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564年 記事番3 シールクーフ死去

イスラム暦564[西暦1168-1169]年 完史英訳2巻P175-176
「アサド=アッディーン・シールクーフの死去に関する記事」

括弧内は管理人の注
管理人は翻訳・要約に責任を持たない

以下訳文
 

 アサド=アッディーンの足が確固として立ち、並ぶものがないと確信された時、運命は彼の上にふりかかった。「かくて我等は、素晴らしい(幸福)を授かって大喜びしているところを不意に捉えてやった[原注:コーラン6章44節]」。彼は564年ジュマーダ2月の22日水曜日[原注:1169年3月22日]に死去した。彼がその地位にあったのは2ヶ月と5日であった。
 彼の経歴およびヌール=アッディーンとのつながりと関連することだが、シャージーの息子たちである彼と彼の兄弟のアイユーブがドヴィーン(アルメニア地方の街)の出身で、クルド人の名家ラーワンディ族の一員であった。彼ら二人はイラクへやってきてバグダード知事のムジャーヒド=アッディーン・バフルーズに仕えた。ナジュム=アッディーンについて言えば、彼はシールクーフより年上であったが、彼は知的であり、良い性格と品行方正さを持ち合わせていた。彼(バフルーズ)は彼(アイユーブ)を彼が所持していたティクリートの城塞の城代に任命し、ナジュム=アッディーンはしかるべき時に彼の兄弟のシールクーフを呼び寄せた。既に記したように、526年[原注:1131-2年]に殉教者、アタベク・ザンギー・イブン=アクソンコルがカラージャ・アル=サーキーの手によって敗走し[原注:イブン・アル=アシールはここでは誤りを犯している。この年、カラージャはサンジャルによって打ち破られ処刑されており、同年の遅くにザンギーはサンジャルの援軍としてイラクへ呼ばれ、カリフ・アル=ムスタルシドと宦官のナザルによって打ち破られた]、ティクリートへの道をたどっていた時、ナジュム=アッディーンはティグリスを渡る船を提供した。彼に付き従っていた彼の部下たちと、彼らはアイユーブから多くを受け取り、道を送り出された。
 後にシールクーフがティクリートで口喧嘩の末に人を殺してしまった。バフルーズは彼ら二人を城から追い出し、彼らは殉教者ザンギーのもとへ向かった。彼は彼らを暖かく迎え入れ、彼らの恩義に応えるために寛大にイクターを二人に与えた。彼がバールベクの城塞を手に入れた後、彼はアイユーブをその城代に据えた。殉教者が殺された時、ダマスカスの軍勢が彼のいるバールベクを包囲したため、彼は難しい状況に追い込まれた。サイフ=アッディーン・ガーズィー・イブン=ザンギーは彼を助ける余裕がなかったので、アイユーブはバールベクをダマスカス勢に明け渡さざるを得なかった。彼はそこを諦める代わりに、指定した領地を見返りとして得た。これは聞き入れられ、彼はダマスカスのアミールのうちでも最も強力な一人となっていった。
 ザンギーの死後、彼の兄弟のアサド=アッディーン・シールクーフはヌール=アッディーン・マフムードに、彼の父の生前、彼の父にしていたように彼に仕えた。ヌール=アッディーンは彼と懇意にし、彼を昇進させ、他者には無い彼の勇猛さを見ぬいていた。彼は彼の上に褒美を多く与え、彼はホムス、ラフバ、その他の土地を持つまでになり、彼は彼を常備軍の司令官とした。ヌール=アッディーンがダマスカスを取ろうと望んだ時、彼は彼に兄弟のアイユーブと連絡を取るよう命じ、彼はそこにいたのだが、彼に征服事業への協力を頼んだ。彼は彼と兄弟への領地の提供を見返りに要請を承諾した。ヌール=アッディーンは彼らに望みの通りのものを与え、私が既に記したように、ダマスカスを征服した。彼は彼らを信用し、彼らはその国で最も強力なアミールとなっていった。彼がエジプトへ軍を送ることを計画した時、シールクーフただひとりがこの重要事を任せるに足ると判断した。彼はそこで彼を送り出し、彼がたどりついたことは、私が既に描写した通りである。
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鉄勒京二

Author:鉄勒京二
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