8章 ダーダネルス攻防第一部 part6

オットー・リーマン・フォン=ザンデルス
「Fünf Jahre Türkei」英訳 P.67-68

括弧内は管理人の注
管理人は翻訳に責任を持たない

以下訳文
 (承前)
 未だサロス湾への夜間の上陸が可能なことを鑑みて、私はブライルの頂上に翌朝まで留まった。しかし砲火を除けばその夜は静かなままだった。船がしばしば位置を変えていたのだ。4月26日の朝、敵艦の上部サロス湾への集中しているのは威嚇行為だと思われたので、私は第五、第七師団のうち、遠い方を次の夜にマイドスへボートで移し、二個師団の砲兵隊をマイドスへ陸路で移すよう命じた。私は第五軍団の幕僚長で副官のキアジム・ベイ大佐を、もし、次の24時間で敵の上陸の試みが無ければ、第五第七軍団の残部を全て動かすよう指示し、サロス湾の指揮に任じることにした。
 これは、以下の状況を生じせしめた。敵の戦闘艦と輸送艦が兵力を釘付けにするために示威行為を行なっている間に、ほとんどトルコ兵は上部サロス湾を出払ってしまったのだ。最終的に、キジアム・ベイ中佐は工兵中隊の本部とわずかな強制軍務大隊(labor battalions)を手元に残すだけになっており、彼は彼らに尾根の上にテントを張らせて兵力が存在しているように偽装した。上部サロス湾からの全兵力の引き上げは、危険で、かつ責任ある指揮官としての私の立場から隔たったものだったが、敵軍が半島南部で極端に優勢である以上、リスクを冒さざるを得なかったのだ。もしイギリス軍がこの弱点に気づいていたら、彼らはおそらく決定的な優位を占めるための行動に躊躇しなかっただろう。
 英国艦はガリポリをサロス湾から直接大口径の平射砲で砲撃し、特に海岸近くの多くの家を破壊した。
 4月26日の早朝、第五、第七師団からの援軍がマイドスに届いた後、エサド・パシャは彼らをセド・エル・バールの南部に送った。というのも、そこの戦闘が最も激しかったからだ。第五師団のいくつかの小規模な分隊は第十九師団の増援として、アリ・ブルヌに送り込まねばならなかった。
 上陸後、最初の数日間は、多くの援軍を送り込まねばならないほどの危険度のために、組織性を維持するのが難しかった。
 彼の指揮する第五師団とともにゾーデンシュテルン中佐が到着したので、セド・エル・バールの指揮を取らせ、また私はエサド・パシャをアリ・ブルヌの前線の指揮にあてた。
 私自身は二人のドイツ人副官、騎兵大尉のプリッジと獣医務大尉のティーメを伴って、アリ・ブルヌの戦場から4.5kmほど離れたところにある丘、マル・テペのエサド・パシャのテントに司令部を置いていた。第五軍団の人員はガリポリに残しておいた。
 四日間の激しく辛い戦いが成功に終わり、4月29日、ニコライ中佐指揮下の第三師団はクム・カレから上陸してきたフランス軍に痛撃を与え、イェニ・シェヒル―植民地軍と第百七十五歩兵連隊―まで進軍し、彼らを叩きだし船に押し込め、アジア側から完全に敵を締めだした。全体的な状況を鑑みるに、これは極めて重要な意味を持っていた。最初の場所において、要塞はもはやその弱みを晒している方向から攻撃されることはなくなり、第十一トルコ師団はガリポリ半島の南部、最も激しい戦闘が行われているところへ引き上げることが可能となった。
 師団はすぐにチャナッカレへ移動を開始し、深夜にボートを用いてヨーロッパ側の岸辺へ渡り、セド・エル・バールの前線に加わった。第三師団は種々の兵員を援軍として半島の戦場へ送り込んだ後、この時はダーダネルス海峡の入り口の南側にあたるアジア側の岸辺を守るため単独で残された。
 ガリポリ上陸作戦に関する以下の短い記述を理解するために、ここで、彼らはもっぱら第五軍団の兵員によって戦ったのであり、トルコ=ドイツ海軍はほとんど参加していなかったことを書き添えておこう。

 
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