544年 記事番1 サイフッディーンの死

イスラム歴544[西暦1149-1150]年 完史英訳2巻P27-28
「アタベク・ザンギーの息子、サイフ=アッディーン・ガーズィーの死と、彼の後継者で兄弟のクトゥブ=アッディーンに関するいくつかの記述」

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以下訳文
 

 この年、モスルのあるじでアタベク・ザンギーの息子であったサイフ=アッディーン・ガーズィーが熱病によって逝去した。病が深刻になった時、彼はバグダードへ使いを送り、アウハド・アル=ザマーンを召喚した。彼が彼を診察した時、その病状は深刻なものだった。彼は彼を看病したが、彼の薬は何ら役に立たなかった。ガーズィーはジュマーダ2月[原注:1149年11月3日]の末に亡くなった。彼の統治は三年と一ヶ月十二日続いた。彼は美男子であり、若々しく、500年[原注:1106-7年]に生まれた。彼はモスルに建てられたマドラサに埋葬された。彼は一人の男児を残しており、彼の叔父のヌール=アッディーン・マフムードは彼を育て教育し、彼(甥)を彼(ヌール=アッディーン)の兄弟クトゥブ=アッディーン・マウドゥードの娘と結婚させた。彼は長くは生きることができず、若くして亡くなった。こうしてガーズィーの血統は途絶えた。
 彼(ガーズィー)は気前が良く、勇敢であり、知的な男だった。彼は二日に一回は朝夜の大々的な食事会を、兵士たちと共にした。朝の食事のひとつは100頭の上質な羊の頭からなっていた。彼は彼の旗を彼の頭上に掲げさせ、彼の兵士たちに腰に刀をさし、メイスを踵の下に装備せずに馬に乗ることを禁じた最初の男だった。この習慣が広まって、近隣の統治者たちは皆彼を真似た。彼は旧アタベキーヤ・モスクをモスルに建てたが、それは最も雄大なマドラサの一つであり、ハナフィー派とシャフィーイー派の学者に寄贈し、またスーフィーの宿坊もモスルの埠頭に建てた。彼の統治は彼の計画していた善行を全て実行するには短すぎた。彼は大きな豊富を持っていた。彼の気前の良さの一例として、シハーブ=アッディーン・ハイサ・バイサが彼の宮殿へ来て以下の節から始まる叙事詩を述べた時のことがある。

 どれだけの間栄光は詩人の衣の中に貴方を見るだろう、
 説教壇のいただきに望みを掲げたその後で

 ガーズィーは彼に名誉の衣と種々の物品の他に現金で1000ディナールを与えた。
 サイフ=アッディーン・ガーズィーが死んだ時、彼の兄弟のクトゥブ=アッディーンはモスルに住んでいた。宰相のジャマール=アッディーンと軍司令官のザイヌ=アッディーン・アリー(・アル=クジャーク)は彼を後継者とすることで一致した。彼らは彼を連れてきて、彼が誓い、また彼らも彼に誓った。彼らは彼を馬の背に乗せてスルタンの宮殿へ連れていき、ザイヌ=アッディーンが彼の鐙を取った。彼の兄弟サイフ=アッディーンの土地、モスルやジャズィーラ、シリアは彼に忠誠を誓った。
 彼の即位の後、彼はフサーム=アッディーン・ティムルターシュの娘と結婚したが、彼女は彼の兄弟のサイフ=アッディーンと結婚するはずだったのだが、彼が結婚の前に死んでしまったのだった。彼女はクトゥブ=アッディーンの子供たち、サイフ=アッディーン[原注:・ガーズィー2世]やイッズ=アッディーンや他の子らの母親であった。
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鉄勒京二

Author:鉄勒京二
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