525年 記事番1 デュバイス捕縛

イスラム歴525[西暦1130-1131]年 完史英訳1巻P287-288 
「デュバイスの捕縛と、彼がイマード=アッディーン・ザンギーに引き渡されたこと」

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以下訳文
 この年のシャアバーン月[原注:1131年7月]、ダマスカスの領主であったタージ=アルムルク・ブーリー・イブン=トゥクテギンは、アル=ヒッラの領主アミール・デュバイス・イブン=サダカを捕らえ、殉教者アタベク・ザンギー・イブン=アクソンコルに引き渡した。これは、我々が既に記したように、彼がバスラにいた時に、彼のところにシリアから、サルハドからの彼の引渡しを求める使者が訪れたからで、何故かというとその領主はこの年に死去した宦官[原注:イブン・アル=カラーニシーによれば、彼はファクル=アッディーン・クムシュテギン・アル=タージといい、ジュマーダ2月(1130年5月)に死去し、彼はこの妾のデュバイスへの招聘について言及していない。デュバイスがイラクから離れた動機は「カリフを恐れて」であった。]であって、彼は妾を遺し、彼女は城塞とその中の総てを支配した。彼女は軍事的な後ろ盾と権勢ある男たちなくしては、自分自身で何もできないことに気付いた。デュバイス・イブン=サダカとその多くの部族集団からなる傘下の人々は彼女に、彼の状況とイラクでの現状を説明した。彼女は彼と結婚し、城塞と資金とその他のものを彼に引き渡すために彼をサルハドへ招いた。
 デュバイスは案内を伴ってイラクからシリアへ向かった。ダマスカスの近辺で、彼の案内人は道に迷い、グータの東でカルブ族の部民の中へ入ってしまった。彼らは彼を捕らえ、ダマスカスのあるじ、タージ=アルムルクのところへ連れていき、彼は彼を閉じ込めておいた[原注:1131年7月6日(シャアバーン月6日月曜日)の夜]。この一件が、デュバイスにしばしば批判され襲撃されたアタベク・イマード=アッディーン・ザンギーの耳に入った。そこで彼はタージ=アルムルクにデュバイスを彼の手に引き渡すように要請した。引換に、彼(ザンギー)は彼が捉えていた彼(ブーリー)の息子とアミールたちを解放した。もし彼が引渡しを拒めば、ダマスカスへ進軍し、包囲し、破壊し、更地にしていただろう。タージ=アルムルクはこれを受け、死を覚悟しているデュバイスを彼が送る一方で、アタベクは彼(ブーリー)の息子サヴィンジとアミールたちを送り出したが、ザンギーは予想と甚だ異なる扱いを彼に対して行った。彼は彼に対して寛大であり、彼に糧秣、武器、そしてその他の物資を彼の貯蓄から与えた。彼は彼よりも上位に扱い、偉大な王族のように扱った。
 アル=ムスタルシド・ビッラーが彼がダマスカスで捕らえられたと聞いた時、彼は、よく知られている彼への敵意から、サディード=アッダウラ・イブン・アル=アンバーリーとアブー=バクル・イブン=ビシュル・アル=ジャザーリーを[ジャズィーラ・イブン=ウマルから]タージ=アルムルクのもとへデュバイスを彼に引き渡すように頼むために送り込んだ。彼がそこへ向かう道の途中で、サディード=アッダウラはデュバイスが既にイマード=アッディーンに引き渡されたということを聞いた。彼は戻ることはせずに、ダマスカスへ向かい、そこでアタベク・ザンギーについての誹謗と批判を述べた。この報せがイマード=アッディーンのもとへ届き、そこで彼は彼が帰っている時に、彼を邪魔するための人々を送った。彼らはダマスカスからの帰路で彼とイブン=ビシュルの二人両方を捕らえ、イマード=アッディーンのもとへ連れて行った。イブン=ビシュルには屈辱を与え不快なことをしたが、イブン・アル=アンバーリーは捕えておくだけにした。アル=ムスタルシド・ビッラーは彼のために嘆願し、そのため彼は自由となった。デュバイスは彼とともにイラクまで降るまでザンギーと共にいたが、それを後に我々は記すだろう、神は最もよく知り給う。
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鉄勒京二

Author:鉄勒京二
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