名士列伝:アルトゥク

『名士列伝』英訳1巻PP.171-172
Ortuk ibn Aksab
「アルトゥク・イブン=アクサブ」

角括弧内は原注、丸括弧内は管理人の注
改行は管理人が適宜行った
管理人は翻訳に責任を持たない

以下訳文
 

 アルトゥク・イブン=アクサブは、アルトゥク朝の名祖で、フルワーンとアル=ジャバル[ペルシア系イラク地方]を領地としていた。彼はマリク・シャーを恐れ、ファクルッダウラ・アブー=ナスル・ムハンマド・イブン=ジャヒールのもとを離れてその後シリアへ赴いた。これは478年か479年のことであった[マリク・シャーの将軍であったファクルッダウラが、シャラフッダウラ・ムスリム・イブン=クライシュに対してアルトゥク・イブン=アクサブにその攻撃を命じたのが479年であったとイブン=アル=アシールは書いている。アルトゥクはシャラフッダウラをアーミドに包囲し、シャラフッダウラはアルトゥクを買収して街から逃れた。これがマリク・シャーの怒りを招き、アルトゥクはシリアへ逃亡した]。
 彼はその後セルジューク家の王侯の一人であったトゥトゥシュの名の下にイェルサレムを統治した。トゥトゥシュの事績については後に述べる。
 アルトゥクはその後、後に言及する年にそこで死ぬが、彼の二人の息子、ソクマーンとイルガーズィーは街の統治者となり、この二人の王侯からイェルサレムを奪うためにアル=アフダル・シャーハンシャー・アミール=アル=ジュヤーシュ(ファーティマ朝の宰相)がエジプトから軍隊とともに進撃してくる491年のシャッワール月[1098年9月]まで権力を行使した。
 彼らはメソポタミアへ引き上げ、ディヤルバクルの統治権を手に入れたが、現在のマールディーンの城主は彼らの末裔のうちの一人である。501年、ナジュムッディーン・イルガーズィーはマルディーンのあるじとなり、スルタン・ムハンマドはそれ以前に、彼をバグダードの駐留武官としていた。
 アルトゥクの別の息子のソクマーンは扁桃腺炎で498年[1104年の終わり頃]に、トリポリとイェルサレムの間の地で死去した。
 アルトゥクは鋭い洞察力を持っており、彼は不屈にして行動の人であり、その試みにおいて大いに繁栄した。
 彼は484年[1091年]に死去した。
 なお「アクサブ」は時に「アクサク」と綴られる。
プロフィール

鉄勒京二

Author:鉄勒京二
当ブログは一介の歴史好きが読んだ本を紹介したり、書いた文章を公開したりするための場です。執筆記事は西アジア史関係が多いですが、読書は西アジアにこだわらず地域・時代を広く浅く扱っています。
当ブログの内容を雑誌・書籍等にご利用されたい場合はご一報下さい。
管理人への連絡は掲示板か拍手でどうぞ。

検索フォーム
カテゴリ
リンク
アクセスカウンター
月別アーカイブ