491年 アンティオキア陥落ほか

ダマスカス年代記英訳P44-46
「イスラム暦491年」

管理人は翻訳に責任を持たない

以下訳文
 

 ジュマーダ1月の末(1098年6月上旬)、アンティオキアのアミール、ヤギ・シヤーンの部隊の鎧師がアンティオキアに対して陰謀を企み、フランク達を招き入れることに合意したとの報せが入った。これは彼(ヤギ・シヤーン)によって悪しざまに扱われ、財産の没収を受けたからだという。彼らはジャアバルの隣にある、街の稜保の一つを占領するための機会を見計らい、彼らはそれをフランクに売り渡し、そして彼らはフランクを夜間に街の中へ招き入れたのだ。日の出とともに彼らは戦闘に入った。その時ヤギ・シヤーンは戦闘に集中し、多くの人と一緒に逃げ出したが、誰一人として安全に脱出することは出来なかった。彼がアルマナーズの近郊、マアラト・マスリーンの近くの屋敷にたどり着いた時、彼は落馬し地に倒れた。彼の同行者が彼を断たせようとしたが、彼は馬の背で自らの体を支えることが出来ず、再度落馬した時、彼は死んでいた。アンティオキアについて言えば、多くの男、婦人、子供が殺され、捕らえられ、奴隷にされ、数えきれないほどだった。およそ3000人の人々がシタデルへ逃げ込み、その防備を強化し、また極僅かの人々が神の助けにより逃げることが出来た。
 シャアバーン月に、最高司令官(アミール・アル=ジュヤーシュ)アル=アフダルがエジプトからシリアへ強力な騎兵隊を率いてやってきたとの報せが入った。彼はイェルサレム近郊で野営したが、イェルサレムはアルトゥクの息子たち、ソクマーンとイルガーズィーが一族郎党とトルコ兵の大軍とともに守っており、彼らに向けて手紙を送って、戦や流血を避けてイェルサレムを諦めるよう要求した。彼らがその要求を跳ねつけたので、彼は街へ攻撃を開始し、マンゴネルを打ち込み、壁を破壊し、ダヴィデの塔[原注:イェルサレムのシタデル]をソクマーンから奪い取った。彼はそこへ入城し、二人のアミールを寛大に扱い、二人とその部下たちを自由にした。彼らはシャッワール月の上旬(7月)にダマスカスへ到着し、一方でアル=アフダルは彼の騎兵隊とともにエジプトへ帰っていった。

 この年、フランク達もまた彼らの軍勢をマアラト・アル=ヌマーンへ進め、そこを攻めるためダフールヒージャ月の29日(11月27日)に陣を張り、彼らは街へ攻撃を開始し、櫓や梯子で攻め立てた。
 この時フランク達は、既にフィールーズというアルメニア人の手引きによって、ラジャブ月1日金曜日の夜(6月3日木曜日の夜)にアンティオキアの街を奪取しており、この一連の報せはこの事実をはっきりさせた。シリアのアミールたちは膨大な数の軍勢を集め、フランク軍に痛撃を与えるべくアンティオキアへ向った。彼らは輜重が尽き、腐肉を食べるようになるまでフランクを囲んだが、彼らが極端に弱っていたにも関わらず、最大の数と力をもってイスラームのアミールたちに戦闘を仕掛け、ムスリム軍を粉砕し、多くを四散させた。名馬の主は戦いの中に放り込まれ、神の道に殉ずる兵士たちの上で剣の鞘が払われた。彼らは聖戦へ自らを駆り立て、ムスリムを守り、運命のために強烈に戦った。これらは火曜日、この年のラジャブ月の26日(1098年6月29日)に収束した。
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鉄勒京二

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