564年 記事番4 サラディンのエジプト掌握

イスラム暦564[西暦1168-1169]年 完史英訳2巻P176-179
「サラディンはいかにしてエジプトの統治者となったか」

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以下訳文
 アサド=アッディーン・シールクーフが死んだ時、彼の兄弟であるアイユーブ・イブン=シャージーの息子であるサラディンは彼とともにいたのだが、望まぬのに彼とともに遠征に加わっていたのだ。著者のある友人で、彼の近臣であり懇意だった者が、サラディンが彼に以下のように言ったと語ってくれた[原注:この「友人」はバハー=アッディーン・イブン=シャッダードである可能性がある。バハー=アッディーンは、サラディンが遠征に加わることを望んでいなかったことを報告している(詳細は『サラディン伝』)。彼はその中で単に「私は彼からこう言われたのだが...」と述べている]。

「アル=アーディドの手紙がヌール=アッディーンのもとへ届けられ、フランクに対抗するため彼の援助と遠征軍の派遣を頼んだ時、彼は私を呼びつけ状況を説明した。彼は言う。『お前はホムスにいるお前の叔父アサド=アッディーンのもとへ私の使者とともに赴いて彼を呼び寄せよ。急げ、状況は遅延を許さぬ』。私は命令に従ってアレッポを発った。(しかし、)アレッポからそれほど離れない所で、我々はこの問題を聞きつけ、駆けつけようとしていたシールクーフ叔父と出会った。ヌール=アッディーンは彼に出立するよう命じたのだが、それをヌール=アッディーンが彼に伝えた時、叔父は私の方を向いてこう言ったのだ。『支度をするぞ、ユースフ!』。私は応えた。『神にかけて、もしエジプトをまるごとやると言われても、私は行きたくありません。私がアレクサンドリアで味わった苦難は、未だ忘れられないのです』。彼はヌール=アッディーンに言った。『彼が私とともに来るのは不可欠の条件です。彼に私とともに行くよう命じて下さい』。ヌール=アッディーンは私にこう言った。『おまえはお前の叔父とともに行かねばならない』。私は手元不如意であることを彼に述べたが、彼は必要ないくらかの資金を私に渡した。まるで死にに行くようなものだった。だが、私は彼とともにエジプトへ向かい、そこを征服することになった。そして彼が亡くなり、全能の神は私にその広大な領地を、一片たりとも望んでいないのに与え給うたのだ」

 彼がいかにその地位を手に入れたかについて述べよう。アイン=アッダウラ・アル=ヤールクーリーや、クトゥブ=アッディーン[・ホスロー・イブン=トゥライル]、サイフ=アッディーン[・アリー・イブン=アフマド]・アル=ムシュターブ・アル=ハッカーリー、そしてサラディンの母方の叔父、シハーブ=アッディーン・マフムード・アル=ハーリミーといったエジプトにいた何人かのヌールッディーン軍のアミールたちは、兵の指揮権と、シールクーフの後釜としてのアル=アーディドの宰相の地位を狙っていた。彼らの内誰もがその地位を求め、力によって手に入れるために手駒を集めていた。しかし、アル=アーディドはサラディンに手紙を送り、彼を御前に呼び寄せ、(宰相の)衣と地位を、彼の叔父を引き継いで与えた。
 彼がこの挙に出たのは、彼の部下が以下のように言ったからであった。「あの一団の中で、ユースフ以上に弱く若い者はおりません。彼を我々の影響下から逃れられないようにし、(宰相に)任命するのが最も良い方策でしょう。そうすれば、我々は兵や人々に影響を及ぼし、我々に付かせることができるでしょう。我々は国を守るのに十分な兵力を手に入れ、そしてユースフを捕らえるなり排除するなりすればよろしい」。
 彼がアル=マリク・アル=ナースィルの称号とともに任命された後、その地位を求めていたアミールたちは彼に従い、服従した。法学者の、(ディヤー=アッディーン・)イーサー・アル=ハッカーリーは、彼の側に付き、熱心な努力によってアル=ムシュターブを彼の側に付けることに成功した。彼は彼に以下のように言った。「この地位は例えばアイン=アッダウラや、アル=ハーリミーたちのように、決してあなたのもとには転がり込んで来ますまい」。そして、彼はアル=ハーリミーのもとへ行って言う。「我々にはサラディンがいて、彼は貴公の甥ではありませんか。そして彼の権力と領地は貴公の強さに頼っているのです。彼の地位はゆるぎません。彼を追い落とそうと必死になりなさいますな。その地位は貴公には回ってきませんぞ」。彼はまた、彼を彼の後ろ盾とした。イーサーは同じように残りの全ての者たちを言いくるめ、彼らは彼に服従した。ただ、アイン=アッダウラ・アル=ヤールーキーは彼にこう言った。「私はユースフごときには仕えない」。そして彼はシリアのヌール=アッディーンのもとへ、他のアミールたちとともに帰っていった。サラディンの足は断固として立ちったが、彼はまだヌール=アッディーンの代理人にすぎなかった。
 ヌール=アッディーンはこの状況と協調して、彼をアミール・イスファハフサラールに任命し、彼の手紙の冒頭に彼の方針通り個人名(イスム)で署名した[原注:イスファフサラールは、元来はペルシア語で「軍司令官」の意である。これは、ヌール=アッディーンがサラディンの地位を彼との関係の中でだけ認め、ファーティマ朝の宰相の権威を自立的なものとしていないことを意味している]。彼はまた、個人的な手紙を彼に送らず、「アミール・イスファフサラール・サラディンと、エジプトのアミールたちは、これこれしかじかのようにせよ」とばかり書いていた。
 サラディンは民心を勝ち取り、金をばらまいた。アル=アーディドの立場が弱くなっていく一方で、彼らはそうして彼の方へ身を移し、彼に好意を持つようになった。その後、サラディンはヌール=アッディーンに、彼の兄弟と家族を(エジプトへ)送ってもらえるよう要請した。ヌール=アッディーンは承知して、彼らが彼に、さらには彼の理想に忠誠を誓い、援助を惜しまないことを約束させた。彼らすべてはそのようにした。サラディンはエジプトのアミールの領地を召し上げ、家族や彼とともにいたアミールたちに与えた。彼は彼らの幸運を増し、彼らは好意と忠誠を彼へ向けた。
 私は確実な筋の者が書いたであろう歴史書を読んできてイスラーム史の様々な出来事を見てきた。王朝を開く者について、多くの場合は彼らの近い子孫から、他の一族か親族へと権力が移っていくのを私は見た。例えば、イスラームの初期において、ムアーウィヤ・イブン=アビー=スフヤーンは彼の一族の中で最初に権力を握った者であった。権力は彼の子孫から、彼の従兄弟の家系であるバヌー=マルワーン(マルワーン一族)へと移った。後に、アッバース朝の最初の統治者であるアル=サッファーフ(アブー=アル=アッバース)について言えば、権力は彼の血筋から彼の兄弟のアル=マンスールへと移った。サーマーン朝について考えてみよう。最初に独立した権力を手に入れたのはナスル・イブン=アフマドであったが、その権力は彼の兄弟、イスマーイール・イブン=アフマドと彼の子孫へ移行した。次に、ヤアクーブ・アル=サッファール(サッファール朝の君主)、彼もまた彼の家系で最初に権力を手にしたのだが、彼を取り上げよう。権力は、彼から彼の兄弟のアムルと彼の子孫へと移った。ではイマード=アッダウラ・イブン=ブワイフ、彼も彼の家系で最初に権力を手にした者だが、彼はどうだろうか。権力は彼の兄弟たち、ルクン=アッダウラとイッズ=アッダウラへ移り、次にルクン=アッダウラとムイッズ=アッダウラの子孫たちに権力が移り、最終的にはルクン=アッダウラの子孫のみが権力を持つようになった。セルジューク朝について考えよう。最初に統治者としての権力を持ったのはトゥグリル・ベクだが、権力は彼の兄弟(チャグリー・ベク・)ダーウードの子孫へと移った。最後に、シールクーフで、これは既に記したが、権力は彼の兄弟アイユーブの子孫たちへと移り、またサラディンもそうであって、彼が王朝を打ちたて確立し、王朝の開祖となっても、権力は彼の兄弟アル=アーディルの子孫へと移り、彼自身の子孫の手に残ったのはアレッポのみである。
 これらはイスラームの偉大な王朝だ。冗長になることを避けなければ、著者はさらに多くの例を出すことができる。これらの理由は、彼の前任者の心がそれと深く結びついているので、王朝の初代となる人物は、概ね過激な処置[原注:私はyukthirをこう解釈した。ある女史は「多くの人を殺す」と読んでいる]をして権力を握る。そこで神は、彼に対する罰として権力を彼の子孫に与えず、これらは、神がそうする理由なのだ。
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鉄勒京二

Author:鉄勒京二
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