564年 記事番5 バイナル・カスラインの戦い

イスラム暦564[西暦1168-1169]年 完史英訳2巻P179-180
「旧カイロでの黒人たちの戦いに関する記事」

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以下訳文
 

 この年のダフール・ヒージャ月[原注:1169年7月27日~]のはじめ、ムターミン・アル=ヒラーファが殺された。彼はアル=アーディドの宮廷の宦官で、そこにいる全ての人に指示を出せるほどの権威を持っていた。彼とあるエジプト人の一団がフランクへ手紙を送り、彼らを国へ誘い込んで彼らの力強い助けを得てサラディンとその部下たちに対抗することで同意した。彼らは信頼出来る男に手紙を預け、返事を期待して待った。この使者はアル=ビル・アル=バイダー[原注:字義通りには「白い井戸」。今日ではビルバイス地方のアル=ザワーミルに近いイズバト・アビー=ハビーブにあたる]まで来たが、そこであるトルクメンと出会い、彼(トルクメン)は彼(使者)が新しいサンダルを履いているのを見咎めた。彼はそれを彼から取り上げ、呟いた。「もしこれがこの男の普段の履物なら、この男の外見のみすぼらしさからして、これはもっと小汚いはずだ」。彼はこの男とサンダルを不審に思い、それらをサラディンのもとに届け、それを引き剥がしてみたところ、手紙がその中に入っていた。彼はそれを読んで、このことを極秘事項とした。
 ムターミン・アル=ヒラーファの計画は、フランクをエジプトへ呼び寄せて、彼らが到着したら、サラディンが彼らと戦うために彼の軍勢とともに出撃するであろうから、しかる後、ムターミン・アル=ヒラーファがエジプト人たちと共に蜂起して彼を殺すという手はずであった。彼は全軍でサラディンを追い、フランクが正面から、彼らが背後から挟撃して誰も逃れられないようにするのである。サラディンはその手紙を読んだ後、誰がこれを書いたのかを尋問し、「あるユダヤ人だ」との答えを得た。彼は呼び寄せられ、自白させるためにムチで打たれた。彼はすぐにイスラームに改宗することを誓い、全てを話した。サラディンはこの問題を内密にした。しかし、ムターミン・アル=ヒラーファは計画が明るみにでる恐れで不安になり、宮殿の近くに留まり続けた。彼がそれを決行した時、彼は遠くにはおらず、一方でこの件に関する批判を避けるため、サラディンは彼に彼が望んでいた情報を何ら漏らさなかった。こういう状態になって暫くの後、彼は宮殿を去って彼の、アル=カラーカーニーヤと呼ばれていた村へ休養のために訪れていたのだ。それを聞き、サラディンは何人かの部下を彼のもとへ差し向け、彼らは彼を捉えて殺害し、サラディンのもとへ彼の首を送り届けた。彼はカリフ宮での業務に関わっていた全ての宦官を追放し、全てを白人宦官のバハー=アッディーン・カラークーシュに任せた。重要事であれ些細な事であれ、何事も彼の権威のもとで行われるか、彼の許可のもとで行われるかでないかぎり、宮殿内では何もできなくなった。旧カイロの黒人奴隷たちは、ムターミン・アル=ヒラーファが殺されたことに、その忠誠心から激怒した。というのも、彼は彼らの助けがあって強力になっていたのだ。彼らは軍勢を招集し、その兵力は50000を数え、その全てがサラディン軍と戦闘する構えであった。彼は軍勢を集め、黒人たちとバイン・アル=カスライン[原注:字義通りでは「二つの宮殿の間」。ファーティマ朝時代のカイロにおいて南北に通る大路の開けた場所であった]で会敵した。
 両陣営で多くが殺された。サラディンはアル=マンスーラとして知られる地区に軍勢を送り込み、火を放って、財産と女子供を焼き払った。彼らがこの情報を受け取った時、彼らは背後へ向かって逃げ惑い、剣によって攻撃された。その道の出口は彼らに対して塞がれており、大虐殺が行われた後、彼らは取引をもちかけた。取引は成立し、彼らは旧カイロからギザへ退去した。そこで、サラディンの兄弟のシャムス=アッダウラ・トゥーランシャーは彼らのもとへ軍の分隊を率いて行き、剣によってそれらを皆殺しにした。数少ない逃亡者のみが逃れることができた。全能の神は彼らの悪徳に誅伐を加える――神のみぞ知り給う!
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鉄勒京二

Author:鉄勒京二
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