か、と尋ねる。バイバルスが名乗り出ると、アクターイは彼を玉座につけた。バイバルスは、まず諸将に公正な扱いと尊重を約し、その後、諸将はバイバルスに忠誠を誓った。

■アル=ザーヒル・バイバルス
 ここにおいて、バイバルスはマムルーク朝第五代スルタンとして即位した。即位名はアル=マリク・アル=ザーヒル・バイバルス(位1260-1277)、すなわち勝利王バイバルスである。
 彼の名「バイバルス」はテュルク語であり、あえて日本語に訳せば「虎侯」となる。バルスとは、当時のテュルク語で大型のネコ科の肉食獣のことであった。彼が紋章に獅子を使用していたのもその名にちなんだものだろう。
 クマンのバラリー部に生まれ、モンゴルに捕らえられ奴隷として売られて、ハマーのアイダキンに800ディルハム(≒65~80ディナール。当時のマムルークの平均的な値段)で買われて既に15年程が経っていた。彼はアイダキンに奴隷身分から解放してもらった恩を忘れてはいなかった。不遇のまま過ごしていたアイダキンを呼び寄せ、ダマスカスの長官職を与えたのである。もっとも、これはダマスカスの太守が反旗を翻したのでアイダキンを鎮圧に向かわせる意味もあった。
 即位当時、30代から40代初め。未だ働き盛りの年齢である。しかし、彼のスルタンとして滑り出しは順調ではない。カイロ市民はクトゥズの凱旋を心待ちにしており、そのための装飾も施されていた。バイバルスは夜のうちにカイロへ入るが、翌朝、役人たちがバイバルスの即位を伝えることに市民は動揺を隠せない。
 マクリーズィーによれば「市民は、バフリー・マムルーク軍による支配が復活し、彼らによる不正な統治がまたおこなわれるのではないかと恐れていた」。バイバルスは、即位直後から「正統性の欠如」という大きな問題にぶち当たることとなる。

■復讐のフレグ
 さてこの頃、モンゴルのフレグはどうしていただろうか。彼は東方の後継者争いには結局加わることが出来なかった。1260年の4月、フレグの兄クビライが開平府(後の上都)でクリルタイを開き、カアン即位を宣言した。これが日本史では元寇で名高いクビライ・カアン(位1260-1293)である。一方、5月に末弟のアリクブケもカラコルム近郊でクリルタイを開き、カアン即位を宣言する。本来、モンゴルは末子相続が原則であるので、どちらかと言えばアリクブケの方に正統性があるのだが、最終的に勝利するのはクビライである。
 ともかく、フレグが動くのは遅すぎた。有力な後継者候補のフレグに対して、情報伝達が故意に遅らされた可能性も高い。何にせよフレグにとってはカアン位を伺うことは不可能となってしまった。ひとまずクビライ支持を打ち出し、彼は攻めとったイラン方面を確保するため、アゼルバイジャンへ引き返した。これを以ってフレグウルス(イルハン国)の成立とするのが一般的である。
 この際、キトブカ死去の報を聞いたフレグは復讐の念に駆られたが、必ずしも彼の立場は盤石ではなかった。
 しかし、それでもアイン・ジャールートに先立つガザの戦いでバイバルスに敗れ、アイン・ジャールートでもなんとか逃げ伸びていたモンゴルの武将バイダルは、クトゥズ暗殺の報を聞き、この機に乗じるべくバイバルスによって失陥したアレッポを再度手に入れるため6000の兵を率いて再度シリアへ侵入し、1260年11月にアレッポを再占領する。
 アレッポの守備隊はハマーの守備隊と合流、ハマーそのものは放棄し、ヒムスまで退却、この三市の守備隊を連合させてモンゴルを迎え撃つ。もはや無敵神話は破れており、彼らは奮戦した。もとより敗残兵の寄せ集めである。結局モンゴル軍は潰走し、追撃を受ける。
 バイダルはアレッポまで退却したが、そこにバイバルスの派遣した援軍が到着するに至り、アレッポをも放棄するところとなった。

■王侯たちのその後
 マムルーク朝がエジプトに成立した後、バイバルスらバフリーヤを受け入れていた二人のアイユーブ朝の王侯、すなわちシリアのアル=ナースィル・ユースフとカラクのムギース・ウマルのことを記しておこう。
 先に記したように、シリアでアレッポとダマスカスを抑えていたナースィルは逃げる途中でフレグに捕らえられていた。フレグは彼にダマスカスを与えるのでこれを攻め取るよう命じる。これは彼がアゼルバイジャンへ帰還してからのことである。1260年の4・5月頃か。
 しかし、あるシリア人が彼は恐らくクトゥズと結ぶだろう、とフレグにほのめかす。フレグはモンゴルの300騎にナースィルを殺すよう命じ、その一行は殺されつくした。一時はアレッポとダマスカスを抑えた、英雄サラディンの子孫のあっけない最後であった。
 さて、一方のムギース・ウマルはどうか。
 アイン・ジャールートの戦いの後、バイダルの再侵入まで、十字軍国家領以外のシリアは尽くマムルーク朝のものとなっていたが、カラクのみはウマルが確保していた。彼はフレグとマムルーク朝の間で綱渡りを行うが、結局バイバルスに捕らえられてカラクは彼に占領されるところとなるのである。
 こうして、シリアにおいてもアイユーブ朝の支配する独立領は無くなった。

■カイロ=アッバース朝
 先に、バイバルスには支配の正統性がなく市民は彼を信頼していないと書いた。しかし、クトゥズの凱旋が心待ちにされていたことからわかるように、少なくともカイロ市民にとっては「トルコ人の支配者」に関してはモンゴルに対する勝利によって許容すべきものと思われていたと取ってよいだろう。問題は、バイバルス個人の正統性である。
 しかし、1261年5月、折よい報せがダマスカスのアイダキンのもとからカイロへ届く。なんと、バグダードの最後のカリフ、ムスタアスィムの叔父と称する人物が、50騎ばかりのアラブ遊牧民に守られてダマスカス郊外へ到着したというのである。彼の名はアフマド・ブン=イマーム・アル=ザーヒル。バイバルスはただちにダマスカスへ使いを送り、一行をカイロへ送り届けるよう命じた。
 5月30日彼がカイロへ到着し、その後の6月13日、バイバルスは宗教関係者、軍司令官、有力商人を城塞に招集し、アフマドをカリフとして擁立する儀式が行われた。これがカイロ=アッバース朝のカリフ、ムスタンスィル(位1161-1162)である。このカリフに関してその権威を認めたのは、エジプトのマムルーク朝よりやや早くマムルーク政権を打ち立てていたインドの奴隷王朝(1206-1290)など、ごく一部の政権のみであった。チュニジアに成立したハフス朝(1228-1574)の如きは、マムルーク朝との関係は良好であったにも関わらず自らカリフを名乗っていたのである。
 さはさりながら、バイバルスはカリフからスルタンとして承認され、国内ではその正統性を確固たるものとすることができた。むろん、建前上は、であり、彼の人気はその実績によるものである、ともいい添えておかねばならない。
 この後、バイバルスはいささか不可解な行動を取る。ダマスカスから300騎を付けて、バグダードへカリフを送り出したのである。当然、この程度の兵力ではバグダードへたどり着くことなど出来ず、あっさりとモンゴル軍に捕まり殺されてしまった。これはバイバルスがあまりに強力なカリフ制権の成立を警戒したためとも言われる。
 この後カリフとして即位したハーキム(位1162-1302)は完全なお飾りであった。このカリフ制は、オスマン帝国のセリム2世によってマムルーク朝が滅亡し、最後のカリフ、ムタワッキルが後継者を残せず死去するまで続くのである。

■盟友ベルケ
 ところで、フレグが動くに動けなかった理由はまだある。それはバトゥの跡を継いだジョチウルスのベルケ・カン(位1257-1266)との関係であった。最初に、バイバルスはベルケと浅からぬ因縁を持つことになる、と書いたがご記憶だろうか。
 実はベルケは、イスラームに入信したことが確認される最初のモンゴル王侯であった。
 その信仰はどのようにして育まれたのだろうか。真相は不明瞭だが、15世紀のシャイバーニー朝の歴史家ウテミシュ・ハッジは『チンギスの書』の中で、ベルケが生まれた時、彼はムスリムの女性以外から乳をもらわず、また成長した後には聖者バーハルズィーに師事したと伝える。これは所詮伝説の域をでないが、どうやらこのバーハルズィーというスーフィー聖者が関わっているのは確からしく、イブン=ハルドゥーンもこの聖者とベルケの関係を伝えている。
 さて、ベルケはフレグのバグダード攻略に一万もの援軍を送っていたのであったが、フレグがカリフを殺害したことに対して、彼は深く憤った。さらに、カフカス以南の草原地帯がジョチウルスとフレグウルスの国境地帯となり、この上質の緑野を巡って、ベルケとフレグは対立することとなるのである。
 1161年から1162年、ベルケはデルベンドを越えて軍を南下させ、フレグもこれを迎え撃つ。しかし勝敗はつかない。さらに、中央アジア方面ではあの有名なカイドゥが蠢動している。バイバルスにとって、これは大きな奇貨となった。
 これまた都合のいいことに、1261年、ニカエア帝国のミカエル8世は、十字軍によって占領されていたコンスタンティノープルを奪回しビザンツ帝国を復興せしめていた。要は、ボスフォラス・ダーダネルス両海峡が完全にビザンツのもとへ戻ったのである。この海峡は、エジプトから海路でジョチウルスの領地であったクリミア半島へ赴くのに避けては通れない。その路が、ビザンツ帝国の復活によって安定したのである。
 バイバルスはビザンツと修好関係を結び、この通路の通過許可を取り付けた。ここに、ジョチウルスとマムルーク朝の同盟関係が築かれるのである。この同盟関係は、単にフレグウルスと対抗するためだけではなく、エジプトにとっては新たなマムルークの供給源を確保することにもつながった。そもそも、バフリーヤはキプチャク草原から連れてこられたクマン人である。ジョチウルスは、そのバトゥ西征以降、大量のクマンを政権・軍団内に抱え込んでいたから、実はマムルーク朝とジョチウルスは似た者同士でもあった。
 ベルケは、バイバルスへ送った書状の中で以下のように述べる。「私と私の4人の兄弟は別の方面からフレグと戦うため、イスラームの光塔を立て、導きの居所をかつての繁栄とアッラーの称名、アザーンとクルアーン読誦、サラートの行われる状態へ戻し、イマームたちとウンマのために復仇するために立上がった。」(岡本2007)
 この同盟関係はバイバルスの没後も長く続くこととなる。

■バリード網の整備
 アッバース朝カリフを擁したバイバルスは、次にエジプト=シリア間のバリード(駅逓)網の整備にとりかかる。数十kmごとに駅舎をおき、買え馬と管理人、馬引がそれぞれ配備される。これはモンゴル帝国のジャムチと同様のシステムである。これによって、ダマスカスからカイロまで四日、さらにカイロから上エジプトのクースまで四日で到達できるようになった。バイバルスはこのバリード網と伝書鳩網を利用し、週に二回、各地からの情報を収集し、中央たるカイロの城塞で地方の動向を把握する中央集権的な体制の確立をはかったのである。
 ところで、当時マムルークの騎士達の間では、ポロが流行していた。これは馬に乗って走りながら玉を打つという運動量の激しいスポーツであるが、バイバルスは一週間のうちにカイロとダマスカスでポロ競技を楽しんだという。普通、伝令は駅で交代するが、バイバルスは馬を変えるだけで走り通し、その疲れも見せずにポロに打ち興じたというのである。超人的な体力であるが、彼の戦歴を見ていれば納得できるものがあろう。
 さてしかし、この駅逓を維持するには買え馬が必要不可欠である。マムルーク朝時代にはチュニジアのハフス朝から良質の馬を購入したり贈ってもらったりしていたこともあるようだが(彼らの軍事母体はベルベル系の騎馬遊牧民である)、大部分は在地のアラブ遊牧民(ウルバーン)に供給してもらうしかない。しかし、彼らはアイバク期の叛乱に見られるように、甚だ安定した統治の難しい存在であった。彼らを体制内に組み込まねば、バリードは維持できないし、何より治安が持たない。
 1261年、バイバルスはシリア各地の遊牧民アミールにイクターと俸給を与える政策を実行に移した。これは国境の警備とモンゴル軍の動きの把握が主な目的であった。さらに二年後にはウルバーンの諸部族を駅逓へ奉仕させることを命じた。こうして、バリード網は確固たるものとなった。
 この情報網兼軍事路の整備により、バイバルスは外征へ打って出ることとなる。すなわち、対モンゴル、対十字軍戦争であった。
プロフィール

鉄勒京二

Author:鉄勒京二
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