543年 第二回十字軍ほか

ダマスカス年代記英訳P282-289
「イスラム暦543年」

管理人は翻訳に責任を持たない

以下訳文
 

 この年の最初の日は5月――ふたご座月――の21日金曜日(管理人注:太陽暦で)であった。
 その早い時期に前述のフランクの艦隊が浜に到着し、海岸沿いに移動してティールやアッカ、それにその他のフランクが所持している拠点に上陸したと、複数の経路で報せが入った。伝えられるところによれば、彼らは殺害(管理人注:ルームのマスウードの襲撃による)や病気、飢えで数が減っていたが、依然10万人を数えていたという。彼らは大挙してイェルサレムへ赴き、巡礼の義務を果たし、その後、そのうちの相当数は海路で彼らの国へ帰っていった。彼らを迎えたのは死や病による瓦解であった――そこには何人かの王侯も含まれていた――が、彼らのうちで最強の王であるアルマーン王(管理人注:ドイツ王=神聖ローマ皇帝コンラート3世)は、他のやや劣る王侯たち(管理人注:フランス王ルイ7世を含む)を従えて依然居残っていた。彼らの間でイスラームの地、シリアの街のどれを攻撃すべきかについて見解の相違があったが、最終的に彼らはダマスカス攻撃を決定することに合意し、彼らの邪心はその獲得を既に確信していたので、彼らは既にその土地の分割の分け前を取り決めていた。この一連の報せが届き、街の統治者であるアミール・ムイーヌッディーン・ウヌルは、来襲に備えて彼らの邪な野望を打ち砕くべく、装備を整え、攻撃のおそれがある場所を強化し、街路沿いに兵士を配置し、彼らの補給を断ち、井戸や泉を埋めた。
 フランクたちは重装備の軍勢とともに直接ダマスカスへ向かい、その数は歩騎5万を数え、それを支えるため、ラクダや牛に引かせた輜重隊が続いた。彼らは街に近づき、マナーズィル・アル=アサーキルとして知られる場所で陣を張ったが、そこには水がなく、補給線も断たれていたので、彼らは水場に近いアル=ミッザまで進み、そこから騎兵と歩兵が街へ進んだ。ムスリムたちはラビー1月6日[原注:7月24日]土曜日に兵士を整列させ、双方の軍の間で戦いが始まった。とてつもない数の人々が彼らとの戦いに加わり、トルコ人、町の防衛隊、志願者、ガーズィーたちが軍隊・決死隊をなし、死がいたるところで広がった。不信心者たちはその士気の高さと数、装備を頼みにしてムスリムたちに対して優位に立った。彼らは水資源を得て、ブドウ園中に広がり、そこで野営した。彼らは街の近くへ移動し、昔からか最近からかはともかく、兵士のいなかったその一部を占領した。マーリカイトの日に法学者のユースフ・アル=フィンダラーウィー師(神よ彼に慈悲を垂れ給え)がアル=ラバワの水場の近くで殉教した。それは、彼がフランク達の正面に立ち、彼のクルアーンにある神の言葉に忠実に従ったためであった[原注:コーラン9章112節 真にアッラーは楽園と引換で、信徒たちから彼ら自身とその財産とをそっくり買取給うた。アッラーの道に奮戦し、殺し、殺されている彼らである――これはアッラーも必ず守らねばならない御約束](管理人注:この顛末はイブン・アル=アシール『完史』に詳しい)。同じような運命が修行者のアブドゥルラフマーン・アル=ハルフーリー(神よ彼に慈悲を垂れ給え)の身の上にも起こった。
 フランクたちは次に木を切り落とし、防御柵を作り、土地を破壊しはじめた。このようにして夜が明けて、彼らが目撃したもののために、恐れて人々は落胆し、魂が狭くなってしまった。彼らはその早朝にフランクに対して襲撃をかけ、それは日曜日であったが、その互いの激突の後、ムスリムたちは彼らに対して優位に立ち、彼らに彼らに痛手を負わせた。アミール・ムイーヌッディーン・ウヌルは彼と共に戦う精鋭を選抜し、他の誰も見せたことのない武勇、不退転の決意、勇敢さを発揮し、彼らに対して戦い休憩も取らず、疲れを見せなかった。戦の紛糾は双方を粉々にして終わるのではなく、不信心者の騎兵が彼らの名高い猛攻撃をかけてくる機会を与えないように、最終的に日が登り夜がふけ、男たちの魂が休息を求めるまで続いた。互いがそれぞれの場所に戻ったが、常備軍が夜間にフランクたちに面した戦場を通り、市民と歩哨は市壁の上に立ち、敵は間近に迫っていた。
 一方で、各地の統治者に助けと増援を求める手紙が送られた。郊外のトルクメン騎兵とその歩兵の一団が次々と到着し、[次の朝には]ムスリム達はフランク達に先制攻撃をかけ、その大胆さは士気を持ち直させた。彼らはフランク達の真正面に陣張り、運命の投槍と負傷の矢を浴びせかけ、それらは合間なく歩へうや岸、馬やラクダ、彼らの陣営へと降り注いだ。この日の間にビカーや他の至る所から多くの弓兵が到着したが、彼らによって[ムスリムの]数は増し、軍事物資は倍加した。それぞれの陣営は互いから離れて、この日[の終わり]に固定された。次の火曜日の早朝、ムスリム達は鷹の狩りのような素早さで彼らに攻撃をかけ、彼らを陣営の中へ取り囲み、寝ているところを囲い、彼らは矢の雨と投石によって彼らがブドウ園の木から造った柵に大損害を与えた。フランク達は恐れとくじけから出てくることを拒み、誰一人として姿を見せなかった。何か策があり、戦略を練っているのだろうと思われた。彼らは退路と、安全に退却するための計画と、突撃を行えるだけの戦場を確保できるまで、数騎の騎兵と数人の歩兵が的を退けるために現れたほかは誰一人として出て来なかった。誰一人として[ムスリムたちに]槍と矢の雨の中を通らずには近づくことができなかった。街の歩兵と村人たちの大軍は勇気づけられ、彼らの道々で待ち伏せするようになった。危険を疑った時、彼らが捉えた者を全て懲りし、その首を報酬の請求のために持ち帰った。
 一方、ムスリム軍が彼らに対し聖戦を行うために各地から急速に集まり、彼らを殲滅しようとしているという報せがフランクたちのもとに届いた。彼らは自分たちが危機にあることを認めざるを得なかった。互いに相談したところ、彼らはこの包囲網、奈落の底から逃れる術はなく、次の日の水曜日の明け方、混乱を収拾し、逃げるためにこの場を去ろうとした。ムスリムたちはこれを知り、フランクたちが撤退しようとしているのが明らかになったので彼らは彼らを攻撃するためにその日の朝、打って出て彼らに向かって急進した。彼らは矢で攻撃を仕掛けたので、多くの人間、馬、輜重を運んでいたほかの動物たちが倒れた。彼らの陣営跡や、さらに彼らが見つけた近道では、彼らは数えきれないほどの死者と気高き馬の墓穴を見ることになり、そこからは空の鳥にまで届く悪臭が放たれていた。彼らはまたアル=ラブワとアル=クッバ・アル=マムドゥディーヤをその夜の間に燃やした。人々はこの神が彼らに与え給うた慈悲に喜び、この災厄の日々に絶え間なく行われた祈りに応え給うた神に様々な感謝を捧げ、神を賞賛した。

 この後、ムイーヌッディーンは、この年のラビー2月の下旬[原注:9月の中旬]にダマスカスへ救援のために向かっていたアレッポのあるじ、ヌールッディーンの軍隊と合流し、彼らは共にタラーブルスの近くにあるアライマの城と呼ばれているところへ向った。そこは前述の王侯の一人、アルフォンソ王の息子が所持していたが、アルフォンソは既にアッカで死去していた(管理人注:誤報か?)。彼と一緒にいたのは彼の母と、多くの随行員、岸と彼らの兵の司令官であった。ムスリムたちは城を囲み攻撃をしかけ、ヌールッディーンとムイーヌッディーンの騎兵は、[モスルのあるじである]アタベクの息子であったサイフッディーン・ガーズィーの1000騎の派遣軍と合流した。両陣営は激しく戦い、守備兵の多くは殺されるか捕らえられた。王の息子は彼の母とともに捕らえられ、城はその装備や馬、備品も含めて略奪された。サイフッディーンの騎兵はその陣営をヒムスで引き払い、ヌールッディーンもまたアレッポへ戻り、王の息子と彼の母は彼に捕虜として連れていかれた。ムイーヌッディーンもダマスカスへ帰った。
 その間、シャリーフとナキーブのアミール・シャムスッディーン・アル=フサイニーがダマスカスへ到着していた。彼はカリフの使者として全ての統治者とトルクメンの首長たちのもとへ、ムスリムを不信心者に対する聖戦に差し向けるために、アタベクの息子のサイフッディーン・ガーズィーのもとから派遣されてきたのであった。これはフランクが度重なる増強により脅威を増しているからであった。彼は返答を携えて43年のラジャブ月11日水曜日[原注:11月24日]にバグダードへ帰っていった。
 ラジャブ月にアレッポから、そのあるじのヌールッディーンが彼の騎兵とともにフランクの領地へ向かい、相当な数のフランクたちを捕らえたとの報せが入った。さらに、アンティオキアのあるじがフランク軍を編成し、不意をついて、騎兵、補給隊、動物たちが不足しているヌールッディーンに攻撃をしかけた。ヌールッディーン自身と彼の騎兵たちは退却し、無事アレッポまでたどり着いたが、彼の騎兵のうち何人かがフランクの大軍に殺されていた。彼はアレッポに数日間とどまり、輜重の埋め合わせと騎兵のための武器の補填を行い、再び彼の陣営に戻ったか、あるいは別の情報によれば、戻らなかった。
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鉄勒京二

Author:鉄勒京二
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