526年 記事番3 マスウード、サンジャルに敗れる

イスラム歴526[西暦1131-1132]年 完史英訳1巻P293-294 
「スルタン・マスウードとかれの叔父スルタン・サンジャルの間の不和に関する記事」

括弧内は管理人の注
管理人は翻訳・要約に責任を持たない

以下訳文
 

 スルタン・マフムードの死後、スルタン・サンジャルはスルタン・ムハンマドの息子であった王族のトゥグリルと共に高原へやってきたが、彼は彼の宮廷でもっとも彼と親しかった。サンジャルはレイへ赴き、そこからハマダーンへ向った。彼がハマダーンへ到着したとの報せがカリフ・アル=ムスタルシド・ビッラーとスルタン・マスウードのもとへ届いた。彼らは互いに彼を食い止め、カリフが軍を持つべきであることに同意した。後者(マスウード)は準備を行った。一方カラージャ・アル=サーキー、スルタン・マスウード、そしてセルジュークシャーはスルタン・サンジャルに向かって進み、アル=ムスタルシド・ビッラーは彼らに遅れて進軍した。カラージャは彼に圧力をかけるため以下のように書き送った。「あなたがサンジャルが行うだろうと思って危惧している行為、それを今から我々が行う!」。そこで彼はしぶしぶながら出発し、小休止と前進をカーナキーンに到着するまで繰り返し、彼はそこで停止した。
 サンジャルに対するフトバはイラクの全域で停止された。報せはバグダードの近くへ来ていたイマード=アッディーン・ザンギーとデュバイス・イブン=サダカのもとへ届いた。伝えられているところによれば、スルタン・サンジャルはヒッラをデュバイスの領地としてあてがい、アル=ムスタルシド・ビッラーに対してデュバイスと友好を持つよううやうやしく書き送った。カリフはこれを拒否した。イマード=アッディーン・ザンギーについて言えば、スルタン・サンジャルは彼をバグダード知事に任命した。アル=ムスタルシド・ビッラーはバグダードへ取って返し、人々に防衛の準備を命じ、軍を起こしてその近くに配置した。
 スルタン・マスウードはダーイ・マルジへ赴き、スルタン・サンジャルの前衛は膨大な数を盛って彼らと会敵した。マスウードはキルマーンシャーハーンまで撤退し、一方スルタン・サンジャルはアサダバードで10万の騎兵とともに野営した。マスウードと彼の強大のセルジュークシャーはガーヴ、及びマーヒーと呼ばれている二つの山の方へ向かい、その間で野営した。サンジャルは野営地をキンキワルへ移し、彼らが撤退したのを聞いて、彼らの追跡を急ぎ、彼らの後を追って四日間日夜進み続けた。両軍はディーナワルの地書くのウーラーンで会敵した。マスウードは戦闘を避けてアル=ムスタルシドが来るのを待った。しかし、スルタン・サンジャルが彼に向かって進んできたので、彼は戦闘が避けられないことを悟った。彼の左翼にサンジャルはか彼の兄弟ムハンマドの息子(=甥)のトゥグリル、クマージ、そしてアミーレ・アミーラーンを置き、彼の右翼にはホラズムシャー・アトスズ・イブン=ムハンマドと多くのアミールたちを置いた。マスウードはカラージャ・アル=サーキーとアミール・キジルを彼の右翼に置き、ヤルンカシュ・バーズダール[原注:ペルシアの宮廷管理者で字義は鷹匠]と式部官ユースフ他を左翼に置いた、キジルは既に逃げ出すためサンジャルと謀り合っていた。
 敵意が芽生え戦闘は激しさを増した。これは記録に残る日であった。カラージャ・アル=サーキーはスルタン・サンジャルが精鋭10万の騎兵とともにおり、その背後に象兵が整列してた中央へ突撃をかけた。カラージャが中央へ突撃を賭けた時、王族トゥグリルとホラズムシャーは彼の背後に回りこみカラージャは包囲されていることに気付いた。彼はいくつかの傷を負い、彼の兵士の多くがたおれるまで戦ったが、満身創痍となり捕らえられてしまった。これを観てスルタン・マスウードは安全を求めて戦場から離脱した。式部官ユースフとフサイン・ウズベクはふたりとも古参のアミールであったが、殺された。この戦闘はこの年のラジャブ月8日[原注:1132年5月25日]に行われた。
 マスウードの敗北が明らかとなった時、サンジャルは野営地を設営して彼が現れた時に彼を罵ったカラージャを呼び出し、言うことには「痴れ者が! 余と戦うことに何を望んだというのだ」。彼が答えて曰く「あなたを殺し私が操れるスルタンを立てることでした」。サンジャルは彼を即座に殺し、スルタン・マスウードを呼びつけるべく使者を送った。彼はサンジャルがクーナジに到着した時、自ら彼の前に現れサンジャルが彼を謁見すると彼に接吻し、彼を名誉のうちに受け入れたが、彼の叛乱と反抗を叱責した。彼はガンジャへ送り返され、彼の甥の王族トゥグリルをスルタンとして即位させ、この土地のフトバを彼のために咏ませた。彼の宰相にはスルタン・ムハンマドの宰相であったアブール=カースィム・アル=アンサーバーディーが任命され、彼はホラーサーンへ帰還した。彼がニーシャープールへ到着したのは526年のラマダーン月20日[原注:1132年8月4日]のことであった。アル=ムスタルシド・ビッラーについては、我々は彼に何が起こったかをこのあと記す。
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鉄勒京二

Author:鉄勒京二
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