485年 ニザーム・アル=ムルク暗殺

イスラム暦485[西暦1092-1093]年 
完史英訳、セルジューク朝分抄訳P253-255
「ニザーム・アル=ムルクの殺害に関する記事」

括弧内は管理人の注
以下訳文
 
 この年のラマダーン月10日[原注:1092年10月14日]宰相ニザーム・アル=ムルク・アブー=アリー・アル=ハサン・イブン=アリー・イブン=イスハークがニハーヴァンドで殺害された。彼とスルタンはイスファハーンからバグダードへ向かうところであった[原注:彼らがイスファハーンを離れたのはラマダーン月1日/10月5日。暗殺の報せがバグダードへ届いたのはラマダーン月18日/10月23日であった]。この場所に到着し、簡単な食事を終えた後、彼は彼の輿を家族の女性が集まっている天幕に向かわせたが、その時、暗殺者の一人であったダイラム人の若者が嘆願ないし請願を装って彼に近づいた。彼は彼を持っていた短刀で突き刺し、彼を死ぬままに放っておき逃走した。彼は天幕を張るロープに躓き、そのため兵士たちは彼を捕らえ殺した[原注a]。スルタンは彼の天幕へ乗り付け、軍隊と彼の部下たちは静まり返った。
 彼は30年間スルタンの宰相を務めただけでなく、アルプ・アルスランがスルタン位に就く前、彼の叔父トゥグリル・ベクの時代にホラーサーンのあるじであった頃にも彼の宰相であった。ニザーム・アル=ムルクは408年[原注:1017-18年]に生まれたため、大変高齢であった。
 彼が殺害された理由は、ウスマーン・イブン=ジャマール=アッディーン・イブン・ニザーム・アル=ムルクが彼の祖父(=ニザーム・アル=ムルク)によってメルヴの長官に任命され、そこにスルタンがクドゥンという知事を送り込んだのだが、彼は彼の年長のマムルークで彼の王国で最も勢力のあるアミールだったからである。彼とウスマーンの間でいくつかの問題を通じて反感が持ち上がった。彼の若いころ、彼が権威へ就任することと、彼の祖父に匹敵する者になろうという野望は、彼にクドゥンを逮捕させ、屈辱を与えさせた。後に解放された時、クドゥンは補償を求め不満を告げるためスルタンに謁見した。スルタンはニザーム・アル=ムルクにタージ・アル=ムルク、マジド・アル=ムルク・アル=バラサーニーその他の書記たちによって書かせた手紙を送った。「もしお前が俺の仲間であって、俺とお前の手が王国を支えているのなら、それは正しい行為だろう。だが、もしお前が俺の権威の許で俺の代理として振る舞うのであれば、お前はその対象や代理に関して節度を持たねばならん。これらお前の息子たちは例外なく大規模な領地を治め、広範にわたる権威を振るっている。持てる政治権力に飽きたらず、向こう見ずに振る舞うこと斯くの如しだ」。そして、彼はその内容を詳細に述べた。これらの人々に加えて彼は彼の腹心のアミール・ヤルバルドを送り込んだ。彼は彼に「お前は俺に奴が何を言っていたかを報せなければならない。あるいは、何か隠されていることがあるかもしれないからな」と言った。
 彼らはニザーム・アル=ムルクのところを訪れ、彼らの伝言を伝えた。彼が答えるには、「スルタンに伝えよ。『もしあなたが私があなたの仲間であることを知らないのならば、それを今知るべきでしょう。あなたはその地位を私の政治と私の忠告によってのみ築き上げたのだ』。彼は彼の父君が殺された時のことを覚えておいでではないのか? 私は彼の理想を支え申し上げた。私は彼に対する彼の家族……例えば某らによる叛乱を鎮めたのだ」。そして彼は彼に叛乱を起こした名前をいくつか挙げた。「彼は常に反論することもなく私に頼ってきた。私が日々の業務を指揮し、彼に尽くす人材を集め、至る所の領地を彼のため征服し、遠くも近くもいたる所の人々が彼に従うようになったのだ。その時、彼は私を罪を責め、讒言に耳を傾けようとなさる。彼に伝えよ。『杯[原注:円錐形の杯で、高貴な者が持っており、ここでは主権の象徴である]の安全はこの筆、この矢立に懸かっている。これらの契約は全ての災厄を防ぐ堤であり、総ての恩恵の手段なのだ。私が一つに近づけば、他方は離れてゆくだろう』。もし彼が何らかの変化を起こそうと計画しているのであれば、それが現実になる前に、警告に対する公平な評価を行い、それが彼の身にふりかかる前に、災厄に対する用心をするべきだろう」。彼はこのような内容で雄弁を振るい、そして付け加えた。「お前たちの望みがなんであれ、私になされた彼の叱責は私を悲しませ、私の力を削ぎ落したと、スルタンに伝えよ」。
 彼らが彼のところを去った後、彼らどんなことがあったかをスルタンに隠すことに同意し、ニザーム・アル=ムルクが彼の忠実な僕であり、いかに謝罪したかを彼に伝えることにした。彼らは彼らの家に帰り、それは夜半を過ぎていたが、しかしヤルバルドはスルタンのもとへ行き、何が起こったかを彼に告げた。早朝、残りの者たちがスルタンのもとへ現れたが、彼は彼らを待っていた。彼らは彼に彼らが同意していた、ニザーム・アル=ムルクが彼の忠実な僕であり、いかに謝罪したか(つくり話)を彼に伝えた。彼らにスルタンは答えた。「奴はそんなことを言っていない。奴が言ったのはこういうことだ」。そこで彼らは、ニザーム・アル=ムルクと彼の傑出した地位にためにそれを秘すことを助言したが、しかし、彼に対する計画は持ち上がり、彼の殺害はしかるべき時に行われたのだ。スルタンが死去する35日前、帝国は崩れ始め、剣の鞘は払われた。ニザーム・アル=ムルクが言ったことはその前兆となったのである。
 多くの哀歌が彼のために歌われた。彼について述べられたシビル=アッダウラ・ムカッティル・イブン=アティーヤの素晴らしい例がある。

 宰相ニザーム・アル=ムルクは真珠であり、
 それは慈悲ある風雅な気高さなのだ。
 価値あるそれは、時代がその値を知らないで、
 神がねたんでそれを戻し給うた

 ある人はニザーム・アル=ムルクが死んだ後、彼が夢に現れたので彼の近況を聞いた。彼は答えた。「私は私の行為総てに責任があり、私が倒されたのは刃のためではないのだ」と、彼の殺害について触れたという。

原注a:「彼は食事を終えた後、輿に乗り、ニハーヴァンドの近くの村に入るところまで運ばせた。彼は「この場所は何人かの宣教者がウマルの時代に殺された場所だ。祝福が彼らと共にあらんことを!」と言った。その夜、彼は殺された。彼はスーフィーの請願者の装いをしたダイラム人の若者に近寄られた。その若者は祝福を口にして、彼に請願を受け入れてくれるよう訴えた。彼はそれを受け入れるため手を外に出したが、そこでその若者は彼の心臓をナイフで一突きにした。彼は彼のテントへ運ばれ、そこで亡くなった。暗殺者は天幕の留め釘に躓き転んだところをただちに殺された」――イブン・アル=ジャウズィ『キターブ・アル=ムンタザム』
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鉄勒京二

Author:鉄勒京二
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