バイバルス伝 6.転戦、ヌビア~アナトリア(上)

以下詳細
 
■連戦三十八回
 数え方にもよるのだろうが、バイバルスは一説に17年間の治世中、シリア方面で外敵と干戈を交えること38回、そのうち半数は親征だったという。一年に一度は陣頭に立っていたことになる。
 バイバルスは即位してすぐに、主力のテュルク系マムルークを補助するアラビア人補助隊の編成、エジプト艦隊の創設、アレキサンドリア要塞の建築、ダミエッタとロゼッタの両ナイル河口の防衛強化などに専念し、軍事力の強化に努めていた。
 主な敵はモンゴルと十字軍国家だが、1260年代はじめの状況をもう少し詳しく整理しよう。
 まず、モンゴルのフレグウルスとジョチウルス。これは先程も見たように、フレグウルスをジョチウルスのベルケとの同盟で押さえ込んでいる。しかし創業のフレグは健在であり、シリア侵入を諦めてはいない。
 ジョチウルスに対しては、バイバルスはビザンツ経由で定期的に使節を交換し、コーランなどを贈り、またベルケの名をフトバに詠み込むなどしている。
 シリア沿岸部にあった十字軍国家は北から順にアンティオキア公国、トリポリ伯国、イェルサレム王国(イェルサレムは失陥しているので実質アッカ王国である)。さらに、小アジアの南岸部、キプロス島の対岸キリキアにはアルメニア人たちのアルメニア王国が存在している。このアルメニア王国は、カフカスに存在するもう一つのアルメニア王国(大アルメニア王国:ここが本来のアルメニア人の本拠地である)と区別するためにキリキア・アルメニア王国、ないし小アルメニア王国とも呼ばれる。
 このうち、イェルサレム王国は先述のようにアイン・ジャールートの戦いの際、マムルーク朝に対して協力的中立の立場を取った。
 しかし、キリキア王ヘトゥーム1世(位1222-1270)と、彼の娘婿アンティオキア公ボエモン(ボヘモンド)はモンゴル側に参戦し、あろうことかダマスカス攻囲に参加していた。特にヘトゥームはかなり早くから親モンゴルであり、自らカラコルムへ赴いてモンケ・カアンに臣下の礼を取っている。
 ダマスカスが陥落した時、入城したキリスト教徒である三人の司令官は、モンゴルのキトブカ(ネストリウス派)、キリキアのヘトゥーム(アルメニア正教)、アンティオキアのボエモン(ローマ・カトリック)だったのである。また、ボエモンはトリポリ伯も兼ねていたので、トリポリ伯国はこの時やはりモンゴル側に付いて兵力を捻出していた。
 アンティオキアのボエモンはこの事を咎められてローマ教皇から破門されているが、彼にしてみれば必死の賭けであっただろう。マムルーク朝かモンゴルか、どちらかに付かねば国が滅亡するのは目に見えていた。明らかに強いと思われ、なおかつ諸宗教を差別しないモンゴルに付いたのはある意味当然の判断だったのだが、アイン・ジャールートでモンゴルは破れ、彼はこの賭けに負ける。滅亡は既に秒読みであった。
 考えてもみれば、イェルサレム王国がマムルーク朝についたのは、万一マムルーク朝がモンゴルに打ち勝った時のための保険であったかもしれない。
 さらに、マムルーク朝にとって無視できないのがアフリカ・アラビア諸国との関係である。

■1260年代はじめのアフリカ・アラビア諸国
 必ずしも干戈を交えた国家ばかりではないが、この機会に一度、バイバルス時代のマムルーク朝と関係を持った当時のアフリカ・アラビア諸国をまとめて見ておくこととしよう。

○ヌビア、マクリア王国
 現在の北スーダンとエジプト最南部にまたがっている地域、いわゆるヌビア地方にはヌビア語話者の人々によって北部のドンゴラを首都とするマクリア王国、南部のスウバを首都とするアロワ王国が存在していた。エジプトの勢力と関係を持つのは専ら北部のマクリア王国である。アロワ王国に関しては580年頃に王がコンスタンティノープルの宣教師によって洗礼を受けたと伝えられる。
 この二国はキリスト教国であったが、必ずしもエジプトのイスラーム国家との関係は悪くはなかった。特にファーティマ朝時代(909-1171)、この王朝の軍事力はヌビアから送られてくる黒人奴隷兵によって支えられていたのである。しかし、続くアイユーブ朝時代にサラディンはバイナル・カスラインの戦いで黒人奴隷兵を一掃する。これがヌビアとエジプトの関係に陰を落とした。
 1258年、バグダード陥落によって逃亡してきたムスリム達のうちこのヌビア地方へ避難してきた者が相当数いた。1260年代はじめには現地人と、この避難民との間で紛争が多発しており、さらに王位をめぐる内紛も起こっている。バイバルスは、北方で十字軍やモンゴルと戦う傍ら、この南方の問題にも当たらねばならなかった。

○チュニジア、ハフス朝
 1269年、ベルベル系遊牧軍事力に支えられ、エジプトを除く北アフリカとイベリア半島南部を抑えていた巨大帝国、ムワッヒド朝が滅んだ。これと前後して、北アフリカには西から順にマリーン朝、ザイヤーン朝、ハフス朝が成立し、イベリア半島ではかつてのズィール朝王家の生き残りがナスル朝を立てていた。
 エジプトとの関係で重要な国家は、チュニスに成立したハフス朝(1227-1574)である。この国の王家はもともとムワッヒド朝のチュニス総督であり、ハフス朝はムワッヒド朝の正統的後継者を自認していた。ハフス朝とマムルーク朝の関係は概して良好であり、種々の機会に贈り物や儀礼の交換が行われていた。
 ハフス朝のアブー=アブドゥッラー・ムハンマド(位1249-1276)は、メッカのシャリーフが彼のメッカ支配を認めたため、アミール・アル=ムウミニーン(カリフの称号)を名乗っていた。1261年、バイバルスはカイロにアッバース朝カリフを立てたため両国の関係は冷え込むが、後に十字軍との共闘関係を結ぶなどしており、これはそれほど深刻なものではなかったようだ。

○ニジェール流域、マリ王国
 タクルール(現在のマリ共和国周辺)にあったマリ王国は距離が遠かったもののマムルーク朝と国交があり、巡礼者もエジプトを通ってメッカへ向かっていたようである。マンサー・ワリー(ワリー王の意)は、バイバルスの治世中にエジプトに立ち寄ったが、彼は聖地巡礼のためにエジプトを通過した最初のマリ王であった。後には有名なマンサー・ムーサがエジプトを通ってメッカへ向かい、気前よく金をばらまいたのでカイロの金相場が下落したという逸話が残る。

○エチオピア王国
 エチオピア王国の歴史は古く、エジプトとの関係は紀元前に遡る。
 バイバルスの治世はエチオピアにおいて、ザグエ朝からソロモン朝の交代期に当たる。エチオピア王国はマムルーク朝と国境を接していなかったので、特に政治的・軍事的衝突が起こることはなかった。
 当時のエチオピア王国はキリスト教時代であり、エチオピア王国では支配者が変わるとアレクサンドリアの大司教にその支配の正統性を担保してもらっていた。大司教は、エジプトのスルタンに司教を派遣する許可をもらう慣例であった。
 バイバルスはエチオピア王国へ使節を派遣したことがあったが、この時エチオピアの王位継承の内乱に巻き込まれて使節の帰国が遅れたことがあった。バイバルスはこれに怒って司教の派遣を許さず、ようやくマムルーク朝がカラーウーンの時代になるに至ってエチオピアは新たな司教を迎えることが出来たという一幕がある。

○イエメン、ラスール朝
 ラスール朝(1229-1454)は、アイユーブ朝のイエメン支配の後に成立したトルコ系の王朝である。バイバルスと同時代人のスルタンは二代目の英主アル=ムザッファル・シャムス=アッディーン・ユースフ(位1250-1295)であった。
 ラスール朝は初代マンスールと、この二代目ムザッファルの時代に低地イエメン、ヒジャーズの諸地域のみならず、ハドラマウト・ズファール地方や海峡を隔てた東北アフリカの海岸地帯とダフラク諸島にも勢力を拡大している。ラスール朝は海峡を支配下に置くことにより紅海貿易を抑え、莫大な利益を得ていた。名前が表に出ることは少ないが、この時代の政権としてはかなり強力な部類に入る。
 ラスール朝とマムルーク朝は、しばしばメッカの保護権と紅海貿易の権益を巡って対立を起こしていた。また、ラスール朝がマムルーク朝を共通の敵とするフレグウルスと友好関係を深めようとしていた可能性も高い(家島1994)。

○メッカ、シャリーフ政権
 アイユーブ朝時代からメッカ・メディナはエジプトの支配下にあったが、この二聖都を含むヒジャーズ地方はイスラーム諸王朝にとっては特別な領域だった。10世紀以降、シャリーフ(ムハンマドの子孫)がメッカに自立した政権を築いており、これをシャリーフ政権と呼ぶ。
 マムルーク朝は「二聖都の保護者」を自認していたが、イエメンのラスール朝やフレグウルスはしばしばメッカの政治に介入し、マムルーク朝と衝突することもあった。
 バイバルスがシャリーフ政権の内紛に乗じて行ったヒジャーズ遠征は1266~68年、メッカ巡礼は69年のことである。

■焦土作戦、モンゴルの避難兵(1262-63)
 ここから先の出来事は時系列順に書いていくと対象が頻繁に変わり混乱すると思われるので、ある程度まとめて記すこととする。
 1262年、バイバルスはフレグがイラン全州から軍を集めているという情報を得て、ダマスカスの住民をエジプトへ避難させ、アレッポの長官にアーミド街上の草原を焼き払い、輜重として利用できないようにする命令を発した。
 このフレグの部隊招集はジョチウルスに対しての出兵の準備であったので、結果的に無駄になったのだが、この時に偵察隊がモンゴル人の一部隊と遭遇した。これはベルケがフレグ西征に援軍として差し向けていた部隊の一つであって、ジョチウルスとフレグウルスが戦争に入るに当たって避難してきたのだった。この200騎の騎兵とその家族は、カイロへ迎えられ厚遇された。これ以降、エジプトはジョチウルスのモンゴル兵にとって避難所の役割を果たすこととなる。
 ジョチウルスとエジプトが正式に同盟を結ぶのはこの頃である。

■対キリキア・アルメニア王国戦争(1262-67)
 フレグの軍隊がベルケとの抗争で忙殺されている間、キリキア王ヘトゥームはフレグの命令によってマムルーク朝の領土へ侵入を開始した。1243年のキョセ・ダーの戦いで同じくモンゴルの属国となっていたルーム・セルジューク朝と同盟を結び背後を固め、アンティオキアの北方、アインターブへ進軍した。
 バイバルスはハマーとヒムスの軍をあわせアレッポへ進軍するよう命じ、エジプト軍も救援として赴いた。キリキア軍は奇襲を受け潰走し、ルーム領内に駐屯していたモンゴル部隊700騎に援助を求めた。キリキア軍は援軍を得て再度シリア方面へ進軍し、アンティオキアの百五十人の騎士もこれに合流する。
 この部隊はハリームの草原に幕営を置いたが、雪と雨のため大損害を被り、糧秣が不足したため後退を余儀なくされ、その退却中に追撃を受けた。
 エジプト軍はこれをそのまま追ってキリキアの国境地帯まで進撃、これを荒らす。ヘトゥームは軍を維持出来なくなり、これを解散した。
 これを知ったエジプト軍はその足でそのままアンティオキア公国へ進撃した。
 1265年、フレグ死去の機会に乗じてバイバルスはキリキア王国に服従を迫るが、ヘトゥームは宗主国フレグウルスを恐れて満足のできる回答をよこさなかった。バイバルスの侵攻を恐れたヘトゥームは、再度ルーム領内のモンゴル軍に援軍を乞うが、今回はカンの許可が無いという理由で援軍の派遣がのぞめない。ヘトゥームは、そこでモンゴルに直接援軍を乞うためにその地から使節を派遣した。
 1266年、バイバルスの命によって遠征軍の司令官となったカラーウーンは、かつて誰も軍を率いて通過することの出来なかったイスケンデルン渓谷を俯瞰する山地を突破、セルンド塞の付近で、この渓谷を守っていたヘトゥームの子レーオンを攻撃、捕虜とした。この時、レーオンの弟トロスは戦死したと伝えられている。
 さらに彼らは進軍し、テル・ハムドゥーンを経由、さらにテンプル騎士団が所持していたアームディーン要塞を占領し、首都シイスに火を放った。
 国王ヘトゥームがモンゴルとルームの援軍を率いて帰ってきた時、エジプト軍は既に国境の外に帰還した後であった。
 この後、ヘトゥームはフレグウルスに対して、エジプトへ報復するための援軍を要請するが、フレグウルスは他の敵に立ち向かうことに忙しく、キリキアにかかずらうどころではなかった。仕方なくヘトゥームはバイバルスと講和を結ぶべく使節をバイバルスの宮廷へ派遣する。
 この時、バフリーヤの武将であったサンカル・アル=アシュカルは、先述したようにアレッポ城の牢獄につながれていたところをモンゴル軍に発見されて、フレグのもとで捕虜となっていた。バイバルスはヘトゥームに対してサンカルの釈放をフレグウルスへ働きかけるよう要求する。
 城塞の返還などを巡って対立があったものの、1267年6月、アンティオキア市において休戦条約が締結され、キリキアはエジプトの宗主権下に入り、人頭税を収めることとなった。1268年7月にはおよそ8年ぶりにサンカルはバイバルスと再会することができた。
 この一連の出来事で精根尽き果てたヘトゥームは、フレグウルスに許可を得て退位し、息子のレーオンに譲位して僧侶となって修道院に暮らしたと伝えられている。
 即位したレーオン3世(位1269-1289)は、即位するとただちにフレグウルスへ援助を求めに行ったが、1274年から1275年にかけてバイバルスに再び征伐され、バイバルスの没後、スルタンとなったカラーウーンに対しても毎年人頭税を支払うことを約した。

■対十字軍戦争(1265-)
 フレグ没後の1265年、バイバルスは十字軍に対しても本格的な攻勢を開始した。
 カイサレア(65年2月27日)、アスリース、ハイファを十字軍から奪還し、アルスフは聖ヨハネ騎士団が40日に渡って頑強に防戦したので騎士団員の使命財産を保障してこれを開城させた(4月26日)。次いでアッカを攻撃するもその防備の硬さに、1266年サファドへ転じ、ここを奪取。この際、生命の安全を保障して開城させたがその約に背いておよそ2000人の住民を殺し、史家の批判するところとなる(66年7月25日)。カラーウーンがキリキアへ派遣されたのはこの頃である。
 1268年にはヤーファを占領(3月7日)、アンティオキアを攻め、5月に10万の住民を捕虜とし、8千の守備軍を降伏させた。この攻防はこの街の歴史からすればほとんど一瞬、わずか4日で決着が付いたと伝えられている。アンティオキアは火を放たれ、ここに1097年からの歴史を持つアンティオキア公国はあっけなく滅亡するところとなる。この戦いは、十字軍国家全ての滅亡を覚悟させるところとなった。
 この時、バイバルスはトリポリ伯とアンティオキア公を兼ねていたボエモンに対して辛辣な手紙を送っている。
「アンティオキア落城により、公から伯へ成り下がりし高貴かつ勇敢なるボエモンへ……(略)……汝はアンティオキアにいなかったがためにその命を永らえた。この手紙でそれを知り、汝は胸をなでおろしているであろう。……(略)……しかし神はおそらく、汝を降伏させるためのみに、汝の命を永らえさせ給うたのだ」
 ボエモンは、この手紙を受け取ってどんな思いであったか、休戦協定を申し出て受け入れられる。
 1270年、ルイ9世がチュニジアのハフス朝に対して十字軍を起こす。バイバルスはカイロへ帰還し、その情勢を注視していたが、ルイ9世が死去したため援軍派遣は取りやめとなった。この十字軍については補論で扱う。
 1271年、バイバルスはシリアへ戻り「騎士の城」、ことクラク・デ・シェバリエの攻囲を開始する。
 この城は元来、クルド人傭兵部隊が駐屯していた要塞で、ヒスン・アル=アクラード(クルド人の城)と呼ばれていた。しかし1110年、アンティオキア公国はこの城を奪取し、強固に改築する。この城はアンティオキア公からトリポリ伯へ所有者が変わった後、1142年に聖ヨハネ騎士団の所持するところとなっていた。
 1163年、クラクのヨハネ騎士団は当時のイスラーム世界の雄であったヌール=アッディーンの攻撃を受けるも逆に奇襲をかけ、これを撃退する。二度のアイユーブ朝スルタンの攻撃、すなわち、1188年のサラディンの攻撃、1208年のアル=アーディルの攻撃を跳ね返し、この城塞はなおも健在であった。
 バイバルスはまず、1171年の序盤をこのクラクの出城を尽く陥落させ、この強固な城塞を孤立させることに費やす。3月、バイバルスはクラクを包囲し、投石機で石弾を雨あられと打ち込む。城壁に穴が空き、エジプト軍はここから城内へなだれ込んだ。15日には本丸への進路を塞いでいる塔を陥落させ、30日には工兵隊が本丸口の塔を破る。本隊は中庭を占領し、そこに投石機を設置した。
 ヨハネ騎士団は塔に篭って最後の抵抗を試み、粘り強く抗戦する。しかしこの時、突然命がけで使者がこの塔に飛び込んだ。トリポリ伯が、これ以上の抵抗をやめて降伏せよと伝えている、とのことであった。ここに来て緊張の緒が切れた騎士団は、ようやくバイバルスに降伏を申し出る。彼らが城を後にしたのは4月8日のことであった。――実は、この使者もトリポリ伯の伝言も全てバイバルスの仕組んだペテンだったのだが。
 こうしてクラクは破壊を免れ、その姿を今に残している。
 1269年、キプロス島に成立していた十字軍国家、リュジニャン朝キプロス王国の王、ユーグ3世(位1267-84)が、イェルサレム王国の王位を継ぎ、二国家の国王を兼ねるところとなる。
 ユーグはシリア沿岸の十字軍国家を援助するため、地中海においてムスリムの船を襲う。1270年にバイバルスはキプロス島を攻撃するため17隻の船団を派遣したが、この艦隊は嵐の海に飲まれてしまい、乗員はキプロス王国の捕虜となってしまう。
 ユーグは得意げにバイバルスにこれを知らせたが、バイバルスは「鉄や木材を捕獲して威張るとは馬鹿な男だ。強固な要塞を取ったわけでもあるまい。暴風雨による勝利しか誇るものがないとは、奴は誇りうる剣による勝利を経験したことがないと見える。櫂を与えられたものは皆漕ぐが、剣を与えられた者が皆剣をよくするとは限らないのだ」というような内容の言葉を述べ、返書にしたためて送りつけたという。
 1271年6月、今度はドイツ騎士団の本部が置かれていたモンフォール城を開城させる。ドイツ騎士団はバイバルスによってアッカ近郊まで連れてこられて解放された。
 同年にイングランドの王太子エドワード(後のエドワード鉄槌王)が十字軍を率いてアッカに上陸していたが、エドワードはこの時にバイバルスの軍勢を遠目に見て、敵わぬと悟ったという。

■シリアのニザール派暗殺教団
 先述したように、イラン方面のニザール派、すなわち暗殺教団はバグダード陥落以前にフレグによって壊滅したが、その分派、マシャフを拠点としていくつかの要塞を保持していたシリアの暗殺教団は未だ健在であった。
 バイバルスは対十字軍作戦に従事する傍ら、この過激派に対しても攻勢をかけ、1270年から73年にかけてその城塞を逐次陥落させ、全てを手中に収めた。
 ところで、先述のイングランド王太子エドワードがアッカに滞在している時、以下のような事件があった。
 あるサラセン人(イスラーム教徒のこと)の男が、受洗するためにアッカにやってきたので、エドワードはその者に洗礼を授け、家中に加えてやった。この男はエドワード王太子の召使としての地位を確かにし、ムスリムの間で偵察をして何処が弱いかをよく見つけてきた。このため、エドワードはこの男をたいそう信頼するようになり、この男の出入りを拒んではならない、との命令を出した。
 ある夜、この男はエドワードとその后が眠っている寝室へ行った。彼は、諜報活動から帰ってきたのでエドワードと話がしたい、との意を伝えた。
 皇太子は自ら扉を開く。刹那、この男はエドワードの腰に小刀をつきたて、深手を追わせた。しかし、エドワードも武勇に優れる男である。エドワードは一撃を受けながらもすかさずその男のこめかみを殴りつけた。そのため、この男は気を失って伸びてしまった。エドワードは部屋にあったテーブルナイフを手に取り男の眉間を割り、殺したのであった。
 この顛末は、ティールのあるテンプル騎士が伝えている。信頼を得て暗殺対象に近づき、短刀の一撃で相手を葬り去る。これはまさに、暗殺教団が得意とする方法であった。シリア、イラク、エジプトの暗殺教団は依然として職業的暗殺者として、相応の代償を受けてスルタンに奉仕していたというから、これはバイバルスに雇われた暗殺教団の生き残りである可能性が高い。
 もっとも、このような手段を用いずともエドワードは結局イングランドへ帰っていったのだが。
プロフィール

鉄勒京二

Author:鉄勒京二
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