441年 その他の出来事

イスラム暦441[西暦1049-1050]年
完史英訳セルジューク朝分抄訳PP75-76
「その他の出来事」

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以下訳文
 

 この年のシャアバーン月[原注:1049年12月29日-1050年1月26日]、バサーシリーはバグダードからホラーサーン道を通って進軍し、ディズダール方面へ向かい、その街を奪取して全てを戦利品として奪った。サアディー・イブン=アブール=シャウクは以前そこを奪取した際に、城壁を建設して要塞化し、彼がその中で安全を得られ、かつ集めた戦利品を貯蔵できるように要塞を建てておいた。バサーシリーはその全てを奪取したのである。
 この年、カルフ地区の住民に、アーシュラーの日[原注:ムハッラム月の10日。シーア派信徒が殉教者フサイン・イブン=アリーを追悼する日]に嘆き悲しんだり、その他習慣として行なっていることを禁止する命令が出された。しかし、彼らはそれを受け入れず(アーシュラーの日の行事を)実行した。彼らとスンナ派との間で大きな混乱が起き、多くの人々が殺されるか傷つけられるかした。この問題はトルコ人達がわって入って彼らの天幕をその場に設営するまで収まらなかった。そして彼らは(騒乱を)中止した。カルフ地区の住民は彼らの地区の市壁周りの建物に立てこもり、カラーイン地区のスンナ派住民も、彼らが何をしているのか見た地区もカラーイン地区の市場の周りに壁を立て始めた。動揺が広がり、市場は閉鎖された。騒乱は拡大し、結局多くの人々が住居を求めて西岸から東岸へと移っていった。カリフはアブー=ムハンマド・イブン=アル=ナサウィーに命じて状況を収拾し、暴力を止めさせるために派遣した。西岸の人々はコレを聞き、スンナ派シーア派ともに彼に対抗するために団結した。カラーインその他の地区では彼らは「いざ至善の行為のために来たれ」と礼拝者たちに呼びかけ、その一方、カルフ地区では「礼拝は眠りに勝る」と呼びかけられ、公然と教友たちを祝福した[原注:それぞれの共同体ではアザーンで互いを区別していた。上の引用されているそれぞれの一節は、彼らがそれぞれのアザーンで呼びかけていたことを示しているが、シーア派は彼らの敵と連合していたわけである]。彼が(西岸へ)渡ろうとした計画は中止された[原注:以下、イブン=アル=ジャウズィによる。
この年に起こった出来事は、アブー=ナスル・アル=ナサウィーが河向うへ派遣され、市の秩序を回復させるために任命された。そこでカルフ地区、カラーイン地区、大麦門地区、バスラ門地区の一般市民たちは共通の運動を組織し、もしイブン=アル=ナサウィーが河を渡ってきたら彼らは市場に火をかけて街を離れると宣言した。カルフ地区の人々はカラーイン地区の門へ集まり、そこで祈り、または廟[おそらく聖人マアルーフ・アル=カルヒー[西暦816年頃死去]の廟であろう]で祈り、彼らのアザーン「いざ至善の行為のために来たれ」を流した。一方カラーイン地区の住民は旧市場とコットン商人たちのモスクで祈り、「礼拝は眠りに勝る」の一節を用いた。彼らは親愛の情を育み、友人どうしとなり、彼らの尊敬の念を示すために外に出てアリーとフサインの廟へ向かい、一方でカルフ地区では公然と教友たちの記憶に祝福が行われた。カルフ地区の男たちは宰相の館を襲ってアブー=ナスル・イブン=マルワーンを追い出し、彼を手ひどく扱って、彼が耐えるままにした]。
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鉄勒京二

Author:鉄勒京二
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