600年 記事番4 第四回十字軍

イスラム暦600[西暦1203-1204]年 完史英訳3巻PP.75-77
「いかにしてコンスタンティノープルはビザンツ帝国から奪取されたか」

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以下訳文
 

 この年のシャアバーン月[原注:1204年4月]、フランクたちはビザンツの主権の及ぶ範囲から、コンスタンティノープルを奪い去った[原注:第四回十字軍。その背景と結果はランシマンを参照のこと]。これは以下の理由による。(ビザンツの)皇帝がフランクの中で最も強大な王の一人であるフランス王の娘と結婚し、一人の男児をもうけた。彼の兄弟の一人が権力を奪取し、彼を捉えて街(コンスタンティノープル)を彼から奪ってしまった。彼は彼の目を潰し虜囚しておいたが、しかし彼の息子は逃れ、彼の母方のおじのもとへ、彼の父の兄弟に対抗するための助けを求めに赴いた[原注:イブン・アル=アシールの説明は正確ではない。皇帝イサキオス2世アンゲロスは、彼の弟のアレクシオス3世に目を潰され廃位されて捕えられる少し前に、彼の娘のエイレーネーをドイツ王であるシュヴァーベンのフィリップに嫁がせていた。彼の息子の別のアレクシオスはまた捕えられたが、1201年の末に脱出し、ドイツにいる彼の姉妹と義理の兄弟を頼った。ランシマン参照のこと]。これはフランクたちがシリアへ向かってイェルサレムをムスリムから奪おうとして集まっているその時に起こった。彼らは皇帝の皇子を連れて彼とそのおじとの関係を修復させるためにコンスタンティノープルへ進路を取った。彼自身はそれ以外に特に野心を抱いてはいなかった。彼らが到着した時、彼のおじはビザンツ軍とともに出撃し、彼らと戦った。彼らが会敵したのは599年ラジャブ月[原注:1203年3月16日-4月14日]のことで、ギリシア人たちは打ち負かされた。彼らは街へ入り、フランクたちもまた彼らとともに街へ入った。皇帝は国境の外へと逃れた。伝えられるところによると、皇帝は町の外にフランクたちがまだ見えていないにも関わらず逃げたともいう。
 コンスタンティノープルでは、その少年に心を寄せるギリシア人たちがいたので、彼らは街に火をかけた。これは住民たちを混乱させた。そして彼らは街の門を開いてフランクたちを招き入れた。皇帝は逃げてしまっていたので、フランクたちがその街で唯一の実力者ではあったが、フランクたちはその少年を皇帝の位につけた。しかし、彼は何の権力も持っていなかった。彼らは彼の父を虜囚から解放した。彼らは様々な負担を人々に課し、彼らが用意できないとなると、資産を人々から巻き上げた。彼らは金銀その他の教会の富を奪った。それが十字架や救世主―彼の上に平安あれ―や使徒たちの画像であっても、また新約聖書の写本の飾りであっても、である。
 ギリシア人たちはこのように暴力を振るわれ、非常な苦しみに耐えた。彼らは少年皇帝を探し出し、彼を殺してフランクを街から追いだし、各門を封鎖した。これは600年のジュマーダー1月[原注:1204年1月6日-2月4日]のことである。フランクたちは町の外にとどまり、ギリシア人たちを包囲し、日夜留まり続けた。ギリシア人たちは弱り果て、コンヤとその他の地域のあるじであるスルタン・ルカン=アッディーン・スライマーン・イブン=クルチ・アルスランに助けを求めたが、彼は応える術を持たなかった。
 街の中では30000に迫る数の多くのフランクたちが居住していた。街が包囲されるにあたって、彼らの態度ははっきりしなかった。彼ら(コンスタンティノープル在住のフランクたち)と外側のフランクたちは、共謀した。彼らは立ち上がり、再び放火し、そのため街の四分の一が焼け落ちた。彼らは門を開き、彼らを招き入れた。三日間、彼らは剣を振るい、ギリシア人を殺し、略奪した。ギリシア人たちは殺されるか奪われるかで、何も持っていなかった。ビザンツの名士たちは[原注:ハギア・]ソフィア大聖堂として知られる教会に集まった。フランクたちはいくつかの抵抗を排除した。主教や修道士たちは福音書と十字架を持ち出し、フランクたちに示したが、彼らはそれに何の関心も示さず、彼らをすべて殺し、教会を略奪した。
 以下の三人の貴顕たちがいた。ヴェネツィアのドージェ。戦争の指揮官であり、彼の船によって彼らはコンスタンティノープルを訪れた。盲目の老人で彼の馬は彼が乗れば彼を導いた。二人目は侯と呼ばれており、フランス人の指揮官。三人目はフランダース伯と呼ばれており、最大の軍勢を率いていた[原注:この三人はドージェ・エンリコ・ダンドロ(1192-1205)、シャンパーニュのティボーが死去したため十字軍の指揮官に選ばれたモンフェラート侯ボニファティオ、そしてフランダース公のボードワン4世である]。彼らがコンスタンティノープルを所有するようになり、彼らはくじ引きでフランダース公をその統治者に選んだ。神は王権を誰であれ彼が望んだ者に与え、また彼が望んだ者から取り上げ給う[原注:コーラン3章26節]。彼はくじ引きで勝って、その街と周辺地域の統治者となった。ヴェネツィアのドージェはクレタやロードスといった大きな島々を確保し、またフランスの侯はニカエアとラーディークのような真西の土地を手に入れた。彼らのうち誰も、実際にコンスタンティノープルを奪取した人を無視して領地を取得することはできなかった。残り[の領地]について言えば、ギリシア人たちは一人も生き残っておらず、皇帝が確保した土地は、ルカン=アッディーン・スライマーン・イブン=クルチ・アルスランの領地の隣、ニカエアとラーディークを含む土地であるが、これらの土地はラスカリス家と呼ばれるビザンツ貴族たちが奪取していたのであったが、彼らの手は今日までこれらの領地を確保している。
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鉄勒京二

Author:鉄勒京二
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