バイバルス伝 7.転戦、ヌビア~アナトリア(下)

以下詳細
 
■フレグ死す
 ここから先は、バイバルスの対モンゴル戦である。まずはアイン・ジャールートの後のフレグの動きを簡単に見ておこう。
 1262年、フレグはイラン全州から招集した軍を率いて北上した。これはジョチウルスから南下した王族ノガイ(初代カンのジョチの曾孫に当たる)を迎撃するためであった。この時、バイバルスは先述のように草原を焼き払い、シリアへの侵攻路を断っている。
 フレグは緒戦でノガイを敗走させたが、ノガイが遺棄した幕営で酒宴にふけっているところを、引き返したノガイに逆に奇襲され、敗走することとなった。
 フレグはこの敗北に意気消沈して本拠地タブリーズへ帰るが、それは1263年4月のことであった。
 この後、フレグは建築に熱中する。仏教寺院を建築し、また彼はナスィール=アッディーン・アル=トゥースィーという学者を抱えていたが、彼のために天文台を建てた。
 1264年の末、モンゴル軍は今度はシリア方面へ進軍し、アル=ビーラ市を包囲したが、この街の守将は頑強に抵抗した。バイバルスはイッズ=アッディーン・アイガーンとジャマール=アッディーン・アイドグディの二将にそれぞれ四千騎ずつの兵力を与えビーラへ強行軍で向かわせる。バイバルス自身も1266年に出撃したが、敵が撤退したという情報をビーラへ向かう途上で聞いた。実は既にこの時、フレグは死去していたのである。
 フレグは1265年2月8日、日曜日の夜、シャガトゥ河畔の地で48歳の生涯を終えた。当時のモンゴル人としては平均的な寿命であっただろう。

■アバカの即位とバイバルスへの対応
 フレグの死後、即位したのはフレグの長子アバカであった。彼はすぐに本拠地へ向かい、即位を済ませた。これがフレグウルスのアバカ・カン(位:1265-1282)である。アバカはビザンツ皇帝ミカエル8世の娘と結婚し、ビザンツ帝国と同盟を結んだ。
 先に書いた通り、ビザンツ帝国はジョチウルス=エジプト同盟の協力者でもあり、実質二面外交を行なっていたことになる。当時のビザンツ帝国は、保険をかけねば生き残れぬほどの力しか持っていなかったのだ。
 ジョチウルスのベルケはこれに乗じて南下し、攻撃をかけようとするが、遠征途上で頓死する。いかにも怪しいタイミングでの死去だったが、アバカはこの幸運によって最初の危機を切り抜けた。
 ベルケの後を継いだのはモンケ・テムル(マング・ティムール)・カン(位1267-1280頃)であったが、彼もエジプトとの同盟を重視し、引き続き使節を交換している。
 さて、1269年、アバカはバイバルスへ使節団を派遣する。アバカは書簡の中で、バイバルスがクトゥズを暗殺したことを非難し、さらに使者はかつてシヴァスで売られたひとりのマムルークがどうしてスルタンとなったのか、と言った。さらに彼を脅迫し、講和を結ぶことが利益であると知れ、と申し述べた。バイバルスはこれを一笑に付し、「私がクトゥズを殺したのは事実だ。しかし私は国民一致の賛同によってスルタンたることを承認された。貴下は我々を攻撃しようとする意図を明言している。いいだろう、来るなら来い。我々は準備をして貴下が来るのを待ち受けておこうではないか。これによって我々はムスリムが失った地方を回復することを望むものである」と、返答を行い、この使節を追い返した。
 アバカはこのように脅迫を行ったものの、中央アジアのチャガタイウルスのバラクの国境侵犯への対応に追われ、エジプトと戦うどころではなかった。実際、1269年にモンゴル軍は十字軍国家と計ってシリア方面へ進出したが、バイバルスが派遣したダマスカスのアイダキンの到着を待たずにモンゴル軍は撤退している。アバカがバラクをカラ・スゥの戦いで撃破したのは1270年7月のことであった。

■バイバルス、アバカ軍を撤退させる
 この時期、追い詰められていた十字軍国家はアバカに対して自分たちを援助するため牽制攻撃に出てくれるよう強く頼んだ。そのため、アバカはルーム駐屯のモンゴル軍、将軍サマガル指揮下の一万騎と、ルーム・セルジューク朝の宰相の指揮するテュルク系の一部隊とを合わせて1271年にシリアへ侵入させた。
 かつてのタマ軍の司令官バイジュの子、アマルはアレッポ方面へ侵入し、幕営していたトルクメンの一部族を奇襲してこれをなぎ倒し進軍、アレッポの守備隊はハマー方面へ退却した。ダマスカスでは動揺が広がり、住民の多くがエジプトへ向かって逃げていく。
 同年10月24日、ダマスカスにいたバイバルスはカイロにいた将軍バイサリーに3千騎を率いて来援するよう命じた。11月9日にダマスカスへ到着したこの援軍を伴い、バイバルスはアレッポへ向かったが、モンゴル軍はバイバルスの進軍を知って既に退却した後であった。
 これと前後して、十字軍が呼応してカクーン地方へ侵入したが撃退されている。

■交渉決裂、再戦
 バイバルスはアバカから再び使節が送られてきたのを謁見したが、結局この講和の交渉も物別れに終わる。
 決裂の後、1272年10月、アバカが派遣したモンゴル軍がビーラへ向けて進軍したが、バイバルスはこれを撃退するためカラーウーンを伴い出撃する。
 モンゴル軍はユーフラテス河の対岸に陣張っており、バイバルスは船を運んできていたのでこれを用いてモンゴル軍を攻撃するつもりであった。
 モンゴル軍は、あえて浅瀬ではなく河の深い地点へ陣を張っていた。エジプト軍はこれに騙されて深い地点へそのまま渡河を試みる。あえなく失敗に終わるかと思われたが、カラーウーン隊は馬を操り泳がせて渡河し、またバイバルスは同じように先陣を切って河を渡ったと伝えられる。
 塹壕に囲まれた陣に立てこもっていたモンゴル軍は、攻撃に晒され多数の戦死者を出して撤退していった。
 この後、バイバルスは包囲を受けていたビーラへ赴き、守備隊に厚い恩賞を与えた。

■ヌビアを撃つ
 これと同時期、南方のヌビア地方ムカッラ王国のシャクンダが甥のダーウードに追い落とされ政権を奪われた。シャクンダ王はエジプトに朝貢し忠誠を誓っていたが、ダーウード王はバイバルスがモンゴル軍と十字軍との戦に謀殺されている間、1272年にエジプト領へ侵入し、アスワーンや紅海の港アイザーブを襲撃して多数のムスリムを捕虜とした。
 先に書いた通り、ヌビアではムスリムの避難民と地元民の間で軋轢が起きており、さらにキリスト教徒であったダーウード王は十字軍に対して同情的であったため、このような挙に出たのだろうと考えられる。
 アイザーブ港の襲撃は紅海貿易に痛撃を与え、聖地巡礼者の安全を脅かし往来を遮断するものであったため、バイバルスは翌1273年に小規模の征討軍を派遣したが、ダーウードは奥地へ逃亡し、エジプト軍は南部国境周辺を征討したのみに留まった。
 その後、追い落とされた前王シャクンダがカイロを訪れ、ダーウードと戦うための援助を求めた。そこでバイバルスは長期戦を覚悟し強大な遠征軍を組織し、アクソンコル・アル=ファリカーニーとイッズ=アッディーン・アル=アフラム(先に書いた上エジプトへ赴任していたアミールと同一人物と思われる)を遠征軍の司令官に任命した。
 1275年冬、二将はヌビアへ向かって進軍し、ダーウードを破る。ダーウードは再び奥地へ逃亡した。シャクンダは首都ドンゴラで再度即位し、エジプトとの新協定を結び、関係を強化した。金鉱脈があったと思われるヌビアの北部地域はエジプトの直轄領となり、他のヌビア諸地域もヌビア王とスルタンの共有となった。実質上の属国化がさらに進んだと考えてよい。さらに、ヌビア国内の成人男女に人頭税をかけ、これをエジプトへ収めることも定められた。
 バイバルスはカイロにヌビア庁を設置し、人頭税の納付を監督させた。遠征軍は1276年に成功裏にカイロへ凱旋することとなった。ダーウードは同年のうちに捕らえられ、カイロへ送致されている。

■ルーム・セルジューク朝内情
 一方の北方はどうであったか。
 ルーム・セルジューク朝はアナトリアに成立したセルジューク朝の地方政権であり、カイクバード1世のもとで最盛期を迎えたが、キョセ・ダーの戦いでモンゴル軍に惨敗した後はモンゴルに臣従していた。モンゴル軍がルーム領内に駐屯していたのはこれまで見た通りである。
 このルーム・セルジューク朝は二人のスルタン、兄イッズ=アッディーンと弟ルカン=アッディーンが協治しており、それを二人に共通の一人の宰相がつなぎとめている形であった。しかしこの宰相が死去すると、それぞれ別々の宰相を置いた二人のスルタンの関係は俄に緊迫する。
 ルカン=アッディーンの宰相パルワーナはフレグの代官を買収し、イッズ=アッディーンがバイバルスとぐるになり、反旗を翻すつもりである、と伝えた。
 実際イッズ=アッディーンは1262年にバイバルスに使節を送り、自分の国の半分をバイバルスに譲りたいと明言していた。イッズ=アッディーンは名前の入っていない証明書を複数枚添付し、バイバルスが望む者にイクターを与えるのに、この証明書を使ってもらってよい、と誘ったと伝えられている。
 バイバルスはダマスカスとアレッポの軍隊にイッズ=アッディーンを援護するよう命じたが、イッズ=アッディーンは独力で既に弟ルカン=アッディーンの持つコンヤ市を包囲しており、援軍は不要となっていた。
 フレグはこのイッズ=アッディーンを殺すよう命じたが、イッズ=アッディーンはうまく逃げおおせ、コンスタンティノープルのミカエル8世にかくまわれた。先に書いた通り、ビザンツ帝国はこの当時軍事的には極めて弱小であり、また一国でも敵とすることを避けねばならない状況にあった。そのため、イッズ=アッディーンはビザンツの援助でスルタンに返り咲くというあてが外れてしまった上に、エーノスへ勾留されることとなった。
 しばらく後の1265年、ジョチウルスのベルケの軍がビザンツ帝国の領地を荒らし、イッズ=アッディーンを救出するところとなったが、ベルケはこの直後に没し、結局ジョチウルスの支援も得られずイッズ=アッディーンはジョチウルスの領内で死去する。
 一方、ルカン=アッディーンは兄イッズ=アッディーンを追い払い、ルームにおいてただ一人のスルタンとなったが、実権は全て宰相パルワーナが握っていた。しかし、ルカン=アッディーンはこの宰相パルワーナの専制を嫌っており、それを察したパルワーナはルカン=アッディーンに叛意があることをフレグウルスの宮廷に伝えた。
 ルカン=アッディーンはモンゴルの諸将との宴会に招かれた席上で、弓の弦で絞め殺されたと伝えられる。
 この後、彼の子ギヤース=アッディーンがスルタンとなったが、まだ四歳であり、国事はなおもパルワーナが壟断していた。

■バイバルスのルーム遠征
 その後、1276年、ルームで紛争が勃発する。宰相パルワーナと諸将が諮り合わせの上、エジプトへ臣従する計画を立てていたのだが、パルワーナが諸将を裏切ったので諸将は逃亡せざるを得なくなったのである。
 ルームの諸将はダマスカスへ逃亡し、バイバルスに迎え入れられた。彼らはルーム征服を試みたいとバイバルスに持ちかけたので、バイバルスはバイサリーとアックーシュに諮り、エジプトへ帰還すると同時に軍勢を整えた。
 1277年2月、バイバルスはエジプトにスルタン代理を置き、カイロを出発した。
 バイバルスはアレッポに一週間ほど滞在した後ルーム領へ進軍した。バイバルスは先遣としてサンカル・アル=アシュカルを分遣し、サンカルはまもなく3千のモンゴル軍と遭遇したがこれを潰走させる。一方バイバルスはモンゴル人とテュルク人の混成軍が終結していたジャイハーン河畔へ向かう。山脈を一つ超えたところ、アブルスターン平原に敵軍が陣営を張っているのを発見した。
 モンゴル騎兵は1万1千騎、三人の万騎長によって率いられていた。ルーム軍も近くにいたが、恐らくモンゴル軍は彼らを信用していなかったのだろう、モンゴル軍とは隔離されていた。またこの時、3千人のグルジア人部隊も参加していた。
 時は1277年4月16日の金曜日、極寒の日であった。
 モンゴル軍はまず左翼をエジプト軍の中軍に叩き込み、中軍を右翼の方へ押しやる。エジプト軍の右翼もまた混乱に陥る。バイバルスはこれを救援させ戦闘を再開、精鋭をまとめて突撃をかける。モンゴル軍は下馬して速射をかけ、敵の騎兵を弾幕で食い止めようとするがバイバルス自身が敵陣へ突入し、士気を鼓舞する。
 モンゴル軍はエジプト軍の勢いを支えきれず、大損害を出して追撃をうけながら撤退していった。モンゴルの将軍三人のうち二人は殺され、またグルジア人部隊は異常なまでの勇気を発揮し三分の二にあたる2千人が戦死者となったという。
 バイバルスはモンゴルの捕虜を連れてきて数人の上級将校以外を殺したが、ルームの諸将は助命した。

■ルームの戦後処理
 バイバルスは住民を安心させるよう言いつけ、サンカル・アル=アシュカルをカイサレアに派遣した。バイバルス自身は人影のない廃墟となった地方を横切ってサンカルに続いた。この過程でバイバルスは三箇所の要塞の司令官から降伏を受けた。
 バイバルスは歓呼の中でカイサレア市民に迎えられたという。彼はセルジューク朝のスルタンにならった方式で儀式を行い、礼拝を行った。
 バイバルスはルームの諸将がモンゴルのくびきに抵抗し、エジプト軍の力を必要とするものと考えていたが、ルームの諸将はアバカの復讐を恐れて動こうとしなかった。そのため、彼はこの地を後にすることになる。
 バイバルスは多くのキリスト教徒、特にキリキアで反抗的な態度を度々取っていたアルメニア人は殺したが、ムスリムの市民は決して虐待しなかった。民衆から供給された物資に対しては必ず正確に支払いを行っていたという。これはルームを略奪ではなく保護の対象として見ていたからであった。
 ともかく、バイバルスはルームの地を去り、ダマスカスへ凱旋していった。
 バイバルスが去った後、アブルスターンへ駆けつけたアバカはモンゴル軍の死体が累々と横たわっているにも関わらず、ルーム・セルジューク軍のそれが一つもないことに悲嘆しかつ激怒したと伝えられる。
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鉄勒京二

Author:鉄勒京二
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