名士列伝:書記のイマードゥッディーン

『名士列伝』英訳3巻PP.300-306
The katib Imad ad-Din al-Ispahani
「書記のイマードゥッディーン・アル=イスファハーニー」

角括弧内は原注、丸括弧内は管理人の注
改行は管理人が適宜行った
管理人は翻訳に責任を持たない

以下訳文
 

 アルフの称号と、イマードゥッディーン[信仰の柱]・アル=カーティブ・アル=イスファハーニー[イスファハーン出身の書記]の二つ名で知られる、アブー=アブドゥッラー・ムハンマド・イブン=サフィーユッディーン・アブー=アル=ファラジュ・ムハンマド・イブン=ナフィースアッディーン・アブー=アル=ラージャ・ハーミド・イブン=ムハンマド・イブン=アブドゥッラー・イブン=アリー・イブン=マフムード・イブン=ヒバトゥッラーは、イブン=アヒー=アル=アジーズ[アジーズッディーンの甥]の称号で有名である。私は既に彼の叔父[vol.1-p.170]について、ハムザの見出し文字の項で記した。
 イマードゥッディーン・アル=イスファハーニーは、シャーフィイー派の教授で法律を研究しており、一時期はニザーミーヤ学院[vol.2-p.164]で同時に自然科学、論証神学、そして様々な分野の純文学を学んだ。彼の詩と書簡については言うまでもない。
 彼は生まれてからの数年をイスファハーンで過ごし、少年の間にバグダードに移って法学をニザーミーヤ学院のアブー=マンスール・サイード・イブン=ムハンマド・イブン=アル=ラッザーズ師から学んだ。彼はハディースを同じ街でアブー=アル=ハサン・アリー・イブン=ヒバトゥッラー・イブン=アブドゥッサラーム、アブー=マンスール・ムハンマド・イブン=アブドゥルマリク・イブン=ジールーム、アブー=アル=マカーリム・イブン=アリー・アル=サマルカンディー、アブー=バクル・アフマド・イブン=アリー・イブン=アル=アシュカルや、その他の師から学んだ。
 熟達した学識を獲得し、修学を終えるまでそこに居住した後、彼はバグダードにいた宰相アウンヌッディーン・ヤフヤー・イブン=フバイラ(アッバース朝のムクタフィー2世の宰相)の愛顧を得て、バスラの[州の行政の]監査官の地位を手に入れた。そのしばらくの後、彼はワーシトの同様の職に任じられ、それ以来各地を転々としてきた。アウンヌッディーンの死後[A.H.560,A.D.1165]、彼の部下たちは全て解散した。そのうちのいくらかは不運に見まわれ、イマードゥッディーンもいっとき困窮と惨めさを味わった。
 彼はそこでダマスカスへ向かい、ヒジュラ暦562年シャアバーン月[1167年5-6月]に到着し、カーディーのカマールッディーン・アブー=アル=ファドル・ムハンマド・イブン=シャフラズーリー[vol.2-p.164]の知遇を得た。カマールッディーンはその時は知事で、アタベク・ザンギーの息子でスルタンのアル=マリク・アル=アーディル・ヌールッディーン・アブー=アル=カーシム・マフムードの名の下に、街の為政者であり国の大臣であった。
 そこで起こったことは、カーディーの前で客を迎えて論争の疑問点について議論していたところ、イマードゥッディーンは、重要なアミールであり、スルタン・サラーフッディーンの父であるナジュムッディーン・アブー=アル=シュクル・アイユーブ[vol.1-p.243]にその顔を見とめられた。ナジュムッディーンはティクリート城で彼の叔父のアル=アジーズ[vol.1-p.170]と知り合っていたのだった。それ以来、ナジュムッディーンは何かと彼の面倒を見、もっとも著名で優れている人の名誉の徴があるかのように彼を扱った。
 彼の生活を通じて、イマードゥッディーンはダマスカスにいたスルタン・サラーフッディーンと知り合い、彼の賞賛を得る機会を手にした。イマードゥッディーンはこの事情を彼の『アル=バルク・アル=シャーミー』(『シリアの稲妻』)の中で述べ、またその中でサラーフッディーンの名誉を詠んだ頌詩を収録している。
 カーディーのカマールッディーンは、彼の優秀さと才能をスルタンのヌールッディーンの御前で激賞し、公文書の起草に全きうってつけの人物であると推薦した。
 「私は二の足を踏んだ」と、イマードゥッディーンは述懐している。「従事させられようとした職は私の職分から全く外れているものだったし、私はこれまでそんな経験をしたことがなかったのだ」。それでもしかし、彼はこの仕事に必要な技能を備えているに違いないと思われたし、彼だけが承諾していなかった。まず彼はそういう場所で生ずる重責を憂いていたが、問題が取り除かれるとすぐに仕事を開始して、彼の仕上げたものの素晴らしさによって、彼の能力は証明されることとなった。彼は書簡をペルシア語であってもアラビア語であっても同じようにうまく書き上げた。
 近く親しい友情が彼とサラーフッディーンとの間で育った。
 ヌールッディーンの覚えもめでたくなり、彼は君主の機密を預かり、バグダードにいるイマーム(カリフ)のアル=ムスタンジドのもとへ派遣された。彼が戻ってくるなり、ヌールッディーンは彼を、後に彼にちなんでアル=イマーディーヤと呼ばれることになる学院の教授職につけた。この指名は、567年のラジャブ月[1172年2-3月]のことであった。
 それから数年間、ヌールッディーンは閣僚の長[イシュラーフ・アル=ディーワーン]に彼を就任させていた。イマードゥッディーンの幸運と心の平穏は彼の君主の死によって掻き乱された。彼の後は息子のアル=マリク・アル=サーリフ・イスマイールが継いだ。この君主はまだ幼く、陥れられイマードゥッディーンに敵意を持つ人々に統治させることを許してしまい、彼らの侵犯の圧力と脅しのために、彼はその住居を去ってバグダードへ向かった。モスルへ到着したところ、彼は病を患い、そしてスルタンのサラーフッディーンがダマスカスを占領する目的でエジプトを発ったことを知り、イラクへの旅を中断し、シリアへ戻ることを決意した。
 570年ジュマーダー1月の4日[1174年12月1日]にモスルを発ち、彼は砂漠を突っ切る道を通って、翌月の8日にダマスカスへ到着し、その間サラーフッディーンはアレッポの郊外に野営していた。彼はそこで彼のこの君主への敬意を発表し、彼は既にシャアバーン月までにエデッサの所有権を手に入れ、彼の権威が認められていたのだが、彼にそのこころの崇高さを称える頌詩を朗唱した。これ以来、彼はスルタンの御前に近侍し、スルタンが旅をすれば旅をし、とどまればとどまった。
 彼がこの状況を手に入れるまで注目すべき時があった。その時、彼はサラーフッディーンの御前会議に出席し、彼らの間での旧交をほのめかしながらそれぞれの機会に応じた賞賛の言葉を朗唱した。ついにスルタンの業務に加わることに成功し、彼は書記となって主人の信頼を得た。宮廷の中で最も高い恩顧を受けるようになり、国において宰相とまでみなされるようになり、彼はその仕事に没頭した。
 カーディーのアル=ファーディル[vol.1-p.111]について言えば、彼はしばしば御前におらず、完全にエジプトの直接統治にあたっていたから、イマードゥッディーンは彼の最も重要な機密を打ち明けられる顧問の立場にあり、シリアや他の帝国の地域への君主の移動に随行する時は、必ず君主の側を離れることはなかった。
 『アル=シッル・アル=マクトゥーム』[本書は法に則った占星術を扱っている]を著したのもまさに彼である。
 彼は他にも多くの役立つ著作をものしており、例えば『カリーダ・タル=カスル・ワ・ジャリーダ・タル=アスル』[『時の宮殿の乙女と椰子の葉』]は、アブー=アル=マアッリ・サアド・アル=ハーフィズ[vol.1-p.563]の『ズィーナ・タド=ダフル』の続編として彼が計画したものであり、またそれ(『ズィーナ・タド=ダフル』)はアル=バーカルズィーの『ドゥンヤー・タド=ダフル』の続編で、これもまたアル=サアリビーの『ヤティーマ・タド=ダフル』の続編であった。アル=サアリビーは彼の作品をハールーン・イブン=アリー・アル=ムナッジムの『キターブ・アル=バーリー』の続編として位置づけていた。この作者については、私が既に記した通りである。 イマードゥッディーンの『カリーダ』は500年[1106年]から572年[1176年]の華々しい詩人たちの記述からなっており、本書は何人かの例外を除き、イラク、シリア、メソポタミア、エジプト、そしてマグリブの全ての詩人を網羅しており、著者の卓越した能力を示すものである。
 彼の作品であり、7巻からなる『アル=バルク・アル=シャーミー』[『シリアの稲妻』]は歴史を対象としている。本書で著者はイラクからシリアへの旅と、スルタンのヌールッディーンに仕官した時に何が起こったかという彼自身の人生の経歴から話を始めている。次にどのようにしてスルタンのサラーフッディーンに仕官したかを述べ、シリアでの征服活動について言及する。彼はこの役立つ本に『シリアの稲妻』という名前をつけた。というのも、彼が過ごしたこれらの日々は、その喜びと時間の過ぎ去る早さがまるで雷光のようであったからである。
 彼の『アル=ファス・アル=クッスィー・フィ=アル=ファス・アル=クドスィー』[『コッスのイェルサレム征服についての解説』](『征服の書』)は、2巻からなり、イェルサレムが[十字軍から]奪取された状況を解説している。
 『サリ・アラー・アル=ザイル』[『雨後の奔流』]はカティーブ[vol.1-p.75]の『バグダード史』の続編であるイブン=アル=サーマーニー[vol.2-p.156]の作品の補遺として彼が計画した。
 そして少なくとも、私は聞いたことがあったのだが、『カリーダ・タル=カスル』の続編であるべき作品を見つけた。『ヌスラ・タル=フィトラ・ワ・オスラ・タル=フェトラ』[『憂愁への加担と人類の避難所』(?)]の中で、彼はセルジューク朝の歴史について記述している。彼はまた、『ディーワーン[書簡]集』と、4巻の詩集も残している。その頌詩からは彼の高尚な心構えが見て取れる。また別の短い書簡は、全て四行詩からなっている。
 数多くの興味深い手紙と会話が彼とカーディー・アル=ファーディルとの間で交わされた。ある日馬上で彼と出会った時、彼は言った。「進み給え。さすれば汝の馬はよろめくことはあるまい!」。それにカーディーが答えて曰く。「イマードゥッディーンの栄光よ永久なれ!」。この会話は後にも先にも同じように読まれることだろう。
 彼らはある日、スルタンの随行員として馬に乗っており、砂塵の中で多くの騎兵に襲われ傷を負い、さんざんに打ち負かされたので、イマードゥッディーンは即席で以下のように朗唱してみせた。

 砂塵が馬の蹄に舞い上がり、空は暗く覆われた。しかし汝の存在は光を発した。おお運命よ! 私アブドゥルラヒーム、私はお前の牙に触れることを恐れはしない。

 これら三つの韻文は言葉の巧みさをを良く表した。
 574年[1178-9年]に、アル=カーディー・アル=ファーディルはエジプトを出発し、船に乗って巡礼を行ったが、イマードゥッディーンは以下のように手紙で話している。
「警告と知性の占有者にして、またその栄光が星々に届き、光にも闇にもあまねく存在する方から、ヒジルとアル=ハジューンに幸福あれ! 寛大さの中心である方からカアバに集まった人々に、また聖なる供物に真実の道を指し示す方から[幸福あれ]! その威厳ある存在から[アブラハムの]威厳ある場所に、また貧困の背を打ち破る方からハティームに[幸福あれ]! 彼が現れた時、彼はピラミッドを聖域と見なし、ザムザムの井戸から水を組みだした彼の周りを鳥が舞い、海では、彼は[寛容なる]海であり、陸ではそれ自身が慈悲となる。コッスは今や彼のオカーズに戻り、カイスは彼の伝統に立ち返った。恵みと寛大さの根源である者が訪れたカアバを讃えよ。その先に[あまねき]慈悲と尊重の中心があるキブラを[讃えよ]。草々」
 この文書は並外れた芸術性と技巧からなっているが、カイスとその伝統について語る時に明らかに間違いを犯している。彼は「アンスは伝統に~」と書くべきであり、これはよく知られている以下の言葉による。すなわち、伝統のアンス、である。
 彼は4人兄弟であった。それぞれ関連した独特の称号を持っている。本筋から外れて記事が長くなるのを厭わないのならばここで記してもいいのだが――。
 宰相のアインヌッディーン・イブン=フバイラの死によって、カリフの政府は彼の部下たちの多くを逮捕したが、イマードゥッディーンは彼のワーシトでの代官として振舞っていたので、その中に含まれていた。560年のシャアバーン月[1165年6-7月]、イマードゥッディーンは牢獄から、宮廷の長[ウスタド・アル=ダール]として振舞っていたイマードゥッディーン・イブン=アドゥドゥッディーン・イブン=ライース・アル=ルワサーを通じて、カリフのムスタンジドに以下の頌詩を献上した。

 イマームに申されよ、「なにゆえなんじの被保護者[ワリ]を捕らえられますか? 忠実にあなたにお仕えしてきた者に、慈悲をお与え下さい」。雲が雨[ワリ]を降らすのをやめた時、彼の父は彼の請願によって、彼らを自由にしませんでしたか?

 [この言葉を聞いてカリフは、]彼を解放するよう命じた。この中には、独自の考えと、ウマル・イブン=アル=ハッターブと、預言者の叔父であるアル=アッバース・イブン=アブドゥルラヒームの故事への言及が含まれていた。ウマルの治世に旱魃が広がって稔りがなくなったので、彼らは雨乞いを人々とともに行った。彼は定位置を占めて、以下のように言った。「全能なる神よ! 我々は旱魃に苦しんでいるので、預言者へのあなたの好意を通じてあなたの助けを乞うてきました。しかし、この日は我々の預言者の叔父に対するあなたの好意によって懇願します。雨をお降らせ下さい」。そして雨が降った。
 ワリという単語が詩の中にあったが、これはワスミの後にくる雨を表している。これはワリと呼ばれているのは、ワスミの後にくるからである。ワスミは地球上の植物のしるし[ワスム]となっている。これは、ワスミ[しるし]から派生した形容詞である。
 アル=ムタッナビーは両方の単語を以下の詩の中で用いている。

 あのガゼル[乙女]が新しい愛情を示してくれたが、最初の慈悲の雨[ワスミ]は二度目[ワリ]はないのだろうか?

 彼は彼女が二度と訪れることがないということを表している。
 イマードゥッディーンは書記の仕事を得て、サラーフッディーンが死去するまで[A.H.589,A.D.1193]高い地位を保持した。この出来事は彼の立場を弱め、彼から影響力を奪った。全ての扉が彼に対して閉ざされるのを見て、彼は彼の家に引きこもり、彼の作品を作り上げることに没頭した。彼はこのことについて『アル=バルク・アル=シャーミー』の中で少し言及している。
 イブン=アル=タアーウィーズィー[vol.3-p.162]の事績の中で私は、彼がイマードゥッディーンから毛皮の外套を所望された書簡と頌詩が存在することについて言及し、また我々は既にどちらの文書に対しても返信があったことを伝えた。
 イマードゥッディーンは519年のジュマーダー2月―別の説ではシャアバーン月―の2日の月曜日[1125年7月6日]に生まれ、597年のラマダーン月1日の月曜日[1201年6月5日]に死去した。彼はバーブ・アル=ナスルと呼ばれている門の外側にあるスーフィーの共同墓地に葬られた。
 政治の位階を極め、彼が死の床についていた時に彼とともにいたある人が、私に、いつであれ彼に来客があったときイマードゥッディーンは以下の詩を吟じたと教えてくれた。

 私はあなたの住まいに客として訪れた。おや、主人はどこだ? 私の知人はもはや私を知らず、私が知っている人たちは亡くなった。

 「アルフ」という単語はペルシア語でワシであり、アラビア語ではオカーブという。オスのワシが全く存在しなくなった時、存在するメスは他の種の鳥のオスに妊娠させられると言われている。別の説では狐に妊娠させられるともいう。しかしこれは、たかがおとぎ話だ。
 イブン=ウナイン[vol.3-p.176]はイブン=シーダと呼ばれている人物を以下の詩で皮肉っている。

 なんじはワシにすぎない。私はお前の母親が誰かは知っている。だが誰もお前の父親が誰かは知らぬ。

 これは今私が述べた説をほのめかしたものだ。だが、真実は神のみぞ知り給う。
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鉄勒京二

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