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名士列伝:アル=ラーズィー

『名士列伝』英訳3巻PP.311-314
Abu Bakr al-Razi (Rhases)
「アブー=バクル・アル=ラーズィー(ラーゼス)」

角括弧内は原注、丸括弧内は管理人の注
改行は管理人が適宜行った
管理人は翻訳に責任を持たない

以下訳文
 

 アブー=バクル・ムハンマド・イブン=ザカーリヤー・アル=ラーズィー[ライ出身]は、著名な医学者である。イブン=ジュルジュル[アブー=ダーウード・スライマーン・イブン=ハサン、通称イブン=ジュルジュルは後ウマイヤ朝のヒシャーム・アル=ムワイヤドゥッラー(ヒシャーム2世)に仕えた医学者である]は、彼の『医学者史』の中で、以下のように述べている。
「彼[アル=ラーズィー]は、はじめはレイで、のちにはカリフ・ムクタフィー治下のバグダードで病院の院長であった。若いころ、彼はリュートや、洗練された声楽を嗜んでいた。しかし成人してからはこれらの道を、口髭と顎鬚の間からいずる音楽はあえて行うような魅力が無い、といって退けた。それから彼は医学と哲学に専心するようになり、これらの学問の書籍を、熟読して著者の意図を確かめ、これらの学問の深奥を極め、また何であれ彼が読んだ論文に含まれていた真理は自らのものとした。ラーズィーは病気を診察しはじめ、医学に関する膨大な数の著作を著した」
 また、別の著者も以下のように述べる。
「彼は当代で最も有能な医学者で、最も有名だった。完全な薬学の要領を習得しており、その技術を習得し、その原則と規則を完全に修めていた。弟子たちは彼の講義を受けるため、遠方からはるばるやってきた。彼は多くの役立つ医学書を著しており、30巻からなる大部の論集『アル=ハーウィ』[『(医学)体系』]は、標準的な医学の典拠を含み、彼らは判断の難しい症例の場合、これを参照した。彼の『ジャーミー』[収集者]は、これも大部で役立つ作品であり、また彼の『キターブ・アル=アクターブ』も頁の多い著作である」
 彼の医学論集を要約した『キターブ・アル=マンスーリー』は大変な評判で、にも関わらず、ごく一部しかしっかりと理解されていない。この論集では、彼は経験と論理を結びつけ、(初学者から習熟者まで)全ての程度の人に合うように重要な情報を抜き出して与えている。彼はこの作品を、サーマーン朝の王の一人であるアブー=サーリフ・マンスール・イブン=ヌーフ・イブン=ナスル・イブン=イスマイール・イブン=アフマド・イブン=アサド・イブン=サーマーンのために献呈し、ゆえにその書に『アル=マンスーリー』と名付けたのである。これらの他に彼は他の多くの著作をものしたが、それらは医学者にとって欠くことのできないものである。
 彼は以下の様な言葉を残している。「もしあなたが摂生して治るのであれば、薬に頼るのはよしなさい。そして簡単な薬で治るのであれば、強い薬に頼るのはよしなさい」。また曰く「よく学んでいる医師と、素直な患者であれば、病はすぐに消えるだろう」。さらに「初期症状はあまり強い薬を用いないことだ」。
 彼はその人生が終わるまで、その専門分野で先端を走り続けた。彼は年をとってから、一説によると40歳以上で医学を学び始めたという。
 その長い人生の終わり頃には彼は失明し、311年[923-4年]に死去した。
 彼は『フィルドゥース・アル=イリキナ』やその他の役立つ著作を残した医学者アブー=アル=ハサン・アリー・イブン=ラブン・アル=タバリー[タバリスタン出のユダヤ人の家系に属する医学者]のもとで学んだ。アル=タバリーは最初はキリスト教徒[イブン・ハッリカーンの誤解で、ユダヤ人である]であったが、後にイスラームに改宗した。
 私は既に[vol.1-p.101]、ラーズィーの言葉の意味を説明した。サーマーン朝の王たちについて言えば、彼らはトランスオクシアナとホラーサーンのスルタンで、そこを治めた中では最も良い王朝だった。その君主たちはスルタン中のスルタンと呼ばれており、この称号はその王者の真の名前だと考えられていた。彼らはその正義、信仰心、学識によって知られていた。この王朝は後に私は彼の人生についても記すつもりでいるが、そのマフムード・イブン=サブクテギン(ガズニのマフムード)によって倒された。サーマーン朝は102年と6ヶ月の間統治した。
 この記事の中で言及したその王族のアブー=サーリフ・マンスールは、365年のシャッワール月[976年6月]に死去した。彼は、アル=ラーズィーが彼の教育のために『マンスーリー』を著した時にはまだ少年だった。
 以上のことを書いてから、私はこの作品の表題紙の写しを見たが、それがキルマーンとホラーサーンの王侯でバフラーム・クーシュの末裔であるアブー=サーリフ・アル=マンスール・イブン=ジュシャク・イブン=アフマド・イブン=ヌーフにちなんで名付けられたと記してあった。どちらの記述が正しいのかは神のみぞ知り給う。
 イブン=ジュルジュルはまた、彼の『医学者史』の中で、アル=ラーズィーは先程と同じ人物のアル=マンスールのために、錬金術の真実を立証した論集を著し、バグダードからその本を彼に贈るためにやってきたという話を伝えている。アル=マンスールは大いに喜んでこの著作を受け取り、その報酬として著者に計1000ディナールの褒美を与えた。
 アル=マンスールがアル=ラーズィーに言うことには、「私は其許がこの本で言及している物を其許に作り出してもらいたい」。アル=ラーズィーが答えて曰く「それは骨の折れる仕事です。その遂行には莫大な資金が必要で、また様々な器具や薬品が完璧な精度でなくてはなりません。さらに、これらは全て技術的な手順に則って扱われねばならず、そのために、この作業は困難を極めるのです」。アル=マンスルールがまた言うことには「其許が必要とする装置と、必要とする物品全てを用意させよう。そうすれば、其許はその本の記述[の物質を]作り出せるであろう」。王侯が本気であることが分かったが、アル=ラーズィーはこの仕事を受けて、彼自身これを行うことが出来ないということを明らかにするのをためらった。そしてアル=マンスールが言うには、「私は哲学者が彼が書いた学術論文で故意の偽りを述べるとは思わなかったが、そんな論文は人々の心を何の利益も得ぬ仕事に駆り立てるだろう。私は其許に来訪と旅の報酬として1000ディナールを与えたが、故意の偽りに対しては罰を与えねばなるまい」
 彼はそうして彼の頭をムチで叩き、旅費を与えてバグダードへ送り返した。叩かれたためにアル=ラーズィーの視力はひどく低下したが、浮世を見るのは沢山だと言って、彼は外科手術を受けようとしなかった。
 [マンスールの]父のアブー=ムハンマド・ヌーフ・イブン=ナスルは343年のラビー2月[954年8月]に死去した。彼の祖父アブー=アル=ハサン・ナスル・イブン=イスマイールは、295年サッファール月14日の火曜日にブハラで死去した。彼は234年[848-9年]にフェルガーナで生まれたのであった。アブー=イブラヒームはハディースを書き下すのを楽しみにしており、後学の人であった。アフマド・イブン=アサド・イブン=サーマーンは250年[864年]にフェルガーナで死去した。これらの情報はこの記事の主題からは離れているが、話の流れで記したまでである。これらもまた、必要な情報であった。
プロフィール

鉄勒京二

Author:鉄勒京二
当ブログは一介の歴史好きが読んだ本を紹介したり、書いた文章を公開したりするための場です。執筆記事は西アジア史関係が多いですが、読書は西アジアにこだわらず地域・時代を広く浅く扱っています。
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