サラディン伝 十字軍のダミエッタ攻撃

サラディン伝英訳P45-46
「フランク軍のダミエッタ攻撃に関する記事――神よその街を守り給え――」

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以下訳文
 フランクたちがムスリムとその軍勢がなにをしたか、そしてスルタンがエジプトでその地位を確立するのに成功したことを知った時、彼らは彼(サラディン)が得た力によって、やがて彼ら(フランクたち)の土地を奪い、彼らの領地を荒らし、彼らのいた痕跡を全て消し去ってしまうだろうということに気付いた。フランクたちとビザンツ人はエジプトを攻撃し占領するため会盟した。彼らは制海権と地上の勢力を確立するに容易く、橋頭堡とも避難先ともなるダミエッタを標的に定めた。彼らはトレビシェット(投石機)やテストゥード(亀甲)、弩弓、そしてその他の様々な攻城兵器を持ってきた。コレを聞き、シリアのフランクたちは息を吹き返しアッカール[原注:ヒムスとトリポリの中間にあった城]の砦をムスリムから奪い、旗頭のクトルフと呼ばれていたヌール=アッディーンのマムルークであったその領主を捕虜とした。これは今年[原注:522年]のラビー2月[原注:1169年12月-1170年1月]のことであった。ラジャブ月[原注:1170年3-4月]の間にヌール=アッディーンの友で、アミール・ハージブあったアル=イマーディーが亡くなった。彼はバールベックとタドムルの領主であった。
 ヌール=アッディーンがフランクの行動とダミエッタへの襲来を聞いた時、彼は彼らの心臓部を突くことを考え、そこで彼はシャアバーン月[原注:1170年4-5月]、カラクを包囲した。沿岸部のフランクが彼に対して動いた時、彼は包囲を解いて彼らと会敵するため進軍したが、彼らは彼の前には立ちはだからなかった。
 その時、彼はマジド=アッディーン・イブン=アル=ダーヤがアレッポで、565年のラマダーン月[原注:1170年5-6月]に亡くなったのを知った[原注:イブン=アル=ダーヤ兄弟は多くの城を保持する強力な家であった。マジド=アッディーン・アブー=バクルはヌール=アッディーンの乳兄弟であって、そのため彼らの家名は「乳母の子」の意であった]。マジド=アッディーンは統治の柱であったため、彼は深く動揺した。彼はダマスカスへ帰還し、そこでアレッポで地震があり、その地域の多くが荒廃したと知った。これは彼がアシュタラー[原注:ハウラーンにあり、ナワーの南]にいたシャッワール月の12日[原注:6月29日]に起こった。彼はアレッポへ向かったが、その時彼の兄弟のクトゥブ=アッディーンがモスルで亡くなったとの報せが入った。これは同年ダフール=ヒージャ月の22日[1170年9月6日]に起こった。彼はテル=バーシルいたときにその報せを聞き、深夜にモスル地域へ出発した。
 スルタンが敵のダミエッタ攻撃の計画が深刻さを増していることに気付いた時、彼は、街へ充分な人員、騎兵、補給品、兵器を送り、その防衛に自信を示した。彼は駐屯軍に人員の補充と補給、もし敵が包囲を始めれば敵を攻撃することを約束した。彼は贈り物に関してはとんでもなく気前がよく、強力な宰相であって、彼の命令は全く取り消されることはなかった。先述の日にフランクたちが街へ襲来し、攻城兵器を持ちだして攻撃し始めた。一方、スルタンは急ぎ、彼らの軍隊は突入を防いだ。神はムスリムを支援し給い、彼の助けと彼の計画はイスラームに勝利をもたらした。結局は、フランクが敗れ去り、正しい信仰が不信心者を征服することが明らかとなった。彼らは指導者を守り、逃げて命をまっとうすることにし、失望し疲れはてて撤退していった。彼らの投石機は燃やされ、装備は破壊されていった。彼らの多くは殺され、神の慈悲と好意により、彼らの攻撃から解放され、神の助けによって彼らの敵意ある刃はなまくらも同然となり、スルタンの地位は確固たるものとなった。
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鉄勒京二

Author:鉄勒京二
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